だからこそ、この季節は忘れられない【11】#創作大賞2025 #恋愛小説部門
第4話 夏:ひまわりの中で②
***
(5年前・カイ視点)
――7秒、目が合えば恋が生まれる。
だが、リコは言った。「好きな相手なら目をそらす」と。
俺たちは互いの瞳をじっと見つめ合ったまま、まるで時間が止まったかのように動かない。
リコの瞳は、深く、真っ黒で、奥が読めない。その黒い瞳が、まっすぐに俺を捉えている。
――目をそらさないということは、つまり。
俺には、何の特別な感情も抱いていないってことだ。
…当たり前だ。そして、ホッとするところだ。
恋愛に巻き込まれるのは面倒だ。俺は女嫌いだ。だから、恋愛に発展しない相手の方が気楽なはずだった。
――なのに…このざわつく気持ちは、何だ?
リコは「恋愛に無縁」だと豪語していた。でも今では「運命の相手」に恋をしている。
――結局、リコも他の「女」と同じなのか。
そんな当たり前の事実に気づいてしまった瞬間、心の奥にわずかなざらつきが広がる。
心の中で渦巻くこの感情を、言葉にすることが怖くて。
リコの目から逃げようとしたその時――
「なに?」
気付けば、リコが俺の頬を両手でつねっていた。
「どうした?なんかイヤなことでもあった?」
そう言うと、彼女は両手を広げてニヤリと笑う。
「ほら、私の胸ならいつでも貸してやるぞ~」
冗談だとわかっている。でも、その瞳の奥にわずかに見える本気みたいな色が、俺の心をざわつかせる。
リコは年上なのに、まるで子どもみたいに無邪気で自由で。周りの空気なんてまったく気にせず、思ったことをそのまま口にする。ほんと、危なっかしい…。
「ほら、ほら」
リコは体を小さく揺らして、俺の反応を楽しんでいる。
――他の男にも、こんな風に無防備に笑うのか?
そんな疑念が一瞬、胸をかすめたけど。
すぐに振り払った。目の前にいるのは、俺が知っているリコだ。自由で、無邪気で、ちょっとだけ危なっかしい――そんな彼女。
俺は小さくため息を吐いて言った。
「…もういいから、早くいくぞ」
「おっ、笑った! カイ君、もっとこっち向いて笑って~」
「うっさい」
「元気出た?」
「出ない」
「ええー? じゃあさ、もう少し散歩する?」
「は?」
「だって、まだ元気でないんでしょ?
だったら、一日の終わりは楽しいことで締めくくらなきゃね?」
そう言うと、リコは俺の背中を軽く押してきた。
その小さな力に、俺はなすがまま、歩き出していた。
***
途中で立ち寄ったコンビニで、俺たちは缶ビールを買った。リコに促されるまま、東京タワーが見える公園のベンチに腰を下ろす。
「はい、どうぞ」
リコが俺に缶ビールを手渡す。
俺はプシュッと音を立てて開けた。リコも同じように缶を開け、俺のビールに軽くぶつけてきた。
「乾杯!」
「……乾杯」
ビールを一口流し込む。
冷たさと苦みが喉をすべる感覚が心地いい。隣を見ると、リコが楽しそうに笑っていた。
彼女の笑顔が、さっきまで胸の奥に引っかかっていたモヤモヤを、少しずつ溶かしていくようだった。
「リコ」
「ん?」
「……リコってさ」
リコは小首をかしげて、俺を見上げる。
何を言おうとしたのか、俺は。口に出かけた言葉を飲み込み、代わりに別の言葉が飛び出した。
「…メイク、似合ってない」
「はあ? ひどっ」
リコは目を見開き、驚いたように俺を見つめる。
だけど、すぐに口元にいたずらっぽい笑みを浮かべて、俺を見ている。
「ってことは、素顔の方がいいってこと?」
――なんでそういうこと、平気で言えるんだよ。
俺は視線をそらし、缶ビールをもう一口飲む。
それでも、リコの声が、笑顔が、じわりと胸に染みていく。
――この時間が、もう少し続けばいいのに。
そう思いながら、俺は静かに空を見上げた。
夜空に静かにそびえる東京タワーが、リコの横顔を優しく照らしていた。その光の中で、リコの笑顔がいっそう輝いて見えた。
「なあ、今日泊まっていい?」
「どうぞ、セフレ君」
***
――負けた気がする…。
結局、俺はリコと一緒にバーへと舞い戻っていた。
だが、戻った店内には、見知らぬ男がカウンターに腰掛けていた。すると、ルイがこちらに気づいて、わざとらしく声を張る。
「リコちゃーん、来たわよ。うわさのカ・レ!」
「わっ。この前はどーもー!」
リコは嬉しそうに小走りでカウンターへ向かい、その男の横に座る。
俺の定位置だったはずの、リコの隣の席――そこにはその男が当然のような顔で座っている。
…なんだ、これ。
その光景を目にした瞬間、無意識に足が止まり、引き返そうと体が動いた。だが、ルイが俺の腕を引き、テーブル席に引き込んだ。
「ほら、アレが噂の“運命の相手”よ」
「結局、来たんだな」
リコは男の話に笑いながら、楽しそうに相槌を打っていた。
その姿が、胸の奥を深いな熱でじわじわと満たしていく。
「……盛り上がってるみたいだし、俺帰るわ」
椅子から腰を上げかけると、ルイが俺の肩を押し込んで再び席に座らせた。
「まあまあ、もう少し様子見ましょうよ」
「はあ?そんな趣味ないし」
「気にならないの?」
「別に…」
「ふーん、セフレはお互いのことに干渉しないものなのね~?」
「…」
セフレの条件1「何も聞かない」。つまり、お互い干渉しないということ。だから、気にしたらいけない。
でも――本当に気にならないかと聞かれたら、答えられなかった。
目を逸らすべきだと思いつつも、視線はリコとその男に吸い寄せられていく。見たくない。でも目を離せない。
「複雑な顔してるカイちゃんも好きよ」
「なんだよ」
「カイちゃん?大丈夫なの?」
「何が?」
「セフレのことに決まってるじゃなーい」
「…自分で決めたことだし…。そばにいたいと思ったから」
「きゃーーーー、カイちゃん大スキー!じゃあ今日は私と飲み明かしましょうよ、ね!もうバンバン開けちゃうわ!ぜんぶリコちゃんにつけとくから安心しなさい~」
ルイはノリノリで席を立ち、ボトルとグラスを抱えて戻ってきた。
俺はなんとなく視線をリコたちの方へ向けながら、ルイと酒を飲み続けた。どのくらい飲んだかは覚えてない。ただ、飲むしかなかった。
…気づけば、カウンター席にリコと男の姿はなかった。
「あらカイちゃん、起きた?もう、夜はこれからってときにすぐ寝ちゃうんだもの~、寂しかったわ!次は、最後まで、私の相手してよね」
ルイの明るい声に、頭の奥で鈍い痛みが響く。
視線を彷徨わせながら、俺はルイに聞く。
「…、あの二人は?」
「とっくにお開きよ。二人で外へと消えていったわ。しかもね~」
「なんだよ」
「まだリコちゃん、部屋に戻ってないみたい。もしかしたら――きゃー!運命の相手と―きゃーーー!みたいなことかしら?やだーお赤飯炊かなきゃかしら~」
ルイの冗談めいた言葉が胸を刺すようだった。
大人の男女二人が夜の街に消えていった…。その光景を想像するだけで、心がざわつく。
何も言い返せないまま、俺はそっと目を閉じた。
酒のせいか、感情のせいか、静かに意識を手放した。
***
目を覚ますと、俺はリコの部屋のソファで寝ていた。部屋中に漂うコーヒーの香りが、ぼんやりしていた頭を少しずつ覚醒させる。上半身を起こし、周りを見渡すが、リコ姿は見当たらない。
カウンターキッチンには、淹れたてらしいコーヒーカップが一つ。湯気がゆらゆらと昇っていた。
「…リコ?」
呼びかけると、奥の“立ち入り禁止”の扉が開き、リコが現れた。
俺は目を見張った。
白いワンピースに、きっちりと整えられた髪。メイクも普段より丁寧で、イヤリング、ネックレス、指輪――フル装備。
まるでこれから、誰かとのデートにでかけるような。
――もう、俺との関係は終わり、ってことか?
キッチンに置かれたコーヒーカップを左手に持ち、俺の前に差し出しながら、リコはいつも通りの顔で言った。
「カイ、おはよう」
「…おはよ」
受け取ったカップのぬくもりが、妙にやけどしそうなほど熱く感じた。
俺はリコの顔を、じっと見つめた。彼女は不思議そうに俺を見て、俺の額に手を当てた。
「熱あるの?ただの二日酔いかな?昨日はルイに飲まされちゃったんだって?」
「…」
「度数がきついの飲ませちゃったって、ルイ笑ってたよ。ルイにはきつーく叱っておきました」
「…」
俺は何も言えないまま、リコから目が離せなかった。そんな俺を少し困ったような、心配そうな表情を浮かべるリコ。
このまま言葉にしてしまったら、壊れそうで。けど、言わないと、きっと後悔する。
「熱はないみたいだけど…。大丈夫?」
俺は言葉にならない声を出す。
「…。もう…」
「ん?なに?」
――やっぱり、言うな。言うな。
そんなこと、聞いちゃいけない。
だけど、もう、苦しい…。
抑えきれなかった…。
「…っもし、セフレが解消されたら、俺たち…どうなる?」
一瞬、リコの表情が止まる。でも、すぐに笑って俺の髪をくしゃりと撫でた。
「うーん、どうかな?」
その笑顔が、妙に遠かった。
誤魔化されるな、逃がすな。俺はリコの目をまっすぐに見つめて、続きの言葉を待つ。
「…また進化でもする?」
「進化?」
「うん」
「どう進化すんの?」
「ネオセフレとか?――ぷふふ。いいじゃんね、ネオセフレ」
肩透かし。
わかってた。リコは本音を簡単にはくれない。
それでも、俺はほんの一瞬、何かを期待していた。
馬鹿だな、俺。
押し殺した息を笑いに変えて、偽物の笑顔をリコに向けた。
「なんだそれ…ネオって」
「いいじゃん?新しい感じでしょ?」
屈託のない笑顔で笑うリコに、俺はカップを傾けて一口飲んだ。その香りと温かさに、少しだけ落ち着く。
「ねえ、今日、夜時間ある?」
リコが不意に問いかけてきた。
「……まあ」
「よかったっ。じゃあ、またね」
そう言って、リコは軽く手を振ると、玄関へ向かった。パンプスのヒールが、フローリングをコツコツと鳴らす。
そして、その音が遠ざかると同時に、扉の向こうに、リコも消えていった。
運命の相手とどうなったのか。これからどこへ出かけるのか。あの笑顔の奥で、何を思っているのか――
本当は、さっき全部聞きたかった。
“セフレが解消されたら、俺たちどうなる?”なんて、遠回しなことじゃなくて、“もう、そういう相手ができたのか?”とか、“どこ行くのか?”って、――ちゃんと聞きたかった。
でも、それは言っちゃいけない気がした。聞いた瞬間、なにかが壊れそうで。だから俺は、あんな言い方しかできなかった。
今日の夜も、結局、約束は曖昧なまま。俺がここにいなくても、きっとリコは何も言わない。逆に、リコが夜帰ってこなかったとしても、――俺は何も言えない。
それが、この関係のルール。
“セフレ”という関係に引かれた、明確な一線。
その線を越えたら、もう戻れない気がして。壊れるのが怖くて、俺は、今日もその線の内側に立ち尽くしている。
俺はソファに腰を下ろし、湯気の立つコーヒーを眺めていた。もう冷めかけている。
ふと視線を上げると、いつも鍵がかかっている「立ち入り禁止」の扉が、ほんの少し開いていた。
「……閉め忘れたのか?」
閉めておこうと立ち上がる。
だが、扉の隙間から覗いた光景に、足が止まった。
天井まで届く本棚。無造作に積まれたノートや書類。
そして、整然としているようで、どこか熱を帯びた空気。
まるで、誰かの“心の中”みたいだった。
「何だよ、ここ……」
足が自然と中へと動く。
その一角、机の横のラックに無数の手紙がぎっしりと並んでいた。
ふと、ひとつの封筒に目がとまる。
——林ミコ様。
「……え?」
便箋を手に取り、読み始める。
『ミコ様。何度読んでも泣いてしまいます。
切ない。けど美しい。
生きていて、ただ苦しい。そんな時、何度も読み返してます——』
ページをめくるたびに、別の手紙が出てくる。
『あなたの言葉が、私の考え方を変えてくれました――』
『恋愛って、終わったらゼロになると思ってました。でも、違うんですね――』
林ミコって、あの、最近話題の恋愛小説家?
そして、その名前が——「リコ」と重なる。
「……リコが、“林ミコ”?」
声にして、ようやく腑に落ちた。
頭の中に、彼女の不可解な言動がフラッシュバックする。
『24時間恋愛漬けマラソン』だの、『恋愛ハウツー本』だの。奇妙だったそのすべてが、今、繋がった気がした。
全部、これのためだったのか―ーー
驚きと、妙な納得と、そして少しだけ…距離を感じた。
あれだけの手紙。
リコは、俺だけじゃなく、もっと多くの人の心を救ってる。
――俺なんか、到底届かないところにいるのかもしれない。
ふと、机の上に目をやると、書きかけのメモが一枚、ペンの横に置かれていた。
リコの字だ。躊躇いながらも、俺は手に取ってしまう。
『明日すべてが終わるとしても。
そう思うだけで、胸がキリキリと締めつけられて、逃げたくなる。
本当は、気づいてる。固執しているのは、私の方。
君は、もし私が男だったら、もっと自然にそばにいられたのかな?でも女じゃなかったら——友達にすらなれなかった?
もし私が男なら、あなたは今もまだ隣で笑っていてくれた?それとも、だたのお隣さんだった?
こうやって私は、“永遠”を探しつづけてる。私には何もないから…。
でも、本当はもう知ってる。何もかも、変わっていくこと。
それを怖がるんじゃなくて、それを「美しい」と思える心が、私にも欲しい。
だから、信じてみたい。だから、君は生きていて。
離れてしまっても、私が心をつなぐから』
まるで、リコの声が直接響いてくるようだった。
心の奥が、じんわりとあたたかく、そして苦しくなる。
…この言葉は、俺たちのことを言っているんだろうか。でもお隣さん…。別の誰かもいるのだろうか。
だけど、“セフレ”というカタチが終わっても、
そこに何かが残るなら——それは、ゼロじゃない。
……そう、信じたい。
俺はメモをそっと戻し、深く息をついた。
部屋を出て、扉を静かに閉める。その手に、少しだけ、軽さが宿っていた。
時計の針が、静かに時を刻んでいる。4時。5時。ゆっくりと、確かに。
あの部屋に入ったことがバレたら、どうなるだろう。
そんなことを考えながらも、それ以上に——
リコの顔が、見たいと思った。
まるで、主人の帰りを待つ犬みたいだな。
そう思って、思わず苦笑する。
***
玄関の鍵が回る音がした瞬間、俺は反射的にソファに駆け込んだ。まるで、ずっとそこにいたかのように。待ってなんかいなかったふりをして。
ドアが開いて、軽やかな足音が響く。
目をこすりながら、俺はわざとらしく声を出した。
「…リコ、お帰り」
「ただいま。まだ寝てたの?大丈夫?」
「…うん。もう平気」
「お腹は?」
「すいた」
「そう、でもごめん…、今って甘いもの、いける?」
「好きだから、いつでもいけるけど?」
「よかった!」
ぱっと表情を輝かせ、リコが小さな箱を掲げてる。
「じゃーん、ケーキ!」
“今日はきっと、何かいいことがあったんだな”と思えたらよかったのに。俺は、知ってしまった。
リコが今日――小説コンクールの授賞式に出席していたことを。そして、顔出NGの林ミコは、今日も公の場に姿を見せることなく、その場を後にしたことも。
今日一段と着飾った理由に、俺はほっとする反面、胸の奥に小さな罪悪感を覚えた。
「…何でケーキ?」
「ちょっと、いいことがあったからね」
“ちょっと”どころじゃないだろ。と思いながら、俺は知らないふりを続けた。これ以上、“林ミコ”を調べるのはやめようと、心に決めながら。
「そっか、…おめでとう」
「カイもおめでと」
「…俺も?」
「いいことがあったら、おすそ分けでしょ?幸せも半分こ」
リコはケーキを取り出すと、小さなろうそくを一本立てて火を灯した。
「はい、カイ、ふーして」
「俺が?」
「そうだよ、願い事、ちゃんとしてからね。ほら」
小さな火を見つめながら、俺は言葉にならない願いを胸に描いた。
――もし、この関係が変わっても、リコのそばにいれますように。
そんなことを願う自分がいることに気づき、少し驚いた。
息を吹きかけると、火は静かに消えた。細くたなびく煙を眺めながら、リコは柔らかく微笑んだ。
「で?」
「でって?」
「何、お願いしたの?」
「は?言うわけないだろ」
「なんで?」
「こういうのは、言ったら叶わなくなるもんだろ」
「ふーーーん」
リコは意地悪そうな顔をすると、スプーンでケーキを大きくすくって俺の口元に突き出した。
「ほら、あーーーーん」
「でかっ」
「いいから、あーーーーん」
仕方なく大きな口を開けると、甘さと柔らかさが口いっぱいに広がる。ケーキを頬張る俺を、リコはおかしそうに笑って見ていた。
「おいしい?」
俺はうなずきながら、スプーンを奪ってケーキを大きくすくい、今度はリコの口元に突きつけた。
「ほら、次はリコの番」
「ちょっ…やめて!」
逃げようとするリコを捕まえ、無理やりケーキを口に押し込む。リコは口を押さえながら「バカ!」と笑った。
床に落ちたケーキのかけらを見つけて、笑いあうその瞬間、俺たちの間には、言葉にできない何かが確かに流れていた。
「ねえ?カイ、まだ夏休みなんだよね?」
「うん。なんで?」
「ひまわり畑、行かない?」
その一言から始まった。
突然の思いつきみたいな顔をしてたけど、きっと、前から決めていたんだと思う。
リコがひまわりを見たいと思った理由を、俺はその時まだ知らなかった。
