だからこそ、この季節は忘れられない【5】#創作大賞2025 #恋愛小説部門
第2話 梅雨のはじまり:女嫌いの男と雨嫌いの女①
(現在・カイ視点)
3月の初旬のまだ少し肌寒い風が吹く中、静かな雰囲気に包まれた神社は、華やかさはないものの、古びた石畳や、風雨に晒されたような拝殿の木肌が、より一層厳かな気持ちにさせてくれる。
そんな中、その神聖な空気の流れを断ち切るように、一匹の野良猫が、俺の存在を認識しながらも、気ままに、まるで自分の庭であるかのように境内をのそのそと歩いている。
梅雨の最中だった、6月のあの日。
本当なら、3000株もの紫陽花が咲き誇るこの場所の紫陽花祭りに来るはずだった。結局、雨のせいで何もかも台無しになってしまったが…。
――リコは克服できているだろうか?また海外を転々としているのだろうか…。
俺はスマートフォンを取り出し、拝殿前の金色の目をした狛犬を写真に収め、そのまま静かに参拝をする。
***
(5年前・カイ視点)
入学式以来の窮屈なスーツに身を包み、指定された場所へと向かった。
華やかな装いの男女たちが、吸い込まれるように洒落たレストランの中へ消えていく。結婚式の二次会――明らかに場違いな空気に、早くもため息が漏れそうになる。
ポケットからスマホを取り出し、レンタル彼氏の依頼内容を再確認する。
――結婚式の二次会参加。リサの彼氏役。彼女のことは、リサと呼ぶ。付き合って半年。職業は大手商社勤務二年目。隣で愛想よく笑っていればいい――
指定された時刻、十七時。噴水のほとりで所在なく立っていると、一人の女性が手を振って近づいてきた。
「カイ君、お待たせ。うわ、本物は写真より全然イケメン」
「…えっとリサ?」
「うん。今日はよろしくね。とりあえず、笑顔でいてくれたらいいから」
リサは躊躇なく俺の腕を取り、親密そうに体を寄せてきた。その瞬間、俺は反射的に身を引いた。けれど、彼女の視線は、まるで、金を払った客の当然の権利だと言うように、冷たく鋭く俺を刺してくる。
「高い金払ってるんだから、一時間くらいちゃんと演じてよ」
その言葉に、思わず奥歯を嚙み締めた。
笑顔を作る、作っている自分に、さらに嫌気がさす。
昔からそうだった。誰かが望む自分を演じるたび、心が少しずつ崩れていく。気付けばもう、うまく笑えなくなっていた。
それでも、このバイトを選んだ。高額な報酬と割り切ったつもりだった。
それだけじゃない。女なんて嫌いだと、憎むべき対象だと、自分に言い聞かせていたかった。そうやって距離を取らないと保てなかった。
だからこそ、その“嫌いなもの”から金を得ることに、どこかで妙な正当性を感じていたのかもしれない。
――矛盾してる。そんなこと、自分が一番よくわかってる。やっぱり、女は気持ち悪い生き物だ。
――はずだった。
「…レンカレなんて辞めちまえ。だめだぞ、憎むのは辛いんだぞ。傷には、絆創膏を貼らなくちゃ」
酔ったリコが古びたイスに放ったあの言葉が、ふと浮かぶ。
ただの戯言。そう思っていたのに、頭から離れない。絆創膏なんて、貼れるもんか…。
そんな思考を振り払うように、カイはゆっくりと顔を上げた。
リサに連れられ、受付を済ませて店内へ入る。酔いを帯びた男女のざわめきが、耳にまとわりつく。
突如、リサに腕を引かれ、二十代後半の女性たちの輪に放り込まれた。その瞬間、一斉に視線がこちらに注がれる。
「わー、リサ!この人が彼氏さん?」
「そう、私の彼氏」
「藤沢カイです。いつもリサがお世話になっています」
「やだー、めちゃくちゃかっこいいじゃん!」
「いつもリサから話聞いてますよー!仕事が忙しくてなかなか会えてないって。やっぱり商社マンは忙しいんですか?」
「ええ、海外出張も多くて、なかなか…。でも、日本にいる時は、リサに無理やり予定空けてもらってて…。もしかしたら皆さんとの予定も邪魔してるかもですよね、すみません」
「やだー、若いのに紳士!」
「ちょっと、うちの彼氏で遊ばないでよね。困ってるじゃない」
そう言いながら、リサが俺の頭を撫でた瞬間、全身に鳥肌が立った。あの頃、褒めそやしながらも、自分の都合の良いように扱ってきた大人たちの手のひらを思い出す。咄嗟にリサの手を振り払ってしまった。
驚いたリサの顔。そのあとすぐに、氷のように冷えた目。
しまった、と思いながら、俺は慌てて言葉を繕う。
「こーやって、リサはいつも年下扱いするから…」
少し照れた表情を浮かべて、年下彼氏の“可愛さ”を演じてみせると、周囲の女性たちが一斉にはしゃぎ出した。
「やだー、めっちゃ可愛い!年下の可愛さとイケメンのギャップ、たまらない!」
「しっかりしてるんだけど、私の前ではこんな感じ。いいでしょ?」
リサは何事もなかったかのように笑った。なんとか場は収まった。
けれど――ふと、リコに頭を撫でられた時のことを思い出した。あの時、こんなにも不快な気持ちにはならなかった。むしろ…あの手は、心地よかった…。
――一体、何が違うのだろうか。
***
気疲れしたバイトを終え、無性にバーへ向かいたくなった。今すぐに、リコに会いたいような気がしたのだ。
扉を開けると、店内は数組の客で賑わっていたが、いつものカウンター席にリコの姿はない。
「あら、カイちゃん!いらっしゃーい。って、あらあら、今日はスーツで男前じゃない?」
「ルイこそ、今日は一段とイケメンだな」
「まあね。私もカイちゃんに負けないくらいイケてるでしょ?」
「俺は男バージョンのほうがいいけどな」
「やだーーー、ええーーこれから毎日男装にしようかしら?って、もう!カイちゃんが女嫌いだからでしょ?」
「まあな」
「まったく、で、今日は何にする?強いの?弱いの?あ、いつものリコちゃんのにする?ロングアイランドアイスティー」
「そんな名前だったのか。それって紅茶味なのか?」
ルイは手際よくグラスを傾けながら答える。
「紅茶は使ってないのに、不思議と紅茶の味がするのよ。素敵よね」
俺はカウンターの隅の席に腰を下ろし、ルイが作る茶色の液体を見つめた。目の前に置かれたグラスを受け取る。
「さ、私も付き合うわ!乾杯!」
グラスが軽く触れ合う。一口飲むと、想像以上のアルコールの強さに息を呑んだ。なのに、どこか甘くて飲みやすい。
「びっくりしたでしょー?どう?リコちゃんみたいなお酒!」
「リコ、みたい?」
「なーんとなくね?リコちゃん、いつもこれ、グビグビと飲んでるのよ。そりゃ、酔っぱらうわよねぇ。しかもね、カイちゃんー?」
「え?」
ルイはいたずらっぽくウインクする。男装しているせいか、その仕草に妙な違和感がある。
「男はねぇ、お持ち帰りしたい女の子に、ロングアイランドアイスティーを勧めるのよ!きゃ!カイちゃんも、お持ち帰りしたくなったら使ってみなさいってーの!きゃー、いやーん!」
「……ないない」
「あーそうやって、お持ち帰りしようと思わなくてもお持ち帰りできちゃうって言いたいわけ?」
「そんなん言ってない」
「イケメンアピールしちゃって。プンプンよ」
「はいはい」
「何よ、その冷めた感じ!そんなんだとねー、教えてあげないわよ」
「何?」
「どうせ、リコちゃんの事、気にしてるんでしょ?」
「まあ…。今日はどうした?もう寝たとか?」
「違うわよー。あれは…、数日前のことだったわ。大きなスーツケース持って、どこかへ消えていく、リコちゃんの背中姿を私は見ちゃったのよ!」
「え?」
「もう帰ってこないかもしれないわ…。そんな予感がするのよ」
「なんで?」
「リコちゃん、ずっと海外を転々としてたのよ。日本にいるの、もう数年ぶりよ」
「え?リコが?」
「そうよ。何かわかんないけど…日本にいたくないみたいだわ…。そんな感じがするの」
ロングアイランドアイスティーのせいで、頭がぼんやりとしてきた。バーの扉を開け、外へ出ると、容赦ない雨がアスファルトを叩きつけていた。
