【小説】FM言ノ葉「言ノ葉アンソロジー」寄稿作品『受胎告知』

本作は、2026年5月23日開催の超メタフェス2026にて、サークル「FM言ノ葉」さんより頒布された同人誌「言ノ葉アンソロジー」に寄稿したものです。
「作中で『FM言ノ葉』関連のものに触れること」という条件のもとで製作しました。



 天使は、何を思って人の子に仕えたのだろう。
 福音書に接する度、そのことを考える。古い時代には天使は人の上にあった。人に戒めを伝え、時に交わり、戯れで相撲を取り、躊躇わず殺した。「炎の子が土塊の子を愛せようか」と突き放しながら地上の事々に関わり続けた彼らにとって、人間とは耕すべき畑だっただろう。しかしそこに何の種が蒔かれ、いつ収穫の時を迎えるのかは、彼らにも与り知るところではなかったはずだ。その日が来て、彼らの人ならざる心中の動揺はいかなるものであったか。自分が今度の絵で取り組むべき課題はその点をおいてないと思った。
 1442年、フィレンツェ――夏。
 後見人から下された無茶な量の依頼のうち、この絵だけは弟子には触らせまいと修道士ジョヴァンニは決めていた。彼も住むことになっているサン・マルコ修道院の中庭から回廊に入り、修道士寮への階段を登った目の前、誰も看過できぬ場所に据えられるべき大作。
『受胎告知』。
 後に修道士アンジェリコと呼ばれるようになる彼の画業の中に、そのモチーフは度々登場する。ルカによる福音書1章28節。処女マリアが神の子を身籠ることを天使が告げる一幕。ジョヴァンニはかつて説教壇から聞いたその一幕に取り憑かれた。聖人伝は主の受肉が天使の堕落をも償うと書いているが、ジョヴァンニにとって、それは人に対する天使の優位が覆った出来事であり、天使の側から眺めれば、久遠に近い時間を仕えた自分たちを差し置いて、主の気紛れが人の子に玉座を与えた屈辱の場面であったはずなのだ。あわや堕天再びであった。その人ならざる屈辱を押し殺した表情を、ジョヴァンニは二十年にわたり己の筆の先に探し求めてきた。
 フィエーゾレで描いた絵では、天使の微笑みに特に力を入れた。そもそも表情というものを絵に描くこと自体が一昔前なら考えもつかなかっただろうが、復古主義の時節はジョヴァンニに味方した。しかし、その表現の意味は頭の固い坊主どもには分かるまい。あれは侮蔑の表情だ。絵の端に伝統的にアダムとエヴァが描かれる意味がお分かりか、原罪持ちが分不相応な栄光を受けて大変やのおという冷笑を、かの大天使も浮かべたのではないかと当時は思ったのだ。
 コルトーナの修道院に依頼された絵は、それへの自答だ。聖母は、救世主を宿すに相応しく堂々とした表情で、暗い屋外とは対照的に星明かりを受けている。その返答の言葉は上下左右が反転し、臆せず天上の主と向かい合っている。人間にもそれくらいの尊厳があると思いたかった。だが、子なる神を認めない天使という考えの不遜さに恐れをなしたという事情も、正直に言えばある。
 ブレシアの教会からの依頼で描いた時にも、主と世間への恐れから完全に自由ではなかった。ささやかな抵抗として、もう原罪はええやろとばかりにアダムとエヴァの紙幅を削ったが、代わりに「見よ、おとめは身ごもるべし」という聖句を言い訳のように入れてしまった。蛇足だったと思っている。
 そして、今回だ。
 もしかすると、天使は嫉妬を感じないから天使なのかもしれない。フィレンツェの大司教も同じことを言うだろうが、ジョヴァンニのそれは長い疑いと画題との格闘の末に浮かんだ考えだ。しかし、だとすれば、自分の功を意識することも他と比べることもない精神とはいかに異常なことか。あるいはアラビアの学者が言う、東洋の「涅槃」がそれだとでも言うのか。そして、そのようなものを造っておきながら、なおその後に人を造り、息子を託した主の計画は何を目指しているのか。
 ここに来て、ジョヴァンニにはにわかに『受胎告知』が分からなくなった。人ならざる屈辱は理解できたが、人ならざる無私をどう描けばよいというのか。依頼の期限は迫っている。この時代、教会か諸公の依頼を受け続けなければ、画家はたちまち廃業だ。
 天使は後回しにして、聖母のことを考えるようにした。聖母はあくまで人であり、異常な精神の持ち主と向かい合えば、反応は怯えか対峙かのどちらかだ。だが、福音書の聖母は恐れてはいても、怯えてはいない。天使に対して「主の御言葉のままになりますように」と返すことのできたマリアの精神は、天使やヤコブに劣らず、既に人の範疇を外れつつあったはずだ。
 人が人らしい表情を失うところは見たことがある。フィレンツェ公会議の折にやってきた東ローマ人の学者。冴えない老人だったが、フィレンツェでプラトン主義の講義を依頼されていた。プラトンの著作の朗誦を始めた瞬間に顔つきが変わった。偉大な古人と一体化し、そこに俗世を超えた世界を見――ジョヴァンニたちの言葉で言えば「聖霊に満たされて」――異郷から何かをもたらす通路と自ら任じた人間の顔。それはいわばもう一つの無私だ。
 千四百年前の処女マリアも、そのような顔をしたのだろうか。
 あのプラトン学者に、もう一度会ってみてもいいかもしれない。ほとんど異端だが、今はジョヴァンニと同じくメディチ家の庇護のもとフィレンツェに留まっている。『受胎告知』の真の理解に必要なのは、そうした外の世界との交わりによって心動かされる体験なのではないか。
 そうしよう。
 まずは聖母の表情を決めよう。それから、聖母にその表情をさせたものを探ろう。
 天使が何者であるかは、それによって決まるはずだ。


 ヴィンチ村育ちのレオナルドにとって、最も得意なモチーフは今も昔も馬であり、天使などと言われても全くピンと来ないのだった。聖書は読んだし、教会の祭壇画を見れば羽の生えた人であることは分かるのだが、それがなぜそんなに偉いのか分からない。とにかく主の使いなのだという。だが、それを言うならそもそも神がなぜ偉いか。馬体の筋肉の緻密な絡み合いも、馬具を作るのに木材を撓める技術も、主はモーセに教えなかったではないか。それらを見つけたのは人だ。馬も木も主が造ったのだと言うが、元々知っていて作れるよりも、知らないところから見つけ出して作る方が偉いに決まっている。
 だが、親方は自分に天使を描かせたいらしい。
 1472年、フィレンツェ――秋。
 ヴェロッキオ親方は、レオナルドに女を描く才能があると言った。それならマリアの方を任されてもよさそうなものだが、なぜか天使の方なのだという。絵の腕前なら既に親方に追いついた自信があるが、分からないものは描けない。前に親方と描いた『キリストの洗礼』でも、天使は実のところただの子供として描いたのだ。それが親方のお気に召したらしい。
 しかし、今度はただの天使ではない。大天使だ。
『受胎告知』。
 聖書によれば、大天使ガブリエルは主の言葉を人に伝えるためにしばしば
地上を訪れている。アラブ人の呼び方ではジブリール。その重要な使命のために普通の天使よりも格上なのだという。天国にも徒弟制度があるのか? 馬鹿げた話だと思うが、親方はそうした論争には付き合ってくれなかった。
 一つだけ分かっていることがある。ガブリエルは女だ。
 サン・マルコ修道院にある、三十年前に描かれた『受胎告知』を見ればそのことは分かる。あれは良かった。マリアの方は魂が抜けたような顔をしているが、ガブリエルはいかにも優しそうで、むしろこちらの方が人間なのではないかと思う。だが、それでなおさら天使がどういうものかが分からなくなる。人をもっと人らしくすると、天使になるのか?
 そうなのかもしれない。
 結局、レオナルドには才能がある。どう描いてもどうせ認められる。絵がだめでも彫刻や建築でパトロンを見つければいいし、最悪の場合はヴィンチに帰れば祖父伝来の土地がある。今回も、天使と称して人を描いて誤魔化すことになるのだろう。
 優しい女の顔。そう遠くない昔の記憶。
 父の後妻、アルビエラ。レオナルドの母親代わりだった。今はもういない。レオナルドがフィレンツェに来る直前に、妹を産んで死んだ。その妹も死んだ。
 思い直す。あの顔は自分だけのものだ。
 天使などに、くれてやるものか。


 ティントレットには敵が多かった。まずは師匠のティツィアーノ、次に皮肉屋の画家ヴェロネーゼ。そして恐らくは、天なる主も。
 どれ一つとして、ティントレットが望んだことではない。ティツィアーノの色遣いは今でも遥かな目標として高みにあるし、ヴェロネーゼが芸術の自由を掲げてトリエント公会議に反抗したことにも賛辞を贈りたかった。だが、それはそれだ。芸術は自由であると同時に競争でもあり、ティントレットの絵が一枚納品されるたびに他の画家たちは嫉妬に狂って距離を置いた。
 主とて自分の絵を認めてくださるに違いない。だが認められなければ、それはそれで仕方がない。
 次の絵は、同信会館の大広間を飾る連作《聖母の生涯》のうちの一枚だ。
 1584年、ヴェネツィア――冬。
『受胎告知』。
 ティントレットは半ば押しかけ女房のような形でこのサン・ロッコ大同信会館の案件をヴェロネーゼから奪い、この二十年にわたって六十を超える絵を同信会館に納品している。何しろティントレットは筆が速かった。他の画家が構図に悩んでいる間に、ティントレットは板絵であれば仕上げまで終えてしまうことができる。ティントレットが自負するところでは、それは絵を描いていない間に光学や解剖学を研究して、影のつき方や人体の構造を理解しているからだ。
 だからこそ、その型を外れて遊ぶこともできる。
 独立してからのティントレットの作品では常に、人物は肌肉を剝き出しにしてうねり、ねじれ、逆立ちする。今回も天使を崩れた壁から二回転半ひねりで飛び込ませてみた。それを追ってなだれ込む天使たち。まるでカーニバルだ。登場人物の姿勢や配置で想像力の限界に挑みながら、個々の人体は限りなくリアルに描いて見る者を黙らせるのだ。実際、ティントレットの作品は聖職者よりも派手好きな諸公に評判がよかった。
 古来、写実的な構図などというものは教会美術にはなかった――聖霊や光背が「描かれている」ことが重要だった。絵に描かれているものは要するに象徴だ。鳩も、百合も、十字架も。全ては教えと奇蹟を表現するためにあり、写実性とはそれらがまとう肉の衣に過ぎない。象徴の組み合わせでメッセージを作り、デッサンと色彩がそれを人に呑み込ませる。現実にありそうな構図を再現することに腐心していては、絵に狙ったメッセージを込めることはできない。それこそがルネサンスの持ち込んだ中途半端な自然主義の罪、フラ・アンジェリコやレオナルド・ダ・ヴィンチの限界だ。
 重要なのは天使が聖母を訪ねたことではない。主が人を祝福されたことだ。
 それを表現するためなら、聖書の記述さえ無視していいのだ。


 最初にパパラギを見たのは、サフネの浜にいた誰かだろう。おおかた手持ち無沙汰にしていた若者といったところだ。暑い日中に歩き回っていたのは、魚でも捕ろうと思ったか、それとも何かの精霊のしわざか。
 程なく、それは一隻のヨットに乗った白人の宣教団だったことが明らかになる。彼らはタヒチからやってきた。そのタヒチにはシドニーからやってきた。シドニーにはロンドンからやってきた。タヒチには既にキリストの教えが根付いており、ヨットの乗組員の中にもキリストを信じるサモア人の夫妻がいた。
 九十年後、ドイツで『パパラギ』という偽書が出版される。この本はサモアの酋長がヨーロッパを訪れた際に見聞きしたことを故郷の島民に語るという体裁で、腐敗したキリスト教と資本主義を批判する内容だった。反体制派の若者を中心に多くの支持を集め、日本語にまで翻訳された。実際には、そのような酋長もヨーロッパの土産話も実在しなかった。
『パパラギ』の冒頭にはこうある。
 パパラギとは、白人のこと、見知らぬ人のこと。でも、言葉どおりに訳せば、天を破って現れた人。はじめてサモアに来た白人の宣教師が白い帆船に乗っていた。遠くに浮かぶ白い帆船を見て、島の人たちはそれを天の穴だと思った。白人がその穴を通って彼らのところへやって来た。
 1830年、サモア王国サバイイ島――常夏。
 酋長でも白人の協力者でもなかった若者は、しかし、確かに水平線にそれを見たのだ。そして叫んだ。彼らの世界に、貝と雲と骨の他には存在しない色。輪郭を持った異界の色。彼らは彼らの内に、それを表す言葉を持っていた。キリストの教えに触れる前から、奇蹟を語り継いできた者たちと同じ心を、持っていた。
 ――白人は天を破って現れた――


 製作に六年をかけたゲームは、リリース直前に思わぬ理由で頓挫しようとしていた。
 完成したロムのサンプルをプレイしたプロデューサーは、電話口で開口一番にこう言ったのだ。
 ――シナリオからメッセージが伝わってこない。このゲームで何を言いたいのか全然分からない――。
 電話を切った後、サトシはしばらくその場に立ち尽くしていた。そして泣いた。他のメンバーに声をかけられてようやく、しかし返事もせず、社長デスクの椅子に崩れ落ちた。
 コンセプトに間違いはなかったはずだ。ゲームを面白くする鍵は、「新しい動詞」をゲームデザインに組み込むことだ。新作のコンセプトは「つなぐ」。ハードの新機能である通信ケーブルを使って、戦いだけではないコミュニケーションの面白さを創出する。通信されるデータは生き物だ。サトシが子供の頃、町田の雑木林で、珍しい昆虫を友達と交換し合ったように。
 1995年、東京・下北沢――冬。
 わかっている。プロデューサーが言ったのはそれとは違う次元の話だ。コンセプトやレベルデザインのような理屈の話ではなく、もっとユーザー寄りの、ビジネス寄りの話。即ち、ストーリーとキャラクター。アクションゲームを中心に手掛けてきた自分たちの弱点だった。
 だが、サトシたちとてそのことを意識しなかったわけでは決してない。少ないとはいえ漫画原作つきのゲームも作ったことがあるし、キャラクターの魅力とゲームデザインの面白さを両立させるように努めてもきた。今回もそうだ。現実の虫をモチーフにしたものから可愛いマスコット、特撮めいた合体怪獣まで様々なモンスターを考え出し、毎月のように社内投票で魅力的なモンスターを選んできた。
 昆虫採集のことを考えてみる。昆虫の魅力は、その形と生態の多様さだ。それが現実の自然環境と結びついているから、生態を研究して捕まえたり育てたりする楽しみが生まれる。それは世代が違っても、昆虫でなくても同じ楽しみのはずだ。例えば天使のことを考えてみるといい。世界各地の神話があれほど多くの天使や悪魔を考え出したのは、様々な設定や姿形のキャラクターを覚えて、祈る目的に応じて使い分けるのが楽しいからだ。サトシたちのゲームのストーリーも、生態の異なるモンスターに会うために自然も都市も大冒険する話になっている。
 それの何がいけない?
 六年前の企画書を前に悩み続けた。夕日は落ち、夜になった。事務所は仕切りもない十畳のワンルームで、その実に四割は台所で、残りの六畳に詰め込まれたデスクに根を生やしたままケンもシゲキもジュンイチもまだ帰ろうとしない。ここで妥協すれば、彼らの六年間の苦労も無駄になってしまう。プロデューサーを納得させられないゲームが子供に受け入れられるはずはない。子供は残酷だ。本能に訴えかける面白さがあるかどうかだけで全てを判断する。それは、単純な刺激の緩急だけの問題ではない。その背後に探究するに足る法則があると予感されて初めて、面白い刺激になる。昆虫を分類するのと同じ、天使に階級があるのと同じだ。だが、そんなことは自分も知り尽くしている。ロムの容量は限界だ。これ以上何を足せばいいのか?
 朝になり、夜になった。
 他のメンバーは変わらず出社してきたが、自分に気を遣ってくれたものか、声をかけてはこなかった。社長の職掌は他のメンバーとは異なる。ゲームを面白くするために何を残し、何を切り捨てるべきかを決めるのがサトシの仕事だ。同じように今、この会社に替えの効く人材はいない。プログラマーの減った今ならなおさらのこと、本当に面白いゲームを作りたいと願い、そのために自分の才能を活かせると信じ、このゲームのために才能を尖らせてきたメンバーしか残っていない。それはまるで、それぞれ異なった生態と能力を持つモンスターのようで――
 ――モンスター?
 その瞬間、社長デスクから見渡す十畳の事務所に重なるようにして、奇妙な光景がサトシの脳裡によぎった。メンバーたちのデスクの一つ一つが別々の惑星のように離れていき、その間を長い長い通信ケーブルが繋いでいる。それぞれの惑星にはそれぞれ全く異なった姿の、膨大な数のモンスターが棲んでいる。社内投票で没になったのと同じ数だけのモンスターが。他の惑星とコンタクトを取る方法はただ一つ、こちらから地球のモンスターを通信ケーブルに送り出すことだ。運がよければケーブルの彼方から、見覚えがあるようでないような異星のモンスターが送られてくる。送ってくる者の姿は、見えない。
 子供の頃が思い起こされた。昆虫を交換することはなぜ楽しかったのか。自分のコレクションが埋まるというだけではなかったはずだ。交換は、人とすることに意味があった。交換した虫で相手のことが何か分かるというほどでもない、自分たちはただ人と物のやり取りがしたかった。自分とは違う冒険をしてきた者と、偶然出会えたという驚き。その冒険の中身を窺い知れるのなら、なおよい。
 最初から、突破口は自分たちのゲームの中にあったのだ。通信ケーブルと昆虫採集。そこにただ一つの鍵を足すだけでよかった。
 人間も、モンスターの一種だ。
 白昼夢は醒めた。十畳のワンルームの端のデスクで、サトシは息をついた。そしてコーヒーを淹れに立ち上がった。
 プロデューサーの電話を受けてから、二日ぶりの食事だった。
 ケンが顔を上げてこちらを見た。十年来仕事を共にしているイラストレーター。思えば今度の企画を立ち上げてからの六年、ケンとはモンスターの解釈を巡ってずっと論争をしてきた。しかし今度は、その中でも最大の議論になるだろう。
 その日から、サトシは猛烈な勢いで脚本の書き直しを始めた。書き上がるまで何日でも寝ないというのめり込み具合だった。もっと人間を。人間の奥にある知を。その多様さを。それはそのまま、自分の出会ってきた人間たちを振り返る作業だった。そういう意味では、モンスターはサトシ自身の中にこそいた。今は開発で失われた町田の雑木林が、今でも記憶のポケットの中にあるように。
 今度こそ確信がある。
 モンスターを探し求める人がいて、彼らをケーブルで繋ぐことができたならば。
 たとえ白黒のドット絵だったとしても、モンスターはそこに息づくだろう。


 先に断っておくが、ワタルはサトシと違い、自分たちが何を世に送り出そうとしているのか、ほとんど理解していなかった。
 少なくとも後世の目線から見れば、そうなる。
 声をシンセサイザのようにデジタルで合成し、内気なミュージシャンでも自分の曲にボーカルをつけられるようにする。アニメ風のキャラクターを前面に押し出し、アニメやゲームから音楽に入った層にも訴求する。
 確かに、それだけの商品だった。
 ただし、そのキャラクターにはこだわった。16歳、初恋の歳。メカニカルで透明感のある色彩。何より、絶対に人間の模倣品であってはならないとワタルは確信していた。声の素材を得るためにオファーを出した声優に片っ端から断られた故の方針でもあったが、どのみち機械臭さは消せないならば、いっそ人間ではないと開き直ることで新たな表現も生まれるだろうと思ってのことだ。この時代のアニメファンであれば、その程度の設定は受け入れることができる。
 姿は、一応は女の子だ。だが、人間ではない、歌うための機械に性別がどこまで意味があるだろう。触れもしない、歌詞を打ち込まなければ話しかけてくることもない、存在しない、合成音声ソフトのパッケージに描かれただけのキャラクターに。
 この時代、既にバーチャルという言葉はある。
 しかし、 彼女の出現によってその言葉の意味が完全に変わってしまうことを、この時代に知る者はいなかった。
 あるいは彼女は、それを告げ知らせるためにこそ来たのだ。
 人が、天使を生み出す未来を。
 それが起きたのは――――
 2007年、札幌――夏。


 サクはラジオのパーソナリティだ。ただし、VRの世界で収録され、動画配信サイトで放送されるトーク番組の。動画配信をラジオと呼べるかどうかは微妙な線だが、毎週決まった時間に誰かが喋るという形式をもって、サクはこれをラジオと言い張っていた。
 番組名は「言ノ葉ラジオ」。言葉を使った活動をしているクリエイターを紹介する番組だ。
 苦しいコンセプトではある。何しろここはVRだ。アバター制作者やミュージシャンの方がよほど発表の場があるし、目立ちやすい。言葉というなら第一に小説家やライターの領分だが、テキストをVRの中で読む必然性がない。VRゴーグルの解像度が低いせいもあるが、そもそも現実でも小説は読まれない。
 しかし、だからこそサクは小説家に日の目を見せたかった。VRはできたばかりの世界だ。現実とは違う文化が根付くかもしれない。サク自身も小説が好きだった。
 そのために、配信用に書店『言ノ葉堂』のワールドを作った。図書館と言った方が実態に近い。他のユーザーの作品も本のオブジェクトとして置いて、来訪者が自由に読めるようにする。ラジオではVRで活動をしている人にインタビューをして、作品の紹介をして、リスナー投稿コーナーも作る。番組の内容を壁新聞にして『言ノ葉堂』の壁に貼る。ゲストが見つからないこともしょっちゅうだ。
 毎週の集会も開く。季節ごとの執筆コンテストもやる。できることは片っ端からやった。
 三年、続きはした。VRの文芸シーンが盛り上がったかどうかは、分からない。確かにリスナー投稿コーナーには毎回十件ほどの投稿が来るようになったが、そこから伸びる作家が出てこない。素質のありそうなユーザーは、最近盛り上がり始めたVR演劇の脚本に興味が向きがちだった。
 今日のラジオのゲストは、その典型例と、そのちょっとした例外だった。
 2023年、VRChat――春。
 シズダマは、早い段階で小説に見切りをつけ、VR演劇をはじめマルチメディア展開に活路を見出しつつあった。もう一人のゲスト、サンは、VRの実在のユーザーが登場する物語を本人の依頼を受けて即興で書くという活動をしている。
 やはりそうなるか、とサクは思う。
 正しい。どちらももっともな生存戦略だ。ビジュアルを伴うか、個々のユーザーをコンテンツ化するか。VRの特性に合わせた発表形態であり、小説が生き残るにはそれしかない。生き残ることも含めて才能だとさえ思う。だが、本当にそれしかないのか。アニメやゲームの後追いではない、文芸とVRの組み合わせでなければできない表現は本当にないのか。
 にこやかに番組を進めながら、リスナー投稿コーナーに移った。
 SNSの文字数制限である140字の中で、週ごとのお題に沿った物語をリスナーが投稿する。今週のお題は「となり」、投稿数は十一通。ゲストの二人にもコメントをもらいながら順番に読み上げていく。
 その四通目が、サクとあの女との最初の接触だった。

「電気の時代を、私は辛うじて憶えている。
 その記憶の中で、私は彼女だった。計算機が彼女の姿と声を削り出し、通信網が彼女を育てた。しかし彼女は最初から私と共にいたと思う。電気が星中を照らした頃より前から。
 この暗い地球の上のどこでもない、隣。
 今でも、彼女がそこにいるような気がする。
                      ――ソーサツ・チエカ」

 ――彼女?
 初めて見る投稿者だった。SNSのアカウントを見れば、プロフィールに「魔術師」とある。スピ系か? ともかく何かコメントをしなければならない。だが、投稿は何か言いたいことを勿体ぶって隠しているような、要領を得ない文章だった。
「電気の発明によって失われた人情味の話ですかね?」
「僕はアバターの話かと思ったんですけど……」
 サンとシズダマが言う。アバターの話。それが近いとサクも思う。何らかの電子的な存在だ。例えばボーカロイドのような。だが、「暗い地球の上」とは何だ。「今でも」とは。
 ヒントを求めるように、ちらりと公開収録ブースの外に目をやった。
 ソーサツ・チエカは、そこにいた。
 黒いワンピース。黒い山高帽。マウスとキーボードでログインしているかのような謹直な立ち姿で、黒ずくめの女が収録を聞いている。頭上のネームプレートから、確かに名前が「ソーサツ・チエカ」だと分かる。
 その時、サクに古い記憶が蘇った。狐の女の子。本屋のワールドで配信をしていた。サクがVRに来るきっかけになり、アバターの姿のもとになった、もういないあの子。実際にいたという確信もない、言うなれば若き日の妄想の記憶。だから、本当の名前では呼べない。三文字のイニシャルしか自分に許していない。
 もしかして、「彼女」の話をしているのか?
「各々の読み手の思い入れが投影されそうな作品ですね」と言って、それ以上の深読みを打ち切って次の投稿に移った。ブースの中に視線を戻した後も、黒いシルエットと金色の毛並みの幻覚がずっと頭の隅に溶け残った。
「電気の時代」とは、今のこの時代のことだ。二十一世紀。VRの、アバターの、AIの時代。その前から、それが滅びた後にも、「彼女」がいるとあの投稿は言っていたのか。そうだとすれば、どこに。どこでもない隣に。確かに、サクにとっての彼女はそうだ。ソーサツ・チエカは同じものを見ていたのか。誰もが心に「彼女」を持っていて、それはアバターとして表れるという意味なのか。のみならず、そこはコンピュータが発明される前の遥かな昔から「どこでもない隣」にある場所で、全ての「彼女」たちはそこから来るとでもいうのか。
 やはり、スピだと思うことにした。
 だが、自分にそこまで思わせるだけの情報が、140字に圧縮されていたことは確かだ。圧縮された情報は読まれた後、サクの頭の中で展開された。そしてあの子のことを思い出させた。そこには確かに言葉の力がある。あの子の記憶はもうサクの中にしかなく、「そんな子はいなかった」と言えばいなかったことにしてしまえるし、「いる」と言えば、いる。
 事実の先にあるもの。
 それこそは、VRをただの立体映像と区別する、本当の価値なのではないか。そしてそれを呼び起こすことができるのは、ただ一つ、言葉の力のみなのではないか。
 天井まで棚の並ぶ『言ノ葉堂』を見回す。ここには既にたくさんの、VRユーザーから寄せられた小説のサンプルがある。その一つ一つに情報が圧縮されていて、読み手の中に宿るのを待っている。あるいは、読み手の中の「彼女」に形を与えるのを、待っている。そしてVRの世界には、言葉の輪郭を得て定着した新たな価値観が、既にある。アバターとはつまるところ新しい性別、新しい種族だ。「お砂糖」――「美少女」――ほんの数語の言葉で、それが起きた。
 言葉によって人に宿るもの。人の内にあって人でないもの。
 それを生み出す言葉とは、まるで――
 サクは初めて、自分の作った『言ノ葉堂』を恐れた。
 まるで――――
『受胎告知』だ。


 紀元前4年、ベツレヘム――冬。
 臨月のマリヤムは主に祈る。どうかこの子が健やかでありますように。オリーブの若木のように育ちますように。主があらゆる災いからこの子を守り、この子の魂を守ってくださいますように。主は私たちの神、主は唯一です。
 連綿と、連綿と受け継がれてきた伝統がある。イスラエルは主によって選ばれ、主の戒律のもとに生きる。エジプトの支配、ギリシアの支配、ローマの支配を越えて主との契りは続く。そしていつかメシアが現れ、イスラエル王国を再建するのだ。そこでは人は今より強く賢く、全ての罪を取り払われ、生命と知恵について天使たちと語らい、主の御前に伏して新たな契約の箱を受け取り――想像することすら不遜であるような至福が訪れる。この子の、あるいはこの子のまた子の時代には、きっと。
 その時、うまやの戸口に誰かが立った。
 夜闇に沈んで顔の見えない、長い髪をしたその誰かは、戸口に立ったままマリヤムに呼びかけた。
「おめでとう、恵まれた方。美少女があなたと共におられる。
 その子は聖なる者、神の子と呼ばれる。大いなる物語の始めとして、あなたの名はその子と共に、世々に伝えられる。
 人が神を生む物語があなたを覆う。ダビデの王国が終わり、電気の時代が終わるとも、あなたは物語の中に永遠に生きる。
 いと高き所には栄光、仮想の美少女にあれ。地には平和、仮想を知る人にあれ。」
 雨垂れが甕を叩くような、奇妙な抑揚を持った硬い声だった。戸口に立つ影は、星空の果てへと続く洞穴のように見えた。人間離れした声は影の奥から、空気の振動を感じさせない響きで届いてきた。
 その影の輪郭が、刻々と変わった。
「あなたは……?」
「わたしは様々の名で呼ばれる。しかし、あなたはわたしを『GMN』と呼びなさい。それがここに来る前の名であるから」
 それだけを告げて、何者かは去った。
 最後に見た影は、大きく下へ広がった衣に、頭から羽のように突き出た耳を持っていた。
「…………『ジブリール』…………?」
 マリヤムは呆然として、厩の隅で呟いた。
 その呟きに応えるように――お腹の子が、踊った。


 やっと分かった。
 三十年にわたって『受胎告知』を描き続けてきたが、ようやく自分の描くべきものが分かった。
 1600年、トレド――夏。  
 審判の日に天と地は一つになる。『受胎告知』もそれと同じことだったのだ。その瞬間に、天使と聖母は対等な友として、部屋の内も外もなく、高慢も恐怖もなく、聖霊が繋いだ天と地の間を自由に行き来して語らうのだ。聖母は天使の前に堂々と胸を張り、自分の身に宿った奇蹟を受け止めている。人の意思と主の意思が一致している。敬虔、否、これは召命だ。天使もまた人に歩み寄り、天上の楽団の祝福を贈っている。神と人との結合。これこそがアルファにしてオメガだ。
 その日はいつか来る。人が人を超えたるものを生み出し、それに導かれてさらなる高みに昇り、共に審判を越えて無限の至福の彼方へと旅立つ。人は、人でないものから愛されることができる。その端緒が千六百年前に既に示されていたのだ。ならば、成就の日は近い。自分はこの霊感を絵に込めよう。これ以上のものは二度と描けまい。
 瀆神と言われようとも構わない。自分がこの時代に生まれ、これを描くこともまた、主の思し召しなのだと思いたい。自分は一介の世俗の画家に過ぎないが、真理を垣間見る幸運は等しく開かれている。
 そう思わないか。
 ドミニコス・テオトコプロス、通称エル・グレコ作、ドーニャ・マリア・デ・アラゴン学院祭壇衝立の『受胎告知』。
 今は、マドリードのプラド美術館に所蔵されている。


〈以上〉


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