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「まずは罪なき者が石を投げよ」

あなたたちの中で
罪を犯したことのない者が
この女に、まず石を投げなさい

「姦通の女」ヨハネによる福音書第8章3〜11節

現代は、自分が受けた虐待等の扱いに泣き寝入りすることなく、勇気を持って加害者を告発する時代になった。

その人権意識の高まりは素晴らしいことであるし、場合によっては、普段はそれを「解離」しているからこそかろうじて精神の安定を保ているのに、虐待を受けた時の思い出したくもない記憶をフラッシュバックを覚悟で法廷等で陳述するという、ハードなことに耐えつつそれを敢行する、被害当事者とその健康をサポートする皆様には敬意しか感じない。

しかし、その一方、そこまで腹が座ってはいない、確かに男性等からある程度の嫌な思いはしたのかもしれないが、何かというと感情的かつ「ヒステリック」に(この言葉がもはや差別語かもしれないことを承知で使わせていただく)男性への嫌悪(ミサンドリー)を撒き散らす、高慢で高飛車な印象を与える一部の女性たちに違和感を感じることも確かである。

そういう女性が自らは性的に挑発的とも言える衣服をまとい化粧もキメまくっていたりしたら、もはや男性を「負荷試験」 にかけており、自分が撒いた餌に群がる男性をいたぶってストレス発散しているわけ?   ともいいたくなる。

女性側にも、自分が性的魅力を振り撒きたい相手を限定し、そうした相手の前でだけオープンに振る舞い、他の場面では性的露出を慎み、むしろ男性にNoという信号を発する身なりをする自己責任はあると思う。

ニューヨーク滞在の長い仕事仲間に聞いたのだが、色彩豊なスカートひらひらでウォール街に通うオフィスレディなといないらしい。

皆グレー系のパンツルックだとか。

他の記事で書いたが、ゴシック系やヤンキー系など、いろいろな対策はある。 

もちろんそういうファッションの女性を特化して狙う男性は必ずいるわけだが、「出現率」の低下の努力はできるわけだ。

女性を襲う男性において、女性が何を着ていたかに統計的に有意な差はないという実証リサーチがあることは私も知っているが、だからといって女性がビキニルックで夜の街闊歩していて襲われてもそうしたルックのせいではないと同情してもらうという社会的同意は無理だろう。

街に溢れる性的な「萌え絵」を批判したくなる心情はある意味理解できるし、私は極端なケースについての規制はある程度必要と考える。

しかし、欧米のグローバルスタンダードな美意識に基づいて、日本の2次元キャラの性的挑発度を測るというのはかなりの違和感がある。

実は「温泉むすめ」など、おたくの世界ではかなりダサいキャラデザとみなされていて、たいていのおたくはあの程度では欲情などしない。

逆に、非常に高度なテーマ性を帯びた、性描写のあるアニメやゲーム作品は存在する。

マニアならストーリーに接しなくても「絵柄だけ」でそういう作品を見抜けるし、そういう作品の制作会社は、誰にでも目に入る街頭に扇情的な広告をデカデカと、などはやらない。

広告を出す時は節度ある表現にするか、あるいは「アートの次元」という普遍的説得力あるところまで逆に高めます。

ももこ作 版画
本日アールビバン展覧会(久留米リサーチパーク)で100枚限定生産予定の販売品を鑑賞してきましたが、販売価格50万円以上、さり気なく銀のラメまで入っている製品は、
UV加工で80年脱色の心配もないそうで、立派な芸術品的価値がありますね。
私の障害者作業所バックヤードのアニメライブハウス計画(なんと大分移住を待たず久留米で試験的にささやかな音楽喫茶から開始しそう!)が成功して来たら、
この絵の実物を観るだけでも来館するお客様呼べるわけで、
「ほんもの」だけを堪能いただく、
というポリシーの、
お店の「顔」として一枚飾りたいです。

いずれにしても、自らはTPOをわきまえたファッションやメイクをしないままに、男性の性的視線に傷ついたと主張し、感情的になることを「家父長制社会」で歴史的に妨げられてきた女性の正当な報復行為であるかのように正当化されても、なんだかなあと思う。

そんなに男が女性を恐怖して平伏する社会を作りたいのかと。

仮にそれで男性が服従したとしても、それは女性への理解の結果ではない。

怒り出す女性に、腫れ物に触るように、奴隷として「権力」に屈しただけだ。

奴隷はかならず叛乱を起こすと思うが。

虚しくはないのか?

女性が男性との関わりを拒否して女性だけの共同体の中で生きる自由はもちろんあると思うが、そういう共同体が社会全体に受け入れられるためには何が必要かは考えてみて欲しい。


また、そういうひとりよがりな「ツイフェミ」のことは別にしても、これは男性の場合についても思うのだが。

いまの時代って、自分が傷つけられたことへの権利回復=相手に「償い」を求めることには敏感になった。

繰り返すが、その人権意識の高まり自体は非常にいいことである。

人に不当な扱いを受けているのを我慢して、はじめて社会に受け入れられるといって状況は是非克服されるべきだ。

ただし、今度は、

自分の側も他人に対して「加害者」として、いつの間にか振る舞ってはいないか?

ということについてもたえず反省すべきかと思う。

なるほど、積極的な悪意はないかもしれない。

しかし、例えば、自分がしぶしぶ我慢し、服従して職場に適応している時、そういう暗黙の強制を気にかけない人物に遭遇すると、我々はそういう人物に、ニーチェのいう「ルサンチマン」、すなわち、ほんとうはそういう人を嫉妬しているのに、「あなたのために言っているの」とすら恩着せがましく付け加えながら自己規制を求めたり、上司や「御局様」にチクッたり仲間外れにしたくなりがちかと思う。

特に福祉の現場にいると、利用者の社会適応の援助という錦の御旗が、利用者を大人しい羊になるように抑圧的「教育」をしてしまう悪魔の誘惑がいかに根深いか、すなわち「パターナリズム」による人権蹂躙の恐ろしさは、この私のアカウントの最大の主張といっていいところまで来た。

より日常的な脈絡でも、相手の愛情信頼を得たいという、ある意味で当然の欲求は、よほど用心しないと、相手への支配欲と、服従させようという心理ゲームを呼び寄せる。

SNSでも、自分と同じ価値観の人たちと安心して群れていたいがために、違和を感じさせる人を強制排除したり、変えようとする衝動を抑えられない人は、たくさん見受けられる。

エコーチェンバーの楽園親衛隊という全体主義者になる誘惑は、その人が右か左か伝統主義者か「リベラル」か「進歩的」かなど関係ない。

自分とは異質な価値観の持ち主と、敬意を払い合いながらも対話できるというスキルを持っていてこそ「大人」だと思う。

いずれにしても、よほど虐げられた環境で過ごして来た人以外は、自分が人に傷つけられて来た経験以上に、人を、悪意もないままに、気付きもしないうちに傷つけて来た可能性もないか?くらいに我が身を耐えず振り返る余裕は欲しいと思う。

変な言い方に思われるかもしれないが、これができるのは、基本的に自己肯定感が高くて、自分で自分の事が好きな、自分で自分の味方ができる(「可愛くてごめん」の歌詞参照)人たちだけである。

自分の欠点限界を含めて、

「仕っ方ない奴、困った困ったア!」


(星野アイ by推しの子)

 と苦笑できる人間にしか不可能なことだ。

イギリスの精神分析の大家、世界で一番影響力のあった女性心理療法家のメラニー・クラインは、人生の大半とは、自分が傷つけ、破壊した対象の再生と修復という、「償い」の過程だと述べている。

だからこそ、やりがいがあるんだよね。

汲めども尽きぬ、エネルギーが湧いてくる。

聖書におけるイエスの、罪ある女性を石打ちにすべきか?という問いかけへの答え、

「まずあなたがたの中で、
   罪なき者が、
  石を投げなさい」

は、まさにこのベースライン回帰への誘いだと思う。







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