人生はゲーム、人は役者、現実は出来過ぎのフィクション
臨床心理系の勉強って時に辛くない?
— ぱうちゃ🌌 (@Pawchacha) March 14, 2026
逃げるように勉強して頭に入らない。
負荷が高いよ。
心理職ってすごいね。アタシには無理だよ。#放送大学
頭でやるから頭がつらくなるんですよ、きっと(笑)
— 阿世賀浩一郎@アニメや創作の話からでも大丈夫なオンライン相談、やっています! (@kasega1960) March 15, 2026
小説とか物語とかを読んだり、アニメやドラマを観たり、ゲームをするつもりになると、きっと「楽しく」なります。
人は自分の人生という「物語」を生きているだけとも言えます。…
頭でやるから頭がつらくなるんですよ、きっと(笑)
小説とか物語とかを読んだり、アニメやドラマを観たり、ゲームをするつもりになると、きっと「楽しく」なります。
人は自分の人生という「物語」を生きているだけとも言えます。
フィクション以上にフィクションじみている人生をクライエントさんの多くは生きてます。
最後に、恩師村瀬孝雄がさりげなく語ったんだけど、結局、一番私の心に残っている言葉を。
欧米人は、自分の人生を、一つのゲームとしか思っていないからね。
人生がゲームだと気づいたら、いろいろな意味で肩の力が抜け、楽になるというのが、私の、振り返ってのしみじみとした実感ですね。
シェイクスピアの「ハムレット」だったか?の幕切れのセリフが
「人生とは俳優のようなもの・・・」
で始まっていたと思います。
追伸:
— 阿世賀浩一郎@アニメや創作の話からでも大丈夫なオンライン相談、やっています! (@kasega1960) March 15, 2026
調べたら、別の戯曲でした。
「お気に召すまま」。
「この世はすべて舞台、人は皆ただの役者にすぎない。出入りがあり、一生の中で多くの役を演じる。その行為は七つの幕で成り立つ」https://t.co/mxHphuFhTT
以下、
「引用・発言・名言の非公式解説ノート」より転載:
「この世はすべて舞台、人は皆ただの役者にすぎない。出入りがあり、一生の中で多くの役を演じる。その行為は七つの幕で成り立つ」
Updated 2026/01/18

1564年4月26日~1616年4月23日(51歳没)
イングランド出身
劇作家、詩人、俳優
英文
“All the world’s a stage, and all the men and women merely players: they have their exits and their entrances; and one man in his time plays many parts, his acts being seven ages.”
日本語訳
「この世はすべて舞台、人は皆ただの役者にすぎない。出入りがあり、一生の中で多くの役を演じる。その行為は七つの幕で成り立つ」
出典
『お気に召すまま』第2幕第7場
解説
この名言は、ウィリアム・シェイクスピアの戯曲『お気に召すまま』の中で、ジャックというキャラクターが語る有名なモノローグの冒頭である。ここでシェイクスピアは、人間の一生を舞台の上の劇にたとえ、各人が異なる役割を果たしながら人生の幕を進めていくという考えを述べている。人生を演劇に例えることで、人間の存在が流動的で変化に満ちていることを強調しているのである。
ジャックのモノローグは、人間の人生を七つの段階に分けて描いている。乳児期から始まり、少年期、青年期、壮年期、老年期、そして最終的に再び幼児のように戻る老境を経て幕が閉じる。シェイクスピアは人生の儚さや循環性を示し、人間の経験が一連の役割の連続であることを哲学的に表現している。
現代においても、この名言は人生の変化や多様な役割を理解するための普遍的な比喩としてよく引用される。例えば、私たちは家族、友人、職業人として異なる役割を果たし、その時々の状況や環境に応じて行動する。シェイクスピアの洞察は、人生の一つ一つの場面が意味を持ち、それぞれが全体の一部としてつながっていることを思い出させてくれる。人生の劇の中でどの役を演じるかは、自分の選択と経験によって形作られていくということを、この言葉は私たちに考えさせるのである。
私のこのnote記事で恒例化しているのが、ユングの「ペルソナ」論です。
私はペルソナということを「偽りの自分を演じる」という意味では決して使いません。
これはユング自身が「ペルソナ」について書いていることを素直に読む限り、そうなるはずなのです。
他者にほんとうに自分の気持ちを伝えようと思ったら、
相手に自分の気持ちが「通じる」ように、
相手がどう受け止めるかに周到に感度をあげながら、
「自分自身」を周到に「演じる」必要が出てくるはず。
感情任せにふるまって、相手がこちらを振り向くことなどあり得ない。
これは私が、離婚を経て最初の恋愛(若い人でした)で醜態をさらして以降、肝に銘じた来た人生哲学の核心中の核心です。
私だって、愛する人の前で涙を流すというか、涙で愛を訴えることは、勘所と言っていい場面では結構ある(!)のですが、私の中の演出家が、「はいい、ここでは泣いてもいいですよー」というゴーサインを出した時なんですね。
といいますか、こうやって記事を書いている最中も、私は絶えず「内なる演出家」の監視とコントロールのもとで「即興のセリフ」を「口にして」いるだけです。
私のこうした書き込みには「下書き」というものがないというか、たいてい、前から後ろに向かってさらさらっと、書きたくなった時の流れに乗るように書いています。
あとで途中を補足するとかも稀です。
ほとんどの場合、「一筆書き」に近いです。
👇 この長大な凝った大論考すら、そうですよ
(コラム化した部分のみ後で補足しています)
これを私は「神の手が書かせる」とすら言い出すことがあるから、困ったもんですが(笑)
おそらく、私と中途半端な気持ちで交際しようとか言う女性が現れたら、このある意味で計算され尽くした「全部即興劇の俳優の演技」という性質に違和感、というより、「引いて」しまうだろうと思います。
ある意味で「隙がない」から。
女性にもたれかかろうとはしないから。
ではどうして、今の彼女とうまくいっているのか?ですか?
うーん、それは彼女が常に私のシミュレーションを超えた反応しかしないという点では、超天然、ただしそれがゆえにもはや思慮深い「叡智」を超えた「叡智」、という、わけのわからん領域で、
彼女が「直感的に」やったことが一番の「現実主義」
といいたくなる、実に興味深いところがあるからかと思います。
最近「閃光のハサウェイキルケーの魔女」公開中で、私がこれまで全く語ってこなかったガンダム愛が突如暴走していることに、私の「アニメージュ」や「OUT」投稿時代からを知っている例外的な読者も驚いているかもしれませんが、これは、私の中での女性観みたいなものが、やっと冨野由悠季さんが以前から描いて「いた」女性観が腑に落ちる段階に到達したからだと、私は思っています。
私なりの「ニュータイプ」論の構想そのものは、実はまさに「逆襲のシャア」の頃に、「天空の城ラピュタ」との比較論という形で成立しています。ただその投稿は採用されてないボツ原稿のまま散逸したので日の目をみていないというだけのことでして、それをまもなくやっと全容を披露するつもりですが、そこにはほとんど「女性的なるもの(ゲーテ「ファウスト」第2部幕切れのセリフ)」が影響を落としていませんでした。
ところが今回あとしばらくで公表するはずの「Ver.2」では、冨野さんの「女性観」だと私が感受した内容が如実に反映した形にアップデートしています。
実はそれはXでは連投として一応おおよその流れを書いてしまっていますが、神様がまだ「note上で書け」とはお命じにならない。
だからどんどん後回しにしているのですが、これはこれでいいのかな?と思っています。
つまり、現在の封切り公開が一応終わってからのネタバレという形がふさわしいようにも感じて来ています。
それまでは、「キルケーの魔女」を観たそれぞれの観客が、特にギギという史上空前のファム・ファタールキャラを自分なりに消化する時間を与えた方がいいのではないかと・・・
・・・同じ上田麗奈さんが演じた「チェンソーマン」のレゼの方が、まだ二次創作的にはいくらでも明るいラブコメのワールドで料理しやすいけど、ギギはどうだろう?アニメファン層にはもはやビビっている人たちもいそうで。
もちろん、第3部が何年か先で、現状未完結、さあ、これからがほんとうのハサウェイとの「接近状態」でのラブ・アフェアかね?というところまでやっときたばかりだし、原作ともいろいろ冨野さん、もう展開変えるんじゃない?との観測もあるので、彼女が気に入った人も「態度保留」しかないのかもしれませんが。
まあ、いずれにしても、ギギという存在に魅惑され、自分の彼女の中にも「ギギ的なもの」を感受している(別に金持ちのじいさんの愛人だったことはないが)ところはありますね。
それは何か?という点については、私の骨子としたいニュータイプ論を縦糸とすれば、横糸になるので、少し言及しておいていいですが(ここからは少しだけ「キルケーの魔女」のネタバレになります)。
ギギは突如「ある有名な場所」に(観光に)行きたいと言い出しますよね?
実はそこに行くことは結果的には「図星」の意義があったわけですけれども(…と、あえて婉曲に書いておきます)、このような「全くの直観的な選択が、実は一番高度なリアリティのある結果に貢献するというあたりが、ニュータイプのニュータイプたる所以です。
そしてそこには、「女であること」が決定的な意味を持つ。
・・・おーっとっとっと!
ここから先はnoteではまだ書くな!と私の神様の指令が出ました。
実は私の彼女の場合も、率直そのものではありますが、ピュアーな純真無垢というのとは全く違う側面があります。そこんところはさすがに彼女と私のプライバシーということにして置きますが、結果、信じられないくらいの「そつのなさ」と世間知として現れる時があります。
具体的には、私の職場と顧問弁護士(もめてることは記事で晒しましたが)に「義理チョコ」を送ろうか(そうすれば私への援護射撃になりはしまいか?)という提案を自分からしてきましてね。
「あ、それ弁護士さんには刺激が強すぎて裏目に出るかも。まだ君は弁護士の視野には入らないままの方がむしろ安全」ということにしましたが。
(「あのさ、それってお歳暮の送り先考える配偶者に近い発想」という言葉が喉まで出かかった)
何か、今回の私の記事は、起承転結のそつのなさが特徴の私としては非常に珍しいくらいに、いったいどっちに話が向かってるんだ?になっている気もするので、そろそろ本来の軌道に戻る(in orbit)と、いずれにしても、私の場合、相手との関係性に徹底的にアンテナを立て、相手に「通じる」言い方にコントロールしたうえで完璧にそこで求められた「役を演じる」ことが通例というのは確かです。
それでもそれは、私に言わせれば、少なくとも欧米のセレブにとっては当たりまえの、洗練された、相手への配慮と自己主張のwin-win関係だとは思っています。
何か私には珍しい、少しいびつなバランスの「竜頭蛇尾」の文章という気もしますが、時にはこんなのもいいかと。
