見出し画像

ユングの性格4類型論で、アニメ巨匠4人を分類する作家論 第2回 -創造の神が憑依して来て書かれた作品は「聖なる」ものであり、言葉で批評してはならない。細田作品は優れて「構造主義」的なものだから、今日の「ポスト・構造主義」的批評空間に理解されるわけがない-


第1回に対する、shogopinさんからのコメントに対する、更なる私のコメントを、ほんの少しだけブラッシュアップしたものです。
ほんの30分くらいしかかかっていません。まさに私に憑依した「神の手」が、さらさらと書かせたというしかなく、自分が書いていく内容を、自分で唖然としながら同時に読み進むのみでした。
手前に戻って手を入れた箇所ゼロの、ひとふで書きの産物です。


宮崎さんの(「君たちはどう生きるか」で逆転ホームランを打つまでの)「ハウル」ピーク仮説に賛意をいただけるとは思いませんでした。

キムタクの役作りのせいかもしれませんが、「ハウル」はほんとうに爽やかなラブ・ファンタジーになっていると思います。

翳るのは……ハウルが消耗して眠るシーンのみですが、わたしはあそこを観た時、深層心理的解釈を、敢えてしない、という決断をはじめてしたわけです。

私は「アニメージュ」で初めて「となりのトトロ」のレビューを書いた人間なんですが、その時には深層心理的解釈を書いています。

ネコバスの、息づきがある、毛でおおわれた内部空間は何を意味するか?

私の解釈は、母親の胎内空間であり、なおかつ、入院していて不在の母親代わりの父親に包まれてもいる、という、現代で言えば「ジェンダーレス」な養育者の象徴的表現、という解釈です。

中トトロと小トトロは、サツキとメイの分身みたいなもの、大トトロは父親の分身ということになります。

まことにクリアーな解釈なので、今も気にいっています(笑)

でも、ハウルの引きこもりのシーズンという、ある意味で類似した面があるのがミエミエなシーンに直面した時、なぜか、自分の中でもそれを明快に言語化した「象徴解釈」まで進めることを寸止めにしてしまう方がいいと思いました。

これは、「公表」しないというだけのことではなくて、私の内面でも、それ以上言葉を探さないという徹底度でした。

そうしないと、私自身の鑑賞体験自体を汚すというか、穢すと感じたのです。

「ハウル」のそのシーンは、何かマジに「神聖な」領域に属していると感じたのです。

つまり、人間の「頭」が「考えて」作りだした「寓意」や「象徴的表現」なのではなくて、創造の神様自身が、宮崎さんに憑依して、宮崎さんの意思の代わりに「書かせた」という「直観」です。

これは私自身が信仰を持つゆえの実体験に基づく判斷というしかありません。

つまり、傲慢に思れるかもしれませんが、私には、私が、自分の「考え」や「意思」ではなくて、神様の「計らい」で言動している操り人形に過ぎないと感じることが、かなりありふれてあります。

そういう時は、よほど厳粛な気持ちで、謙虚に、神様に導かれるがままに務めを果たさないと、神様に殺される、というのに近い恐怖のもとでそれをやっています。


「直観」に基づく言動は、まさにそういう領域と接している。

だから他のクリエイターがそういう次元でクリエイトした時は、それを「同類」というのを、それこそ「直観」できます。

この点で言えば、たとえ押井さんが、どれだけ聖書の言葉を引用しようと、それは押井さんの宗教についての「知識」の産物です。

むしろ押井さん自身は無神論者だと思います。

自分が操っているのが「機械仕掛けの神(デウス・エクス・マキーナ)」であることを完全に自覚している。

それどころか、押井さんは、「自分の表現は、すべて他の演奏作家のパクリである」という意味のことを自分から明言しています。自分には絵画的・映画的イマジネーションのオリジナルなクリエイティヴィティはない。全部借り物、作り物と自分から明言しているのです。

では、細田さんが「スカーレット」で一神教的世界観を導入できたのは?
恐らく彼個人の信仰心ではありません。彼がクリスチャンであるという情報を私は掴んていませんし。

恐らく民俗学次元でのフィールドワークの産物です。制作スタッフがまずはヨルダンに長期取材したことは知られている通りです。

だから、宮崎さんが「千と千尋」以降に飛ばしている龍は、軽率に、深層心理学的に「象徴解釈」すべきではない。でも、細田さんが「スカーレット」で描いた竜は問題なしです。民俗学上の竜ですから。

押井さんに至っては、機械仕掛けの龍しか登場しない(笑)

唯一の追記:その意味では、押井さんの作品は、ポスト・モダンであり、現在の批評空間とも相性がいい。

ここに、現代における批評空間の最大の問題点が露呈します。


つまり、すべてが、「人間」の世界になってしまった。

だから、宮崎さん「後期」の竜も、細田さんが「スカーレット」で登場させた竜も、押井さんの登場させる竜も、竜という「記号」に過ぎなくなり、その違いを識別する能力が、批評家たちにはもはやないということです。

クリアーに言えば、レヴィ·ストロースの「野性の思考」の構造主義まではよかった。

なぜなら、キリスト教インサイダーの目からは見えなかった、原始的な信仰心というものに注目させ、信仰というものの普遍的なエッセンスに人々を注目させたからです。

こうして、細田さんの「スカーレット」が、優れて「構造主義」次元にあることが明確になります。

ユングを構造主義者の枠に入れる論者は少ないですが、私は基本的にはそれでいいと思います。

敢えていいますが、ユング自身は明らかに無神論者です。

むしろ、宗教的なものが不健康な次元に迷走した場合にどれだけの害悪があるかを知り尽くし、社会のそうした動きに非常に敏感でした。

ユングがナチスの協力者であったという俗説がありますが、これは全くの誤解です。

彼の書いた「ヴォータン」という短い論文さえ読めば、ユングがナチスの台頭をどれだけ危惧していたか、そしてそのことに警鐘を゙鳴らす短い論文を、ドイツの隣国スイスから発信することが、どれだけ覚悟がいることだったかが、ひしひしと伝わります。

いずれにしても、

すべてを「差異化」の戯れとみなす、今日主流のポスト構造主義的批評空間が、構造主義の権化である、細田氏の「果てしなきスカーレット」を目の敵にしている、というより、まるで理解できないのは、当たり前のことということなります。


いいなと思ったら応援しよう!