みくまり~吉野川分水~
【記録◆2025年9月16日】
本日の行き先は、『吉野川分水 歴史展示館』と、
「みむろ山(三輪山)」の『大神(おおみわ)神社』。
「COGY(足こぎ車いす)」を、車の後部座席に載せます。

6月6日の記事に、【大和盆地という「室(むろ)」に満ちているのは、『事代主(コトシロヌシ)』の慈愛であるように感じます】と書きました。
では、大和盆地の底を流れゆくのは、
「水分神(みくまりのかみ)」の慈愛でしょうか。
「吉野川の水を引く」という大事業が、300年かけて成し遂げられるまで、「少雨地帯である大和盆地」の農業は、ため池が頼りでした。

◇◇吉野川分水 歴史展示館◇◇

小さな展示館なのですが、あちこちで涙があふれそうになります。
「理由の判らない涙」は今回も、出雲神族と繋がっていたよう。
「吉野川の水をなんとか引けないものか」と、300年前に声をあげたのは、
「名柄村(現在の御所市)」の高橋佐助さん。
それを知った瞬間、『長柄首は、事代主の末裔なり』という一文が、頭に響き渡りました(『新撰姓氏録』に記されているそうです)。
『長柄神社(御所市 名柄)』には、昨春に行っています[上の記事]。
「水争いに勝って、自分たちの土地を水で満たそう」と考えるのではなく、「大和平野に吉野川の水を」と考えるのが、出雲神族の末裔らしい………
[注:高橋佐助さんの出自は存じ上げません。]
そのときに考えられた分水計画は、現地調査や構想が重ねられたけれど、実現しませんでした。
とはいえ、元禄、寛政、安政、文久、明治、大正、昭和と、超えられない苦難の手前で立ち止まりつつも、歩みは続いていたのです。
昭和22年に、国の復興計画の中で、ついに事業が動き出しました。

立ちはだかる問題は、
〇工事の難しさ
〇資金が膨大になること
〇和歌山(紀州)の反発
「少雨地帯の大和盆地」に「多雨地帯の南部」から流れる川は1本も無く、
吉野川は、「雨が続くと大洪水、日照りが続くと大渇水」という苦しみを、下流の和歌山(紀州)にもたらしていたのです。
ここでも、「大和盆地だけが、恩恵のみを受ければ」とはなりません。
和歌山には、太平洋へ流れていた水を引くこととなったのでした。
それまでの流域は、
「奈良県南部→吉野川(奈良)→紀の川(和歌山)→紀伊水道」
「奈良県南部→十津川(奈良)→熊野川(和歌山)→太平洋」
画期的な大事業の後、ふたつの川の流域が変わりました。
「奈良県南部→十津川(奈良)→紀の川(和歌山)」
「奈良県南部→吉野川(奈良)→吉野川分水→大和盆地」
いまでは、日本有数の多雨地帯『大台ヶ原(奈良県南部)』に降る雨が、
「紀伊平野(和歌山)」「大和平野(奈良)」を潤しているのです。
[大台ヶ原については、以下の記事。]
「吉野川分水歴史展示館」には、施設の模型がありました。


以前、パソコンで航空写真を見ても、水路の場所は判りませんでした。
「暗渠」になっているため、空からは見えなかったのです。
それで、いちばん見たかったのは、展示館の床でした。
「大和盆地(大和平野)」の地図に、水路が描かれています。

この水路をつないで直線にすると、約336km。
「東大寺の大仏(奈良)から安芸の宮島(広島)までの長さ」とのこと。
最北端の奈良市まで、吉野川の水は行き渡っています。
ですから、都市部にとっても、「山間の源流」は大切なのです。

「プロジェクションマッピング」で、様々な情報を得られます。わたしは、感動の涙をぬぐいつつ2回も見ました。他に誰も居なかったので。


「ごはん1杯分」の米をつくるのに必要な水は、278リットル。
ペットボトル(500ml)だと、約556本。
水不足を解消するため、過去には多くのため池が造られました。
現在も、約5000ヶ所が残っています。
プロジェクションマッピングでは、ため池が「天の川銀河」のよう。

わたしは、京都で都市銀行に勤めていたのですが、伊勢から電車に乗って「みむろ山(三輪山)」の横を通ったとき、その後の進路を決めました。
「京都に住み続ける道」をほぼ選び終えていたのに、「この道は違う!」と直感したのです。翌年には、みむろ山の麓で奈良県民となったのでした。
先天性の身体障害があると判るまでには、農作業もしていたのですよ。
農業雑誌の取材を受け、「酪農家の微生物担当」と紹介されています。
[乳牛70頭がいる牛舎を微生物で消臭した話は、以下の記事内。]
「幼児と親たち」数十人で、畑作(無農薬)をしていたこともあります。
幼稚園に子牛を連れていって、園児に成牛の飼料を作ってもらったこともあります(テレビ放映もされた)。
農業は、続けるほど赤字になるため、稲作も酪農も止めました。わたしの子どもたちは農業学校へ行きましたが、家業を継がせませんでした。
「廃業したのに、酪農を学びに行かせるのは無駄」と周囲に言われたとき、「子どもたちは行きたい学校へ行けばいい」と、すぐさま返しました。
上の子は奨学金で進学して、就職後に自分で全額を返済したのです。
「クラスや学年で1番になったことより、わたしには子どもたちがもらった皆勤賞のほうがうれしかった」と前に書きました。学校の職員と生徒全員がインフルエンザで倒れたとき、牛の世話を続けたのがうちの子でした。
話を戻しましょう。
現在の家業が畑作で、吉野川分水の使用料は、ずっと払い続けています。
それで、通水期間中は24時間、施設の管理をしていただけるのです。
老朽化対策も万全。

受付も無人だったため、写真を載せてもいいか確認できませんでしたが、
撮影禁止の表示は無かったので、ごく一部を遠慮がちに載せておきました。
◇◇大神神社◇◇
「COGY(足こぎ車いす)」を使いませんでした。拝殿だけなら、二本杖で参拝するほうが簡単だから。
ひとが少ないので、裏参道から階段を下りて、表参道の鳥居をひさびさに見上げました。


拝殿の向こうは、みむろ山(三輪山)山頂ではなく「標高326m」辺り。
子どもの頃から参拝しているという奈良県民さんに、
「大神神社の神さまを知っている?」と訊いたら、
「山が神さまだとおもっていた」とのこと。
月参りをしている方でも、そういう感じなのでした。
わたしも、『滝野水分(みくまり)神社』に祀られているのは瀬織津姫と知った後も、参道の奥では、「滝の神さま」としか呼びかけなかったので、御祭神の名前は、御神体に近寄ると、意識から離れてしまうのかも。
[瀬織津姫については、以下の記事。]
上の記事で巡った『滝野水分神社』『平野水分神社の上社と下社』でも、
下の記事で参拝した『吉野水分神社』でも、古代とは違って現代では、
「水を配ってください」と祈れば、大和盆地にまで分けていただけます。

そういえば、「COGY(足こぎ車いす)」で境内を巡ったとき、
「大和に最初の王国を造ったクシヒカタ」の妻「美良姫」が祀られている『御誕生所社』は、事実とは合わない社名だとおもいました。
[以下の記事。]
今回、ふとおもったのです。
「誕生(たんじょう)社」とは「丹生(たんじょう)社」だったのでは?
『吉野水分神社』も、「みくまり」が「みこもり(御子守)」に転訛して、
「子宝の神」にもなっています。
みむろ山の尾根を歩いて「丹(辰砂)」を運んできたひとびとがここで、いったん荷をおろしたのでは?
二本杖で境内を巡ったとき、「禁足地だけど、歩きやすそうな尾根」と、わたしは感じていたのでした[以下の記事]。
[注:『note』の記事は、学問を修めていない者が想像した内容で、歴史を学ぶ方の参考にはなりません。念のため。]
