AIで画像が生成できる時代に、なぜ僕はマニュアルレンズを選ぶのか?
便利になった時代に、僕はあえて不便を選ぶ
時代に逆行したくなったら、人はそれを老化と呼ぶのだろうか?
最近、AIの話題をよく目にする。
写真の世界でも、その波は止まらない。
生成か、撮影か。
AIか、人間か。
正直、どちらが正しいのかという議論には、あまり乗りきれない自分がいる。
馬が車に変わったように、
きっと人はもう、AIなしでは生きていけない。
「わしゃ嫌じゃ」と言ったところで、時代は止まらない。
それなのに。
僕はわざわざ、
マニュアルでしか撮れないレンズを買った。

♠️
先日、ベッドに寝転びながら、スマホをスクロールしていた。
流れてくる画像や動画。
AI生成とわかるものもあれば、ほとんど区別がつかないものもある。
どれもすごい。
本当にすごい。
でも、なぜか残らない。
すごいと思うのだから、そこに感動がないわけじゃない。
ただ、数分後には思い出せない。
AIの進化スピードには驚く。
でも、画像に対して心は揺れなかった。
そんなとき、ふと思い出した写真がある。
誰が撮ったのかまでは覚えていないけど、雪原に、一本だけ立つ木。
モノクロで、ミニマルで、静謐で美しい写真。
もちろん、AIでも作れそうな構図だ。
でも、その写真からは、温度が伝わってきた。
寒かっただろうな。
どれだけ待ったのだろう。
足跡をつけずに撮れるのかな?
足跡が雪に消えるまで、待ったのかな?
写真一枚に、想像できる余白があった。
写真の奥に、吐く息の白さまで感じることができる。
完成度ではなく、そこに至るまでの時間が確かにある。
写真に必要なのは、完璧と言われるアウトプットよりも、その撮影者の呼吸や痕跡の方かもしれない。
ちなみに、AI生成の画像を否定する気はまったくない。
あくまでAIはツールだから。
そういう意味では、カメラだってツールだし、オートフォーカスも、Lightroomも、全部便利な道具だ。
じゃあ、AIは否定するのに、オートフォーカスはOKとする境界線はどこにあるのだろうか?
そこまで考えてふと気づいた。
そうか、僕は「撮った結果」よりも、「撮る体験」が好きなんだと。

♠️
一年前、足を怪我してから、ずっとオートフォーカスに頼っていた。
確かに楽だった。
でも、どこか手応えがなかった。
背面液晶を見ながら、効率よく撮る。
それは楽だし、出てくる絵も素敵だ。
何より、ピントがちゃんとあっている。
でも、少しだけ作業に近い気がしていた。
怪我がようやく治り、
少しだけしゃがめるようになった今、
僕は再びマニュアルレンズを手に取ったわけだ。
ファインダーを覗いて、
自分でピントを合わせる。
その瞬間の、少しワクワクした気持ち。
ジャスピンじゃなくてもいい。
シャッターチャンスに間に合わなくてもいい。
じっくり構えて、シャッターを切る。
この所作が、たまらなく好きだったのだ。
♠️
AIの時代に、何が残るのか。
たぶん、それはもうツールの優劣じゃない。
どんな視点で、
どんな時間を通過して、
その一枚に辿り着いたのか。
僕は今、そのプロセスを取り戻したくて、
マニュアルレンズを選んだ。
正しさより、体験。
なんか、そんな気分なのだ。

参考記事|最近お気に入りの50mmレンズの話を、もう少し具体的に書いてみた。
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