白紙を撫でて|【狸の短編小説】
肌にまとわりつく、重い時間の粒子が漂う店の奥、時間の流れから取り残された棚にそれはあった。
ザラリとした深い赤色の表紙には、金色のインクの冷たい隆起が『霧隠しの絵本』という文字列を伝えてくれる。
背後で低い咳払いが聞こえて、私は硬貨を数枚、カウンターの木材に滑らせた。
乾いた音が店内に響き渡った。
アパートの床を軋ませながら、心臓が余分に脈を打っている。
買ったばかりの表紙を開くと、鼻腔をくすぐる過去の香りが肺を満たした。
最初のページには、指先に伝わる無数の凹凸がある。
家々の硬い輪郭と道のざらつき、行き交う人々の気配が起こす微かな紙の震え。
次のページをめくると、村の向こうの山裾に、インクの滲みが描き足されている。
部屋の空気が密度を増して、窓の外から投擲される車の走行音が、厚い壁の向こう側へ押しやられた。
ページを進めるたびに、絵の中の滲みは広がって、世界の輪郭を溶かしていく。
家々の凹凸はなだらかになり、教会の尖塔は指先から消えて、道の感触さえも平坦になった。
階下から届けられていた夫婦の話し声も途絶えて、壁の時計が時を刻む金属音も、湿った沈黙に吸い込まれる。
向かいのアパートの窓から漏れていた生活の熱が、もうこちらへは届くことはなかった。
最後のページに指が触れると、そこにはもう何の凹凸もない、ただ湿った紙のひんやりとした感触があるだけだった。
ページから指を離した際の乾いた摩擦音が、私の聞いた最後の音。
部屋は完全な霧に満たされて、匂いも音も気配もない。
この絵本と私だけが存在する、穢れを知らない純白な空間。
私の世界が、ようやくこの絵本の終わりに追いついたと笑みが溢れた。
だって、私は最初から何も見えていなかったのだから。

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