雨止みの頁|【狸の短編小説】
雨音が部屋中を湿らせていた。
床の木目も壁の染みも、膝の上で開かれた一冊の絵本も、その音を吸い込んで静かに呼吸している。
向かいに座る少年が、小さく指をさした。
「読んで」
男は頷きながら、硬い頁を一枚めくり始めた。
その指先が、決して少年に触れないように。
インクと古い紙の匂いが、湿った空気のなかに立ち上る。
物語の主人公は、雫の王子。
雨粒から生まれて、雨が降る間だけお城で暮らす。
雨が止むと、城もそこにいる者たちも、王子自身も乾いた大地に滲んで消える運命にあった。
声が雫の王子の最期を語り終えて、少年はただ物語の終わった頁を見つめていた。
窓を打つ音が次第に遠のいていき、灰色の光が薄れて、雲の切れ間から差す鋭い筋が、床に伸び出した。
部屋の隅から、ゆっくりと色が乾いていく。
自分の手を見つめる少年。
その指の向こうで、床の木目がわずかに揺らいだ。
ざらつきが光に溶けて、淡い染みになって広がっていく。
「……やだ」
唇から、乾いた声がこぼれた。
手を伸ばすが、指先はただ虚空を掻く。
少年は顔を見上げて、かすかに口もとを緩めた。声にならない言葉が、その形だけで空気に溶ける。
(さよなら。また、次の雨の日に。)
視界のすべてが水を含んだ紙になり、色が混じり合って滲んでいく。
姿も部屋の景色も、ひとつの優しい色合いのなかへ沈んでいった。
気づけば、椅子の上は空だった。
少年がいたはずの場所には、何も残されていない。
床に広げられた絵本だけが、最後の頁を開いたままその身を預けていた。
インクの染み一つない、目を焼くほどの優しい虚無。
窓の外から差し込む光が、部屋の塵を金色に照らし出す。
男は、自分の足元にできた小さな水たまりに、はじめて気がついた。

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