空虚を満たす|【狸の短編小説】
古い木造アパートの二階の突き当たりの部屋。ここが私の居場所だった。
軋む床の音は歩幅を教えて、窓ガラスを震わせる風は季節の匂いを運んでくる。
外の世界の営みは、すべてが分厚い壁の向こう側で響く、鈍い余韻に過ぎない。
ただ一つ、どうしても階段だけが気がかりだった。
部屋を出て、階下へと続く十三段の階段。
その上から五段目だけが、乾くということを知らなかった。
晴れた日が続いても、夏の日差しが廊下を焼いても、そこだけが鈍い光を放って、ジットリと湿っている。
はじめはそれを避けていた。
靴底にまとわりつく冷たい感触が、静かな思考の時間を乱すから。
だが、その均衡が崩れる雨の夜は不意に訪れた。
ぼんやりと降りていく途中で足が滑って、掌がその湿った木肌に触れてしまう。
雷鳴が轟く如く、氷のような冷気が皮膚から神経を遡ってきた。
あまりの衝撃に階段から転げ落ちてしまう。
その瞬間はそれだけで済み、平然を装えるほどの余裕があったが、眠りの中ではそうはいかなかった。
それからというもの、階段を下りる度に、無意識に指先がその湿り気を探すようになってしまった。
触れる時間は、次第に長くなる。
帰らない誰かを待つ窓際の気配、ポツリと頬を伝っていく熱いものの感触。
冷たさの奥に、何か別のものが混じり始めて、私はどうしようもなく、それを求め続けてしまった。
それらは決して私のものではなかったが、私の内側にある空洞の形に、驚くほど正確に嵌まった。
感覚に身を委ねることで、かろうじて自分の輪郭を保っている。
アパートの大家は、「さあ、昔からですかねえ」と曖昧に笑うだけ。
他の住人は、五段目の異変に気づいているのかいないのか、何も言わずにその上を通り過ぎていく。
私とこの階段だけの秘密という閉塞感が、私を縛り付けていた。
今夜は嵐。
風が家全体を揺らして、窓が悲鳴を上げている。
階下からは、水の滴る音が聞こえてくる。
いつもより、ずっと多い誘惑音。
吸い寄せられるように部屋を出た。
五段目の滲みは、黒々とした水たまりとなって、溜め込んだものを静かに溢れさせている。
靴を脱ぎ捨てて裸足になる。
冷たい床が決意を鈍らせるが、一歩、また一歩と進む足を止められずに、冷たい水たまりへと踏み入れてしまった。
全身を貫く衝撃。
足元から、自分の存在が溶け出していく感覚。
木の繊維が皮膚に、肉に、骨に侵食してくる。
頬を伝う熱い雫が自分のものか、そうでないのか、もうわからなかった。
薄れゆく意識の隅で、階段の上に立つ誰かの気配が、わずかに微笑んだように見えた。
***
翌朝、嵐は嘘のように過ぎ去っていた。
アパートの住人が、欠伸をしながら階段を下りてくる。
いつも湿っていたはずの上から五段目は、他の段と見分けがつかないほど、カラリと乾いていた。
ただ、その使い古された木目の中に、以前はなかったはずの濃い染みが、静かに浮かんでいる。
住人はそれに気づくことなく、足早に通り過ぎていく。
二階突き当たりの部屋の扉は、開くことを知らない。

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