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ゼロになるための練習|【狸の掌編】

母さんの愛は、いつも重たい金色だった。

蜂蜜のように甘く、
溶けた鉛のように僕の器に流れ込んでくる。

あなたのため」という言葉と共に注がれるたび、
僕は息が詰まりそうになる。

僕の器は、その金色で満たされ、
縁からはみ出しそうになっていた。


 次のテストも期待しているわ。
 良い子でいてくれて、お母さん嬉しい。
 
 おばあちゃんも、お母さんがそうやって
 期待に応えるのが一番の喜びだって、
 いつも言ってたもの
 」

その言葉のひとつひとつが、
金色の液体に重さを加えていく。

僕自身の形が見えなくなるほどに。
僕という器は母さんの金色を溜めておくためだけに
存在するようだった。

僕の本当の色は何色だったのだろう。
僕の本当の重さは、どれくらいだったのだろう。

もう思い出せない。

だから僕は器を空にすることにした。


自分の部屋に閉じこもり、耳を塞いだ。
母さんの声が届かないように。
勉強もやめた。本も読まない。

ただベッドに横たわり、
天井の何もない一点を見つめ続ける。

思考を止め、感情を殺し、意識的に器を傾けて、
重たい金色を少しずつこぼしていく。

最初、器の底が見えたときは、少し怖かった。
何も満たされていない、
つるりとしたガラスのような空虚。


だが、すぐに安らぎは訪れた。
軽い。こんなにも軽かったのか。

誰の色にも染まっていない、
ただの空っぽであることの静かな喜び。

しかし、僕の器が空っぽになればなるほど、
母さんの器は激しく波立った。

部屋のドアを叩く音は、彼女の中の液体が、
不安と焦りで沸騰しているようにも聞こえる。

それでも僕はドアを開けない。
もう、どんな色も受け入れたくなかった。


ある日、れいから短いメッセージが届いた。

『屋上』

黎は、僕とは違う方法で、
自分の器を守っている男だった。

彼の器は、
いつもどす黒く濁った液体で満たされている。
反抗という名の、重くて冷たい液体。

親や教師は眉をひそめるが、
誰も彼の器に勝手な色を注ごうとはしない。
あれは彼の鎧なのだと、僕は知っていた。

屋上のフェンスに寄りかかり、
黎は黙って煙草をふかしていた。
僕が隣に立っても、彼は何も言わない。

「悪い、約束、忘れてた」

先日、二人で馬鹿な計画を立てていた。
この退屈な街を抜け出して、夜行列車に乗って、
誰も知らない海を見に行こうという約束。

僕はそれを、
器を空にすることに夢中で、すっかり忘れていた。

別にいい」と黎は短く言う。

彼の器の中の黒い液体が、
静かに揺れているのが見えた。

いつもは濁っていて何も見えないはずなのに、
僕の器が完全に空っぽだからだろうか。

その黒い液体の底に、小さな光が瞬いているのが、
なぜかはっきりと見える。
それは、とてもか細く寂しげな光。

「お前の器、今、空っぽなんだな」黎が言った。

「綺麗だけど、寒そうだな」

「そうかも」


 でも、不思議だな。
 お前のその空っぽを見てると、
 俺のこの黒いのが、少しだけ透き通る気がする。
 吸い込まれそうになるぜ
 」

黎の言葉に、僕は息を呑んだ。

「俺のは、もうぐちゃぐちゃだ」

彼は自嘲するように笑った。


 いろんなもん入れすぎて何が何だかわかんね。 
 どうせ誰も俺の中身なんて見ようとしねぇからな。
 だったら最初から、
 この泥水で塗りつぶしちまった方が楽なんだよ。
 
 でもな、この泥水のおかげで、
 少しだけ温かいんだぜ
 」

その時、僕は初めて理解した。
器を空にすることは、
誰の色も受け付けないと拒絶することではない。

空っぽだからこそ他人の器の色を、
その濁りや、痛みや、奥底で瞬く小さな光を、
ありのままに映し出すことができる。

そして、相手の濁りさえも
静かに和らげることができるのかもしれない。

僕はずっと、母さんの金色に満たされるのが怖くて、
自分の器に蓋をすることしか考えていなかった。

でも、黎の黒い液体は、
僕の空っぽの器に何も注ごうとはしない。
ただ、そこに在ることを許してくれた。

僕は自分の空っぽの器に、
黎の黒を、彼の痛みを、ほんの少しだけ移してみた。

それは僕を少しだけ満たし、
そして奇妙なことに、少しだけ温かくした。


家に帰ると、ドアの前で母さんが待っていた。
またあの重たい金色の液体が満たされた器。
もう限界まで波打っている。

僕は、初めて自分の言葉で言った。

「母さん。その金色は、今は受け取れない。ごめん」

僕は空っぽだ。でも、それは虚無じゃない。

これからどんな色でも映すことができる、
無限の可能性を持った、
静かで透明な始まりの色なんだ。

自分の部屋に戻り、静かにドアを閉める。
ポケットからスマートフォンを取り出し、
短いメッセージを打つ。相手は、黎だ。

『海、まだ行けるか?』

送信ボタンを押す指は、もう震えていなかった。

窓の外では、夕焼けが世界を茜色に染めていた。

その美しい液体が流れていく景色を、
僕はただ静かに見つめている。



初めての長編に挑戦しました。⬇️

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