紫の聴者|【狸の短編小説】
棚には、お揃いのマグカップの片方だけが残されていた。食卓の椅子も、片方はいつも壁につけたまま残されている。
彼女は毎朝、トーストを半分だけかじって、もう半分を残したまま庭へ出る。今年の庭にも名も知らぬ野花が揺れている。
彼女はそれを数本摘み、食卓の小さなガラス瓶に挿した。誰に命じられたわけでもない、彼女にとっての静かな日課。
ある朝、彼女は瓶の水が指一本分ほど減っていることに気がついた。最初は気のせいかと思っていたが、翌日も翌々日も、水は目に見えて減っていく。
くすみがかった細い茎が、注ぎ足された水をゴクリと飲み込む音さえ聞こえてくる。不思議なことに、野花は萎れるどころか、日ごとに色を深めていく。
どれだけ時間が経とうとも、淡い紫だった花弁は濃く、鮮やかになっていく一方だった。
彼女は言葉を失い、ただその小さな生命を見つめた。彼女の視線を受け止めると、花たちがわずかに身じろぎするように見えてくる。
眠れない夜が増えた彼女は、キッチンへ水を飲みに立った際、食卓の上で何かが動く気配に息をのんだ。
ガラス瓶の野花たちが銀色の光を浴びて、ユラリ、ユラリと風もないのに揺れている。その小さな花弁の一つひとつが、耳のようにこちらを向いている。
花を凝視する彼女は、声を聴いた気がした。記憶の底から響く懐かしい声ではなく、もっと澄んだ、微かな音の連なり。
意味のある言葉だったのか、それともただの葉擦れの音だったのか、彼女には判別がつかない。けれど、その響きは確かに問いかけていた。
長いこと忘れていた感覚が、胸の奥から込み上げてきて、喉の奥が熱く詰まって視界が滲んだ。彼女は返事の代わりに、一度だけゆっくりと頷いた。
野花たちは、彼女に呼応するように、もう一度だけそっと揺れた。
翌朝、彼女は棚からマグカップを取り出した。埃を指で拭って、温かい紅茶を二つ分、静かに注ぐ。
窓から差し込む朝の光の中で、食卓の野花はただ静かに佇んでいる。湯気の向こうで、その紫色はひときわ鮮やかな色を放っていた。

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