香りの終点|【狸の短編小説】
厚いカーテンの内側には、床に層を形成した埃が居座っていて、午後の光は筋となって、こちらの隙を窺っている。
この部屋で唯一、埃の占領を逃れていたテーブルの上には、光を受け入れたガラスの小瓶が静かに佇んでいる。
慣れた手つきで蓋を捻ると、中に浸されていた一本の革の栞を、息を止めながら引き抜いた。
空気に触れた途端、栞はユリと微かなムスクの気配を放ち、部屋の淀みを満たしていく。
すぐさま目を閉じて、その栞をそっと額に当てた。
世界は香りに塗り替えられる。
目の前には、午後のカフェテラス。
向かいの席で、彼女の輪郭が揺らめいて、その口元が楽しそうに動いている。
テーブルの上のコーヒーカップからは、湯気だけが立ち上っていて、焦げた苦味はどこにもない。
さらに深く香りを吸い込むと、ユリの奥に隠れていた潮の匂いが鼻腔を突く。
今度は、目の前に知らない海辺の街が広がっていて、友人らしき人たちとセーラー服の背中が砂浜を駆けていく。
波音に混じるその甲高い笑い声には、ひとつも聞き覚えがなかった。
決まって最後にやって来るのは、これまで避けて続けてきた記憶の終着点。
今日、遂に向き合う覚悟を決めて、額に当てた栞へ祈るように力を込めると、想定していたアスファルトの匂いも、鉄の軋む音も押し寄せては来なかった。
代わりに身体を包んだのは、バターと砂糖が焼ける甘い気配。
ショーウィンドウに映る彼女の横顔は、胸に抱えた小さな箱を見つめて、期待に輝いている。
その直後、世界からすべての音が消えて、香りはプツリと途絶えてしまった。
目を開けたまま、頬を伝うものの熱で、ようやく我に返った。
椅子を立つ音が静寂を破り、震える手でカーテンを引き開けると、溜まった埃が光の中で乱舞した。
窓の錠に指をかけて、固く錆びついたそれをこじ開けると、眩しい夕陽が澱んだ空気を貫く。
手に持った栞を瓶に戻すことはなく、夕陽にかざすと、革に染みた最後の香りが金色の光の中をユラリと昇って、開け放たれた窓の外へと溶けて消えていった。
部屋にはもう、彼女の香りはしない。
窓から流れ込んできた新しい風が、床の埃を静かに揺らしている。

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