追憶の螺旋は香り立つ|【狸の掌編】
窓を閉め切ったこの部屋だけが、僕の世界だった。
陽の光さえ遮る厚いカーテン。
その薄闇の中、テーブルに置かれた小さな香水瓶が、淡い光を吸い込んで静かに佇んでいる。
僕は慣れた手つきで瓶の蓋を開け、
中に浸してある一本の革の栞を引き抜いた。
彼女が最後まで読んでいた、本に挟まっていた栞。
空気に触れた瞬間、
ふわりと甘く懐かしい香りが立ち上り、
僕の肺を満たす。
ユリと微かなムスク。彼女の香り。
栞をそっと額に当てる。
目を閉じれば、香りに世界が塗り替えられていく。
視界に広がるのは、いつものカフェテラス。
午後の柔らかな光がテーブルに落ち、
彼女が僕の向かいで楽しそうに笑っている。
僕が淹れた少し苦いコーヒーを
おいしいと言ってくれる声。
その香りと声が僕の現実だった。
この追体験だけが僕を生かしてくれていた。
この螺旋の栞は、
持ち主の記憶の香りを辿ることができる。
僕はこれを使い、彼女がいなくなったあの日から、
何度も何度も二人の時間を遡っては歩き直していた。
初めて手をつないだ並木道。
雨宿りした小さな図書館の紙の匂い。
そのすべてが、
この栞には螺旋状に刻み込まれている。
ある夜、僕はもっと深く、
僕の知らない彼女に会いたくなった。
僕と出会う前の彼女だけの時間に。
意識を集中させると、
香りはさらに過去へと遡っていく。
不意に、潮の香りが鼻をついた。
ユリの甘い香りの奥に隠れていた、
爽やかで少しだけ塩辛い風。
目の前には、僕の知らない海辺の街が広がっている。
セーラー服姿の彼女が、友人たちと砂浜を駆け回り、
空に高く笑い声を上げている。
僕の存在しない完璧な彼女の世界。
僕の知らない彼女の人生が、
こんなにも豊かで輝いていたなんて。
僕との時間は、
彼女の人生のほんの一部分でしかなかったんだ。
僕は今までずっと避けてきた
記憶へと向かう覚悟を決めた。
あの日。彼女が僕の前からいなくなった、
最後の一日へ。
再び、栞を額に当てる。
恐怖で震える指先を無視して、
僕は記憶の螺旋の終点を目指した。
覚悟していたアスファルトの匂いや
鉄の軋む音はしない。
代わりに僕を包んだのは、
甘く温かい焼き菓子の香り。
ラッピングペーパーのインクの匂いと、
ショーケースに並んだ色とりどりのケーキの香り。
彼女は、僕の誕生日プレゼントを選んでいた。
ショーウィンドウに映る彼女の顔は、
期待と幸福に輝いている。
「喜んでくれるかな」
弾むような独り言が聞こえる。
その直後、
世界は無音になり香りはぷつりと途絶えた。
目を開けると涙で視界が滲んでいた。
彼女の最後の瞬間は絶望ではなかった。
僕との未来を夢見る幸福の絶頂だった。
僕はずっと自分の悲しみで
彼女の物語を未完の悲劇として上書きしていた。
僕が彼女の記憶に囚われ続ける限り、
彼女の物語はここで止まったまま。
僕は、香水瓶を手に取り窓辺へ歩み寄る。
震える手で分厚いカーテンを開け放つ。
眩しい夕陽が、部屋に溜まった澱んだ空気を貫いた。
香水瓶から、そっと栞を引き抜く。
もう、二度と戻さない。
彼女の美しい物語を、
僕の執着で閉じ込めてはいけない。
栞を夕陽にかざす。
立ち上った残り香が、
金色の光の中でゆらりと螺旋を描き、
開け放たれた窓の外の空へ、溶けて消えていく。
「さよなら」
部屋にはもう彼女の香りはしない。
代わりに、窓から流れ込んできた新しい風が、
僕の頬を優しく撫でた。
彼女と過ごした確かな記憶を胸に、
僕は明日を生きていける。
初めての長編に挑戦しました。⬇️
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