「嫌いになって」最終話|創作大賞2024
6限目の終了のチャイムが鳴る。
学生たちがやっと終わったという顔で席を立ち、教室から出ていく。
誰かの鞄が去り際にテーブルにあたった音ではっとした。
真っ白のノートから顔を上げると壇上に講師はすでにいなかった。
教室に残った数人の学生が談笑していた。
講義の内容が全く頭に入ってこなかった。
同じ講義をとっている親しい人はいなかった。テストの時困るのは自分だからこの講義は気をつけようと思っていたのに。
もっとも教室内どころか大学内に親しい人なんかほとんどいないのだから、どの講義をとったとしても同じなのだけれど。
ノートをしまって鞄を持ち上げる。
なんだかずっしりと重かった。
鞄が重いからか、歩く1歩1歩もいつもより遅くなる。
やっとの思いで教室から出て、図書館に向かった。
今日返却しようと借りていた本を3冊入れているからだ。だから重いんだ。
廊下を歩きながら、大きく頷いた。
向かいからスマホを操作しながら歩いてきた男子にちらっと見られたが、すぐに画面に視線をうつしたので、なにごともなかったようにすれ違った。
廊下の角を曲がった後、はずかしさがじわじわと込みあがってきて、早足で階段を上った。
図書室のカウンターで返却する本を取り出す。
いつも通りの手続きを済ませて、定位置の席へと移動する。
いつもは移動する間に気になった本を数冊手に取っていくのだが、今日はなにも目に留まらなかった。
いつも通りイスを引いて座る。
窓に面してカウンターのように位置されているこの席が好きだった。
窓から中庭が見えるようになっている。
ここからこの時間に由依の姿を見るのが日課だった。
でもそれも終わるんだろう。今日フラれに行くらしいから。
今度会った時に言ってみようか?
いつもここから盗み見てたんだって。
多分、由依は驚いてずっと?と聞いてくるだろう。
ずっと見てたよ、と返してやろう。
えー、なんで言わないの?言ってよ、恥ずかしいじゃん、と笑う由依。
そして、中庭を通って帰る時に振り返り、手を振ってくれる。
そこまで考えて机に突っ伏した。
これから通るだろう由依の姿を見たくなかった。
なんで言ってしまったんだろうか。
由依だって自分でもわかってるはずなんだ。だから、私が言う必要なかった。
つい由依に自分の姿を重ねてしまった。ただの八つ当たりだった。
怖がって逃げている由依を見ていたくなくて、イラついてしまった。
『本当に終わらせたかったら、聞けばいいんだよ。付き合ってって。そしたら、終わるよ』終わるのは怖い。そんなのわかっているのに。
ずっと前から自分が一番そのことを知っていたのに、人に投げかけてしまった。
由依に言ったら、もう手を振ってくれなくなってしまうかもしれない。
だからずっと言い留まっていた。
なのに、私は気持ちを伝えることもなく、結いとの関係が終ってしまうかもしれないことにひどく怯えていた。
下を向いたら涙が出そうになったので、急いで上を向いた。
落ち着いて呼吸を整える。
平常心に戻ったところでまわりを見渡した。
誰もこちらを見ていなかった。まわりのことなどお構いなしで試験勉強や、レポート作成などをしている。
ほっと胸をなでおろす。
これもいつも通りだった。
誰も私の気持ちなんか気にしないし、結いにも知られず、このまま平穏な日々を暮らしていければよかった。
でも、関係が変わらなければ変わらないほど苦しさも募っていく。
極めつけに先生が現れた。
中庭から男女の笑い声が聞こえてくる。手をつないで並んで歩いている。
いかにも大学生な小綺麗な恰好の女の子と爽やかな風貌の男の子だ。
青春って感じ。彼らは大学生活をおおいに満喫しているのだろう。
女の子を由依に置き換えてみる。お似合いだ。これでよかったのに。
こんな若くて好青年な同年代の男の子なんてたくさんいるのに、なんでよりによって先生だったんだろうか。
ポケットでスマホが鳴った。見たくない。
のそのそと取り出して画面を見ると、由依からのメッセージだった。
他人が怖かった。
母親に好きな女の子がいると話したら「気持ち悪い」と言われた。それ以来、母は私が何か失敗すると「どうしてこんな子を産んでしまったんだろう」と泣いた。
小学校の友達に秘密にするからとしつこく好きな人を聞かれた時、気になる女の子の名前を出したら「変だ」と言われた。
次の日には、クラス中に知れ渡っていて、みんな私のことを無視した。
私は普通の人と違うんだとやっと気づいた。
人はみんな違うから、違うことを伝えようとして感情的になるんだと思った。
だから、母親が怒ったり泣いたりするのも、友達が気味悪がるのも仕方のないことだと思った。
それなら、誰にも本当のことを教えなければ、それが一番平和なんじゃないだろうか。
そう結論付けて、高校生活を過ごしていた。
実際平和だった。
何も起きない、変わりもしない、強要もされない、楽な世界だ。本の中だけが私の世界で傷つくことはないと思っていた。
でも、由依に出会ってしまった。
一目見て、彼女は、誰にも期待していないことに気づいた。それなのに、きちんと他人と生きようとしている。
自分が恥ずかしくなった。
教室の中で1人誰とも繋がっておらず、ぽつんとしている自分の姿がさみしく思えた。
だから、少しの間だけでも一人になれるところを見つけた。
そしたら、由依に見つかってしまった。
戸惑ったけれど、全く自分と違う人間だと思っていた私と由依が同じ考えだったことに嬉しさを感じた。
最初は、尊敬や憧れみたいな気持ちもあったんだと思う。
でも、徐々に変わってきているのに気づいてしまった。
由依には、私のこと知ってほしくなかった。知ったら変わってしまう。きっと、受け止めてくれるのはわかっているけれど、たまらなく怖かった。
居心地がいい時間を過ごせば過ごすほど、苦しくなっていった。
いつか終わりが来ることはわかっていたけれど、先延ばしにしていた。
それなのに、先生が現れてしまった。
好きだった由依が、私のようになっていく。見ていられなかった。
それは意味のないことだよと教えたかったけれど、そうしたら自分のことも知られるからできなかった。
うまく伝えたいのに、伝えられなくて、やっきになってしまう。
母親と友人たちの気持ちがすこしだけわかった。
大学の近くの公園に由依はいた。
ベンチのみ置かれた小さなこの公園は、住宅地の中にひっそりとある。
遊具もなく、スポーツをやる広さもないので人がいることはめったにない。
背中を少し丸めてベンチに座っている由依は、公園の脇にある草むらをじっと見ていた。
声をかけずに由依の傍らに立ち止まった。
由依は、目を離さないまま、
「……今日餌買えなかった」
とぽつりと言った。
私は、鞄の中から猫缶を取り出して由依の目の前に出した。
私の顔を見上げる由依。
「買ってきたの?」
「常備してる。コンビニの方寄れない時あるし」
大学から駅に歩く途中にある公園に猫を見つけてからは、2人でたまにこうやって餌をあげに来ていた。
ただ、大学からの道のりにはコンビニがないため、遠回りしてくる必要があった。
由依は、小さく笑いかけた。
「ありがと」
猫缶を手に取り、蓋を開ける。蓋で餌をほぐして、草むらの方に近づいていった。
草むらの中から「にゃー」と少し警戒している鳴き声が聞こえた。
由依は、あまり近づかないように手を伸ばして、猫缶を地面に置いた。
「何そんなに警戒してんの。前もあげたじゃん」
ほっそりとした猫がおそるおそる草むらから出てきた。
少しずつ後退して猫缶から離れる由依。
猫缶のにおいを嗅いだ後、がつがつと食べ始めた。
ゆっくりと立ち上がって、ベンチに座って猫を眺める由依。
隣に座る。
「優しいね」
ふいの言葉に咄嗟に視線を由依に向けた。
由依は猫を見続けていた。
言葉に詰まって何も言えずにいると、
「気づかせてくれてありがと」
と、恥ずかしそうに笑いながら由依が言った。
私は考えたあげく「ごめん」とだけ呟いた。
由依が驚いた顔をする。
「なんで?」
「だって……むかついたでしょ?」
由依は「あー」と言いながら、宙を見つめて考えていた。そして、頷いた。
「そうだね。むかついた。でも、正しかったから」
そう言って、ぐっと手を空に向かって伸びをして、大きくため息をついた。
「なんで、あんな無駄なことしてたんだろう。普通付き合ってって聞くよね」
「うん」
「私、絶対美容師さんにかわいそうな奴って思われてたよ。本当恥ずかしい。おかしいよ。」
「おかしくないよ」
「いや、おかしいよ。里美が正しいって思ったもん。てか、里美が言ったから気づいたのに、何それ」
由依の声は少し興奮したのか震えていた。
私は、静かに言った。
「おかしくないよ。多分、人好きになったらそうなるんだよ」
「超面倒」
「そうだね」
「一生やりたくない」
「楽しいこともあるかもよ」
「知らないでしょ」
「知ってるよ」
由依が怪訝そうな表情になる。
「本に書いてあったの?」
「うん」
「そっか。私も本読もうかな」
ふーっと思いっきり空に向かって息を吐く由依。空を見上げたまま動かなかった。
「あのさ」
「うん」
「嫌いにならないでね」
自信のなさそうな小さな声で由依が言った。
「私は、嫌いになってほしい」
「え?」
由依が私に視線を向ける。
私は、まっすぐ前を向いたまま空に向かって言った。
由依が首を傾げる。
「嫌いにならないよ?」
「私のことを嫌いになってほしい」
私は由依の方を見ることができなかった。
私はやっぱりずるいやつだ。
自分のせいで彼女が傷ついてしまったのにまだ自分を守ろうとしている。
でももう少しだけ猶予がほしいし、終わらせたくもある。
この場にいることが苦しくなってきた。動機が早くなってくる。呼吸が荒くなるのがばれる前に逃げたい。
そう思うといてもたってもいられなくて、立ち上がってしまった。
由依が身体をびくっとさせているのが視界の端っこに見えた。
衝動で立ち上がってしまったため、次どうすればいいか考えてなかった。
慌ててスマホを取り出して、画面を適当に上下にスワイプする。
「ごめん、もう行かなきゃ」
それしか出てこなかった。
「あ、うん。わかった」
由依が戸惑いながら答えた。
「猫缶片すから、先行ってて」
そう言われて、内心ほっとしながら、
「うん、また、明日」
と、そのまま歩きだす。
本当にいいのだろうか。そんなことをぐるぐる思いながらも、逃げたい感情の方が大きいから、歩く足取りはどんどん早くなる。
駅の改札を通った頃、動機はすっかり通常に戻っていた。
そして、激しい後悔が押し寄せる。
乗り場までの階段がいつもより高く見えて、階段下で立ち止まっていると、スマホが鳴る。
スマホのポケットを凝視したまま、取り出せなかった。
後ろから追い越した通行人が迷惑そうな視線を向けてくる。
それに気づいて、我に返り、急いで通路の脇に移動する。
再び上昇する動機の早さを感じながら、スマホを取り出す。
由依からメッセージが来ている。
ロック画面でわかるほどシンプルな内容。。
「嫌いにならない」
画面をじっと見つめる。
この動機が興奮しているのか、怖いのか、うれしいのか、私にはまだわからなかった。
おわり
