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[23]【二つの名前を、見ていた】人生が終わった日も、朝のコーヒーだけは飲んでいた。-新聞配達編-


■この物語は筆者の実体験をもとに執筆しています。
・正直、極限まで恥をさらしてます。
・僕が生きてきた記録(ノンフィクション)です。
・ほぼ毎日更新を目指してます。


【二つの名前を、見ていた】


午後3時。
免許更新から帰って来た。

コーヒーをいれる。

湯を注ぐ。
湯気が立つ。
カップを持つ。
一口飲む。

苦い。

味は、した。

でもその苦さは、
いつもの苦さとは違っていた。

舌ではなく、
胸の奥に残る苦さだった。

警察官の言葉が、
まだ耳の奥に残っていた。



捜索願いが出ております。



最初、その言葉の意味が、
うまく入ってこなかった。

事件性なし。
健康状態良し。
自らの意思で失踪。

だから警察としては、
積極的には動いていなかった。

そう説明された。

それは、分かる。

僕は事件に
巻き込まれたわけではない。
誰かに連れ去られたわけでもない。
自分の足で出てきた。

自分の意思で、
全部を置いてきた。

だから、そう判断されるのは
当然だった。

けれど、
そのあとに続いた言葉が、
頭から離れなかった。


お母様が、
免許更新の時に、どこかで更新するはずだからと。



母が、
そこまで考えていた。

僕が誕生日の前後に、
免許を更新
しなければならないこと。

その時、
どこかに現れること。

たぶん、それくらいしか
手がかりがなかったのだと思う。

僕は逃げていた。

でも母は、
僕がいつかどこかで、
名前を書かなければならない
日を待っていた。

そう思うと、
コーヒーのカップを持つ手に
少し力が入った。

熱かった。


でも、離せなかった。


電話しなければいけない。

そう思った。

生きている。

それだけでも、
伝えなければいけない。

心配をかけた。
迷惑をかけた。
捜索願いまで出させた。

そんな言葉では、
足りないことも分かっていた。

分かっていたのに、
何もできなかった。

携帯を開いた。

画面の明かりが、
暗い遮光カーテンの
部屋の中で白く浮かんだ。

連絡先を出す。

指で探す。

母。

その1文字で、
指が止まった。


母。


たった二文字だった。

それなのに、
押せなかった。

電話番号は、残酷だと思った。

そこにある。
押せば、つながる。

つながるかもしれない。

だからこそ、
怖かった。

怒られるのが怖かったのか。

違う。

たぶん、
怒られる方が楽だった。

何をしているんだ。
どこにいるんだ。
どれだけ
心配したと思っているんだ。

そう言われた方が、
まだ耐えられたかもしれない。

怖かったのは、
もっと別の声だった。


生きていてよかった。


もし、そう言われたら。

僕は、
たぶん崩れてしまう。

新聞配達を覚えてきた。
少しずつ、
遅れずに配れるようになってきた。
コーヒーの味も、少し戻ってきた。

普通に戻ってきている。

そう思いたかった。

けれど母の声を聞いたら、
自分がまだ
何も戻っていないことを
思い知らされる気がした。

だから、押せなかった。


画面を見たまま、
しばらく動けなかった。

指を少し下に動かした。

その時、
もう一つの名前が目に入った。

吉田。

まだ、残っていた。

消していなかった。

名古屋で別れたままの名前だった。

胸の奥に、
別の苦さが広がった。

吉田にも、電話を
しなければいけない気がした。

何を言うつもりだったのかは、
自分でも分からない。

元気か。

今どこにいる。

まだ名古屋にいるのか。

そんな普通の言葉で、
始められるような関係ではなかった。

僕は、吉田の荷物の横に
缶コーヒーを置いて出てきた。

音を立てないように。
起こさないように。

振り返らずに歩いた。

あの時は、
それが
自分にできる精一杯だと思った。

でも本当は、
逃げただけだったのかもしれない。

吉田を置いて、
僕だけが名古屋を出た。

僕だけが、
新聞配達の寮に入り、
あたたかい
コーヒーのある部屋で
朝を迎えている。

そのことを、
考えないようにしていた。



母には、
生きていると言わなければいけなかった。

吉田には、
何も言わずに出てきたことを
謝らなければいけなかった。

どちらも、
かけなければいけない電話だった。

でも、
どちらも押せなかった。



画面の中に、
二つの名前があった。

母。

吉田。

一つは、
戻らなければいけない場所だった。

もう一つは、
置いてきた場所だった。

その二つが、
同じ小さな画面の中に並んでいた。

逃げてきたものは、
全部消えたわけではなかった。

ただ、
見ないようにしていただけだった。

携帯を閉じた。

部屋が暗くなった。

カップの中のコーヒーは、
少し冷めていた。

飲む。

苦い。

今度は、
ちゃんと苦かった。

午前1時。
いつのまにかこんな時間だ。

仕事に行かなければいけない。

そう思った。

電話は、かけられなかった。

でも、
配達には行かなければいけなかった。

それが前に進んでいることなのか、
ただ別のことに逃げているだけなのか、
自分でも分からなかった。

地図を折る。
契約表を確認する。
チラシをそろえる。
新聞を積む。

いつもの動作を、
ひとつずつやる。

そうしていれば、
少なくとも手は動いた。

頭の中では、
まだ二つの名前が残っていた。

母。

吉田。

どちらにも、
電話はできなかった。

どちらの名前も、
消すことはできなかった。

ヘルメットをかぶる。

外に出る。

まだ夜だった。

バイクのエンジンをかける。

朝は、
いつも通り来る。

でもその朝、
僕の胸の中には、
配りきれないものが
二つ残っていた。


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「人生が終わった日も、朝のコーヒーだけは飲んでいた。」

【第一章・失踪編】
目次から読む
1話から読む

【第二章・新聞配達編】
目次から読む
1話から読む


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