飛鳥大仏|本物とは、何を残すことなのか
日本最古なのに、国宝ではない
飛鳥・藤原、その先の奈良へ|第2回
藤原宮跡から、さらに南へ。
夏の田は濃い緑に覆われ、その先には、山並みに囲まれた飛鳥の集落が続いている。
地理的には南へ進みながら、時間の中では、藤原京が生まれる前へと遡っていく。
前回のコラムでは、地上にほとんど何も残っていない藤原京から、かつての都を思い描いた。
けれど、その前後を流れていた時間まで、消えてしまったわけではない。
飛鳥寺から法隆寺へ。
そして、飛鳥寺から元興寺へ。
今も残る仏像や寺院をたどることで、藤原京の大きな空白は、少しずつ埋められていく。
その表情
飛鳥寺は、今も人が暮らす集落の中にある。
本堂に安置された飛鳥大仏で、最初に目を引くのは、その表情である。
強く弧を描く眉。細長い目。正面を向いているはずなのに、
見る位置によって穏やかにも、少し厳しくも見える。
その顔は、法隆寺金堂の釈迦三尊像を思い起こさせる。
飛鳥大仏は、推古天皇の発願により、鞍作止利によって造られ、
609年に開眼したと伝わる。
制作年代が明らかな現存最古級の仏像である。
法隆寺金堂の釈迦三尊像も、同じ止利仏師の作と伝えられている。
飛鳥から斑鳩へ。
場所を越えて、一人の仏師が生み出した祈りのかたちが受け継がれていく。
けれど、この日本最古級の仏像は、国宝ではない。
その事実が、飛鳥大仏の前に、もう一つの問いを置いている。
本物とは、何なのだろう。
二つの残し方
飛鳥寺は、日本で最初の本格的な伽藍を備えた仏教寺院として建立された。
やがて都が平城京へ移ると、その法灯は奈良へ受け継がれ、新しい元興寺となる。
一方、飛鳥にも寺は残り、奈良の元興寺と区別して、のちに本元興寺と呼ばれるようになった。
飛鳥寺から元興寺へ移ったのは、寺の名と法灯だった。
飛鳥大仏は、奈良へ移らなかった。
寺が二つの場所に分かれたあとも、この仏像だけは飛鳥にとどまり続けた。
名と祈りを、新しい都へ運ぶという残し方。
姿を変えながら、同じ土地に残るという残し方。
飛鳥寺と飛鳥大仏は、それぞれ異なる方法で、千年以上の時間を未来へ手渡してきた。
屋根を失った仏
飛鳥寺は幾度もの火災に遭い、創建当時の壮大な伽藍を失った。
飛鳥大仏も大きく傷つき、後の時代に何度も修復されたと考えられてきた。
寺が衰えたのち、少なくとも十五世紀には、飛鳥大仏が堂を失い、
露座の状態で風雨にさらされていたことが記録に残っている。
雨の日も。
夏の日差しも。
冬の冷たい空気も。
何百年ものあいだ、この仏像は空の下で受け止めていた。
現在の本堂は、創建時の中金堂があった場所に建っている。
そして発掘調査によって、飛鳥大仏もまた、造られた当初から
ほぼ同じ位置に安置され続けてきたことが確かめられている。
建物は失われた。
仏像の姿も変わった。
けれど、座る場所だけは変わらなかった。
飛鳥大仏は、歴史を無傷で生き残った仏像ではない。
歴史に翻弄されながらも、この土地を離れなかった仏像である。
どこまでが、最初の姿なのか
飛鳥大仏は国宝ではなく、重要文化財に指定されている。
長い間、火災や修復によって造立当初の部分の多くが失われたと考えられてきたことが、
その評価の背景にあるといわれている。
しかし近年、科学的な調査が進んでも、その答えは一つには定まっていない。
金属の成分を分析した研究では、後世の補修と考えられていた部分にも、
飛鳥時代の銅が広く残っている可能性が示された。
一方で、火災によって溶けた古い銅を再利用した結果であり、
体の大部分は後世の補修とする見方もある。
最新の機器を使っても、どこまでが造られた当初の姿なのかは、簡単には決められない。
日本最古級でありながら、国宝ではない仏像。
その一方で、この仏像が座る飛鳥寺跡は、「飛鳥・藤原の宮都」の構成資産として世界遺産に登録された。
場所は世界遺産となり、その上に座る仏像は重要文化財である。
文化財につけられた名前だけを見ていると、本当の価値の境目は、かえって見えなくなっていく。
建築から、仏像へ
以前のコラム「20年遅れた世界遺産──奈良の木造建築が基準を変えた」では、
修復を重ねながら受け継がれてきた木造建築を、本物と呼べるのかという問いを書いた。
傷んだ木を取り替えながら、千年を越えて残されてきた寺院。
そこには、最初の材料がどれだけ残っているかだけでは測れない時間がある。
飛鳥大仏を前にすると、その問いは、建築から仏像へと静かに受け継がれていく。
火災で傷つき、人の手で補われ、姿を変えながら、同じ土地で祈りを受け続けてきた仏像。
そこに残されたものは、何なのだろう。
本物とは、何を残すことなのか
飛鳥大仏は、最初の姿とは違っているのかもしれない。
その境目を知ろうとすることは、文化財を未来へ残すために欠かせない。
だからこそ、人は調べ続け、議論を重ね、最新の科学によって、その答えに近づこうとしている。
けれど、飛鳥大仏が私たちに問いかけているのは、それだけなのだろうか。
堂を失った時代にも、この仏像を捨てなかった人がいた。
傷ついた姿に手を入れ、もう一度、祈りのかたちへ戻そうとした人がいた。
その積み重ねがあったからこそ、千四百年近く経った今も、飛鳥大仏は同じ場所で、
人々と向き合い続けている。
どこまでが飛鳥時代の姿なのか。
どこからが後の時代の手なのか。
その境界を知ることは大切である。
しかし、この仏像に積み重なった時間まで、後世のものとして切り離すことはできない。
本物とは、最初の姿だけを残すことなのか。
それとも、時代を超えて受け継がれてきた祈りまで含めて残すことなのか。
飛鳥大仏は、その答えを語らない。
ただ、千四百年近く変わらない場所で、静かに座り続けている。
今回、世界遺産となったのは飛鳥大仏ではない。
飛鳥寺跡をはじめとする「飛鳥・藤原の宮都」という土地そのものだった。
その土地には、姿を変えながらも動かなかった仏像がある。
その風景を前にすると、「残す」とは何なのかという問いは、まだ終わらないように思える。
そして飛鳥には、もう一つ、残すことの難しさを考えさせる場所がある。
次回は、高松塚古墳へ向かいたい。
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参考
* 文化庁「飛鳥・藤原の宮都」世界遺産登録資料
* 明日香村「飛鳥寺・飛鳥大仏」
* 奈良文化財研究所 発掘調査資料
* 元興寺 公式資料
* 飛鳥寺 公式資料
