高松塚とキトラ|発見された二つの壁画古墳
見つけることと、未来へ残すこと
飛鳥・藤原、その先の奈良へ|第3回
世界遺産「飛鳥・藤原の宮都」を巡るこの連載も、三回目になった。
何もない広大な原っぱから始まった藤原京。
修復を重ねながら、千四百年近く受け継がれてきた飛鳥大仏。
そして今回は、「墳墓」として世界遺産の構成資産に含まれた、高松塚古墳とキトラ古墳をたどってみたい。
二つの壁画古墳に重なるのは、古代を発見した興奮だけではない。
見つけたものを未来へ残すために、長い時間をかけて積み重ねられてきた、もう一つの物語である。
飛鳥で見たかったもの
飛鳥寺から、明日香村の風景をさらに南へ進む。
田畑の向こうに、高松塚古墳の丸い墳丘があり、その先の丘陵にキトラ古墳がある。
寺院のように、遠くから見える大きな建物があるわけではない。
二つの古墳は今、草に覆われた小さな丘となって、飛鳥の風景の中に静かに残されている。
私が奈良へ移り住んだ頃、飛鳥といえば高松塚古墳だった。
昭和四十七年(一九七二年)の発見を、同時代の記憶として知っているわけではない。
それでも「飛鳥美人」の名はあまりにも有名で、石室から現れた色鮮やかな人物たちは、
子どもの私にも強い印象を残していた。
奈良へ引っ越してきて、初めて飛鳥へ行くことになったとき、まず高松塚古墳を見てみたいと思った。
お寺や仏像に触れるのとは、どこか違う歴史との出会いが、そこにあるように感じていた。
土の中に隠れていた石室が開かれ、その奥から、千三百年前の絵が現れる。
エジプトの王墓や、後に映画で見るインディ・ジョーンズの世界にも通じるような、考古学的な興奮があった。
教科書に書かれた歴史をたどるのではない。
私たちの前にまだ姿を現していなかった時間が、土の中から現れる。
高松塚古墳は、奈良の歴史の古さだけではなく、発見することの驚きを、
私に初めて感じさせた場所だったのかもしれない。
石室から現れた色
高松塚古墳に、誰が葬られていたのかは今も分かっていない。
皇族や有力者の名がいくつも挙げられてきたが、確かな答えにはまだたどり着いていない。
それでも、この小さな古墳を日本中が知ることになった理由は、被葬者の名前ではなかった。
石室の中から現れた壁画だった。
人々を驚かせたのは、何よりもその色だったのだと思う。
赤や緑、黄の衣をまとった人物たちが横を向き、静かに並んでいる。
千三百年という時間を越えて、そこには人の姿と衣の色が残されていた。
「飛鳥美人」という呼び名は、その驚きを全国へ広げ、教科書の中にあった飛鳥時代に、一人ひとりの顔を与えた。
高松塚の壁画には、人物だけでなく、四神や日と月、天井の星宿図も描かれている。
それでも、多くの人の記憶に最も強く残ったのは、鮮やかな衣をまとった人々の姿だった。
高松塚の再来
やがて私は、西の京高校へ通うようになった。
薬師寺や唐招提寺の近くを毎日のように通り、古い寺や仏像が少しずつ身近になっていった。
歴史というものに、自分から興味を持ち始めた頃だった。
そんな時に届いたのが、キトラ古墳のニュースである。
高松塚の発見によって、飛鳥の壁画古墳への関心は大きく高まっていた。
付近の住民から伝えられた「よく似た古墳」の存在が調査につながり、
昭和五十八年(一九八三年)、ファイバースコープによって石室の玄武が確認された。
高松塚の再来か。
同じ飛鳥の土の中から、また新しい古代が現れる。
その知らせに胸が躍ったことを覚えている。
ただ、キトラ古墳は、一度にすべてを見せてくれたわけではなかった。
一九八三年の玄武確認から十五年後の一九九八年に、青龍、白虎、天文図が確認され、
二〇〇一年には朱雀や、獣の頭と人の身体を持つ十二支像が明らかになった。
東西南北を守る四神。十二支、太陽と月、そして天井に広がる星々。
長い調査の時間をかけて、一人の死者を包んでいた小さな宇宙が、少しずつ姿を現していった。
高松塚にも宇宙は描かれている。
それでも、高松塚では色鮮やかな人の姿が、キトラでは古代の人々が見上げた宇宙の広がりが、私たちの記憶に強く残った。
二つはよく似ていながら、違う扉から古代へ続いていた。
発見のあとに
しかし、この二つの古墳を本当に結びつけているのは、壁画の美しさだけではない。
その後に始まった、「文化財をどう未来へ残すのか」という長い時間である。
長く外気から隔てられていた石室を開けば、空気が入り、光が入り、温度や湿度が変わる。
壁画が私たちの前に姿を現した瞬間、それまで壁画を守ってきた環境も動き始める。
高松塚古墳では、壁画を守るための施設が造られ、温度や湿度の管理が続けられた。
それでも、カビや漆喰の劣化という、それまで経験したことのない問題が起きた。
キトラ古墳の玄武が確認された頃、高松塚ではすでに、壁画を守るためのカビとの闘いが始まっていた。
それを、単純な失敗と呼ぶことはできない。
日本が初めて、石室に描かれた壁画を発見後も長く保存するという、
前例のない課題に向き合っていたからである。
その経験は、キトラ古墳へ受け継がれた。
キトラでは、壁画の描かれた漆喰層を少しずつ取り外し、石室の外で保存する方法が選ばれた。
一方、高松塚では、石室そのものを解体し、壁画の描かれた石材を修理施設へ運び出した。
同じ「未来へ残す」という問いに対して、二つの古墳は異なる方法を選んだ。
場所を守るのか。
壁画を守るのか。
本来描かれていた場所から壁画を離すことには、大きな葛藤があったはずだ。
古墳の中にあるからこそ、壁画には意味がある。
それでも、その場所に残すことで失われる可能性があるなら、未来へ渡すための決断をしなければならない。
高松塚で積み重ねられた経験が、キトラへ渡された。
キトラで得られた知識が、高松塚の修理にも生かされていった。
保存の知恵が、一つの古墳から、もう一つの古墳へ渡された歴史である。
今は、まだ
現在、高松塚古墳では墳丘を見ることができ、近くの高松塚壁画館では、
壁画の模写や石室の模型を通して、発見当時の姿を知ることができる。
キトラ古墳でも、整備された墳丘と、キトラ古墳壁画体験館「四神の館」で、
壁画や古墳の構造、保存修理の歩みをたどることができる。
けれど、どちらの石室にも入ることはできない。
実物の壁画も、保存状態を確かめながら、期間や壁画を限って公開されている。
奈良の寺院では、長い年月を経た仏像や建築を、その場所で見ることができる。
それに比べると、古墳を訪れても、目の前にあるのは草に覆われた墳丘だけだと感じる人もいるかもしれない。
けれど、その見えなさもまた、二つの古墳が歩んできた時間の一部なのだと思う。
見せないのではない。
未来へ残すために、今は守っている。
その先の飛鳥へ
奈良へ来たばかりの私は、高松塚古墳に、まだ見ぬ古代を発見する興奮を感じた。
高校生になった私は、キトラ古墳の知らせに、高松塚の再来を期待した。
それから長い時間が過ぎた。
今、二つの古墳を並べて見つめるとき、心に残るのは発見の興奮だけではない。
見つけたものをどう残し、自分たちが見ることと、未来の誰かが見ることをどう両立させるのか。
高松塚とキトラは、二つの美しい壁画古墳であると同時に、日本がその問いと向き合い続けてきた場所でもある。
この連載では、何も残っていない都から始まり、修復されながら受け継がれてきた仏像を見つめ、今回は、科学の力で未来へ残そうとしている壁画をたどってきた。
では、人の手で守られるよりも前から、雨や風の中で千年以上そこにあり続けてきた石は、何を語るのだろう。
次回は、世界遺産の構成資産である酒船石遺跡と、その外側に残る猿石へ。
飛鳥の風景に置かれた、不思議な石の時間をたどってみたい。
