石舞台から飛鳥の石へ|分からないまま、そこにある
亀石、猿石、酒船石、案山子、そして家族の記憶
飛鳥・藤原、その先の奈良へ|第4回(最終回)
飛鳥で石と聞けば、まず石舞台古墳を思い浮かべる人も多い。
巨大な石を組み上げた姿は、古墳でありながら、公園の中に置かれた大きなモニュメントのようにも見える。
けれど、あの姿は完成した形ではない。
もとは土に覆われていた古墳の、土が失われたあとの姿である。
私たちが石舞台と呼んで見上げているものは、本来は隠されているはずだったものの、内側なのかもしれない。
石舞台古墳は、蘇我馬子の墓ではないかとも伝えられている。
もちろん、被葬者が確定しているわけではない。
それでも、ここには古墳の石室という向き合い方の手がかりがある。
誰かを葬るための場所だった。
巨大な石は、そのために運ばれ、組まれた。
そう思うことができるだけで、人はその石の前に立つ姿勢を見つけられる。
けれど、飛鳥には、そう簡単には向き合い方を教えてくれない石がある。
木の国に残った石
日本の文化は、よく木の文化として語られる。
寺も、宮殿も、仏像も、多くは木で造られてきた。
木は呼吸し、反り、傷み、燃える。
だからこそ、日本の文化財は、修理され、建て替えられ、時に姿を変えながら受け継がれてきた。
藤原京は、地上から大きな姿を消した。
飛鳥大仏は、修復のあとをその身に残している。
高松塚とキトラの壁画は、守るために、もとの場所から離された。
この連載で見てきたものは、どれも「残る」ことの難しさを抱えていた。
その中で、飛鳥の石は少し違って見える。
木の建物のように焼け落ちることもなく、壁画のように光を避けて守られるわけでもない。
丘の上に、田んぼのそばに、道の途中に、ただそこにある。
もちろん、石も永遠ではない。
角は丸くなり、表面は削られ、刻まれた意味は時間の中で遠ざかっていく。
それでも石は、木よりも長く、絵よりも外にあり、言葉を失ったまま残っている。
飛鳥を巡る楽しさは、寺や古墳だけにあるわけではない。
酒船石、亀石、猿石、鬼の俎、鬼の雪隠。
少し足を延ばせば、益田岩船もある。
名前を挙げていくだけでも、飛鳥の周辺には石造物が点々と残っている。
それは、仏像を拝む旅とも、伽藍を眺める旅とも少し違う。
地図を片手に、道の先にある石を探していく。
田んぼの横を通り、坂を上がり、集落の気配を感じながら、次の石へ向かう。
どこか、野外のオリエンテーリングのようでもある。
しかも、その名前が面白い。
亀石、猿石、鬼の俎、鬼の雪隠。
古代の正式な名前ではなく、後の時代の人が、形や伝承から呼ぶようになった名前である。
猿に見える。
亀に見える。
鬼が使ったものに見える。
本当は何だったのか分からないからこそ、人は名前をつける。
分からないものに、見立てを与える。そこに、飛鳥の石を巡る楽しさがある。
名前だけがある
酒船石は、丘の上に置かれた大きな石である。
表面には、くぼみと溝が刻まれている。
その形から、酒を造るためのもの、油を搾るためのもの、薬や鉱物に関わるものなど、
さまざまな説が語られてきた。
けれど、その用途は今も確定していない。
酒船石のある丘の麓では、亀形石造物を含む水に関わる施設が見つかっている。
水を導き、流し、受ける構造を持つその遺構は、斉明天皇の時代の祭祀施設ではないかと考えられている。
水。
石。
祈り。
王権。
それらがつながっていた可能性は見えてくる。
けれど、酒船石そのものが何に使われたのか、簡単に言い切ることはできない。
ここで大切なのは、分からないことを急いで埋めないことなのかもしれない。
猿石は、吉備姫王墓(きびひめのおおきみのはか)の柵の内側に、四体並んで置かれている石像である。
もっとも、はじめからそこにあったわけではない。
江戸時代、近くの水田から掘り出された。
いったんは天皇陵の前に据えられ、明治になってから今の場所へ移された。
それ以前にどこにあったのかは、分かっていない。
猿に似ていることから、猿石と呼ばれる。
けれど、本当に猿を表したものなのかは分からない。
人の顔にも見える。異国の人にも見える。何かを防ぐ像だったのではないか、という見方もある。
不思議なのは、名前があるのに、意味が分からないことである。
名前も、立っている場所も、後の時代の人が決めた。
そう考えると、猿石の前に立つことは、古代を見ることだけではない。
分からないものを、後の人がどう見てきたのか。
どう呼び、どう楽しみ、どう語り継いできたのか。
その時間もまた、石の表面に重なっている。
案山子とみかんの木
飛鳥の風景には、古代の石だけが立っているわけではない。
田んぼがあり、棚田があり、季節になると案山子が立つ。
稲渕の棚田では、秋になると案山子が並び、稲穂や彼岸花の中に、人の形が現れる。
石は、季節を選ばない。春でも、夏でも、秋でも、冬でも、同じ場所に残っている。
けれど案山子は、季節とともに現れる。
田んぼの実りや、彼岸花の赤や、秋の空気と一緒に、飛鳥の風景に彩りを添える。
歴史を学ぶ人にとっては、案山子は小さな寄り道かもしれない。
けれど、子どもの目には、それもまた飛鳥を歩く楽しみのひとつだった。
飛鳥は、私たち家族にとっても、ただの観光地ではなかった。
飛鳥の畑に、義父が借りていたみかんの木があった。
そこへ行くことは、子どもたちにとっても、私たちにとっても、ひとつの季節の行事だった。
みかんを取りに行き、石舞台のあたりで遊ぶ。
子どもたちとバドミントンをした記憶もある。
古代の石室は、大人にとっては歴史の場所だったかもしれない。
けれど子どもにとっては、広い公園であり、大きな石の遊び場でもあった。
石は、千年以上前の誰かが残した形である。
案山子は、今を生きる人が田んぼに置いた形である。
そして、みかんの木は、私たち家族にとって、飛鳥へ向かう理由そのものだった。
今回の世界遺産登録は、十九の資産で構成されている。
石舞台古墳も、酒船石遺跡も、高松塚古墳もキトラ古墳も、その中にある。
けれど、猿石は入っていない。稲渕の案山子も入っていない。
義父が借りていたみかんの木は、もちろん入っていない。
線は引かれた。けれど、飛鳥の時間が、その線の内側だけを流れているわけではない。
だから飛鳥は、遺跡だけの場所ではない。
古代が保存されているだけの場所でもない。
今も人が暮らし、田んぼが続き、季節の中に小さな目印が置かれる場所である。
その中に、答えのない石が残っている。
残すということ
藤原京では、何もない場所に立った。
飛鳥大仏では、修復された仏を見つめた。
高松塚とキトラでは、守るために離された絵のことを思った。
飛鳥大仏では、修復されたものを本物と呼べるのかを考えた。
石には、ほとんど手が加えられていない。
けれど本物かどうかを問う前に、それが何であるかが分からない。
そして最後に、私は答えのない石の前に立っている。
石は、何も説明してくれない。
酒船石の溝も、猿石の顔も、すべての答えを差し出してはくれない。
けれど、文化財とは、説明できるものだけではないのだと思う。
分からないまま守ること。分からないまま、次の時代へ渡すこと。
それもまた、残すということの一つなのかもしれない。
法隆寺があり、古都奈良があり、吉野から熊野へ続く紀伊山地の霊場と参詣道がある。
そこへ、飛鳥・藤原の宮都が加わった。
奈良にかかわる世界遺産は、これで四つになる。
奈良には、まだ静かな余白がある。
その余白の中に、長い時間がいくつも眠っている。
奈良の良さは、分かりやすく差し出されるものばかりではない。
少し歩き、少し立ち止まり、少し時間をかけたときに、ようやく見えてくるものがある。
今日も、丘の上の石はそこにあるだろう。
誰にも答えを渡さないまま、次の秋を待っている。
参考:
飛鳥を歩いてみたい方へ
国営飛鳥歴史公園「飛鳥めぐり散策コース」
