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岩戸山古墳といわいの郷に行ってきました🐴 (菊池一族パネル展も)

こんにちは。GWの期間中に福岡県八女市にある筑紫君磐井の墓•岩戸山古墳と、併設する岩戸山歴史文化交流館•いわいの郷に行って来ました。筑紫の君磐井といえば、歴史の教科書にも載っている527年に起こった「磐井の乱」で有名ですよね。「いわいの郷」の常設展示室には、岩戸山古墳を含む八女古墳群から出土した石人石馬を含む出土品や、「磐井の乱」関連の解説パネルなどが展示されていましたので、岩戸山古墳とともにレポートしたいと思います。
またGW期間中、いわいの郷の一区画で、菊池一族のイラストパネルも展示されていたので併せて軽くご紹介します❣️(8000字)

岩戸山古墳といわいの郷は国道3号線沿いにあってアクセスしやすい。

岩戸山古墳と別区

まずは例によって、現地解説板を引用させて頂き、岩戸山古墳と被葬者•筑紫君磐井の説明とさせて頂きます。↓

  国指定史跡 八女古墳群 岩戸山古墳
 八女丘陵は東西10数kmにおよぶ丘陵である。この丘陵上には12基の前方後円墳を含む約300基の古墳がつくられ、八女古墳群と呼ばれている。八女古墳群のほぼ中心に位置する岩戸山古墳は九州最大級の前方後円墳で、東西方向に墳丘長約135m、東側の後円部径約60m、高さ約18m、西側の前方部幅約92m、高さ約17mをはかり周濠、周堤を含めると全長約170mになる。墳丘は二段築造で、内部主体は未発掘のため不明である。
 古墳の東北隅には周堤に続く一辺約43mの方形の区画(別区)が存在している。
 岩戸山古墳は日本書紀継体天皇21年(527)の記事に現われた筑紫君磐井の墳墓であり、全国的に見ても古墳の造営者と年代のわかる貴重な古墳である。
 古墳の墳丘・周堤・別区からは阿蘇疑灰岩でつくられた多量の石製品が埴輪とともに出土している。種類も人物(武装者人、裸体石人等)、動物(馬・鶏・水鳥・猪?(犬?)等)、器材材(靫(ゆぎ)•盾•刀•つぼ•蓋(きぬがさ)•さしば等)があり、円筒埴輪などとともに古墳に立てられていた。石製品は埴輪(土)を石製に代え、さらに実物大を基本としたところに特徴がある。

        筑紫君磐井
 約1500年前の古墳時代後期に当地を含めた現在の福岡県南部地域を拠点として活躍した大豪族である。
 奈良時代に編纂された古事記や日本書紀には磐井に関する記述が残っており、日本書紀では「磐井は西の奸猾なり。川の阻しきことを負(たの)みて庭(つかえまつ)らず」とされ、悪賢く朝廷に仕えない人物と評価されている。
 また、磐井は西暦527年に火国・豊国(現肥前・肥後・豊前・豊後)と共に叛乱を起こし、翌528年には、筑紫の御井郡(現久留米市の三井周辺)において決戦が行われ、磐井は斬られたとも記されている。
 しかし、筑後国風土記(逸文)には「豊前の国上膳(かみつみけ)の縣に遁れて、南の山の峻しき嶺の曲に終せき。」とあり、現在の豊前市付近に敗走したと伝えている。
 この記述は、磐井が地域の盟主であるが故に生かしておきたいとの郷土民の強い想いであったのかも知れない。

それでは早速、岩戸山古墳を見てみましょう↓

。。。デカすぎてもはや森にしか見えませんよね😅さすが古代九州の盟主、磐井の墓ですね。
この古墳は磐井の生前に造られたと言われていて、前述解説書にあるように磐井は斬られた(日本書紀)か別地へ逃れた(筑後国風土記)と伝わっているため、この古墳には本人は眠っていないと考えられますが、個人的には内部調査してほしいですね〜🤔
因みにこの写真は別区(後述)の端から古墳の後円部側を撮ったものになります。以下、もう少し写真追加↓

後円部に寄った写真
古墳側面を歩きながら撮った写真

因みに写真は載せませんが、裏側から鳥居をくぐって古墳の上に上がれるようになっていて、前方部には松尾宮という神社が、後円部には大神宮跡の石碑が立っていました。
それでは次に、別区の解説です↓

    岩戸山古墳 「別区(べっく)」
 ここは「別区」といって約四三メートルの正方形になった台地です。
 『磐井の乱』(五二七年)後、約二〇〇年を経た奈良時代につくられた、筑後国風土記にこの別区のことが次のように記されています。
「東北の角に当りて一つの別区あり、号けて衙頭と日ふ。衙頭とは政所なり。其の中にの一石人あり、縦容に地に立てり、号けて解部(ときべ)と日ふ。前に一人ありて、裸形にして地に伏せり。
号けて偸人(ぬすびと)と曰う。生けりしとき、猪を偸みき。仍りて罪を決められむとす。側に石猪四頭有り。臓物と号く。臓物とは盗物なり。彼の処に亦石馬三疋、石殿三間、石蔵二間有り。」
すなわち盗人が猪四頭を盗んでその罪を裁かれる状況と解釈されるような石製品配置がなされたところがここの「別区」であり、また「別区」は祭儀の場所であったとも考えられています。全国の古墳の中でこのような「別区」を有し明確に現代まで残っているのは、ここ岩戸山古墳だけです。

すみません、別区の全景の写真は撮り忘れたのですが、下は別区の東北の端に並べられた石人石馬のレプリカの写真になります。(現物はいわいの郷の展示室に展示されてます。)

この裁判を含む統治システムは、磐井が大陸との交流を通じて取り入れた最先端文化だと考えられているそうです💡

岩戸山歴史文化交流館「いわいの郷」

ここからは、「いわいの郷」の常設展示室内の石人石馬を中心とした展示物およびパネルの紹介と、私が感じたことや熊本の豪族や古代史などをつらつらと取り留めもなく綴ります。読みづらいかもしれませんが😅、お付き合い頂ければ嬉しいです。

まず最初に、527年に磐井がヤマト王権に対して反旗を翻した「磐井の乱」について簡単に説明します。磐井の乱は、『日本書紀』巻第十七、継体天皇条に詳しく書かれていて、内容は以下です。↓

大和政権はさきに新羅にあわせられた朝鮮半島南部の地を奪回すべく、近江毛野臣に六万の兵を授けて西下させた。ときに筑紫国造磐井は、海路を封鎖して高麗• 新羅•百済•任那等の大和への朝貢船を誘い込み、新羅の賄賂を受けて毛野臣の朝鮮半島への渡海を阻止し、火国(のちの肥前・肥後)・豊国(のちの豊前・豊後)を動員して大和政権に戦いを宣言した。大和政権では物部大連麁鹿火を大将軍に任じて鎮定にあたらせた。両軍の戦闘は一年有余にわたり、翌年十一月筑紫の御井郡(福岡県久留米市付近)にて塵芥入り乱れる激戦のすえ、遂に磐井は斬られ、大和政権軍が勝利した。磐井の子葛子は父の反逆罪に連坐させられることをおそれ、糟屋の所領(福岡市東区香椎付近)を屯倉として献上して死罪からまぬがれた。

『日本書紀』は後にヤマト政権側が作成したものなので、磐井は大王に従わない悪者として描かれていますが、いわいの郷(八女市)では、磐井は終始、筑紫(九州)のために戦い、筑紫を守ろうとした郷土の英雄として描かれています。以下、八女市のパンフレット冊子から磐井と磐井の乱についての記述を引用します。

九州独立を目指した「磐井の乱」
527年、「磐井の乱」がおきました。日本はまだ統一国家ではなく、有力豪族が各地を治めていました。ヤマトと地方豪族は対等でありながらゆるやかな上下関係にあり、九州の豪族たちは、朝鮮半島への進出をめざすヤマト王権から、人や船や食糧を提供させられ、不満がたまっていきました。軍事・外交・内政すべてに自立し、財力も持つ磐井は、ついに火の国、豊の国と力を合わせ、立ち上がったのです。しかし磐井は敗れ、この後に急速にヤマトの国家統一が進みました。「磐井の乱」は国本古代史上の大事件だったのです。

「磐井の乱」とは・・・
527年に始まり、翌528年ヤマト王権により鎮圧された日本古代史上最大の内乱と言われています。
朝鮮半島の西南部の国「百済」を助けるため、ヤマト王権が大きな軍事的負担を強要した事に強い不満をもった九州の諸豪族が「筑紫君磐井」を盟主として結集し、起こした反乱であると伝えられています。
しかし最近の研究では、ヤマト王権からの圧力に耐えかねた磐井を中心とした豪族たちが、自らの権益を守り、ヤマト王権からの独立を目指した「独立戦争」と考えられるようになり、「磐井の戦」と呼ばれる意見も多数見られるようになりました。

磐井は反逆者?郷土の英雄か
古事記や日本書紀に磐井は「天皇の命令に従わない悪者」として記されています。本当にそうなのでしょうか。
ヤマト王権は度重なる朝鮮半島進出のための負担を九州の豪族に強要しつづけました。
乱に加わった「火」の国(現在の熊本県)、「豊」の国(現在の福岡県東部・大分県)も同じ思いだったのでしょう。出兵により疲れ荒れ果てていく地元の人々や土地を見て、我慢の限界が来たのでしょうか。ついに磐井は九州の諸豪族と共にヤマト王権に対し反旗をひるがえしたと記されています。
自国の荒廃ぶりを目の当たりにし、磐井は何を成そうとしたのでしょうか。
ヤマト王権から見れば「命令に従わない悪者」に映ったのだと思いますが、八女の地を守り、九州を守ろうとした磐井は、やはり郷土の英雄だったのではないでしょうか。

八女市『筑紫君に会いたい』パンフレット冊子 p5-6
当時の朝鮮半島情勢とヤマト王権の外交戦略
いわいの郷常設展示室展示パネルより

私はおおかた八女市の見解を支持したいですね。磐井以前の古代の朝鮮半島への出兵しかり、白村江戦しかり、元寇しかり、秀吉の朝鮮出兵しかり、昔の対外戦争の際は、動員されるのはいつだって大半が九州の人たちだったんですから。なので、火の国、豊の国も、いやいやながら磐井に従ったのではなく、八女市の言うように、九州豪族の総意としてヤマトに反旗を翻したのではないかと思います。つまり、「磐井の乱」は磐井の個人的な戦いではなく、ヤマト王権 VS 九州豪族連合の戦いだったのだろうと私は思います。

※因みに、九州南部は反旗を翻すまでもなく、元からヤマトに従ってなかった隼人の本拠地なので除く。因みに後述しますが、我らが熊本の『火の君』は、磐井と同格レベルの大豪族です。磐井に言われたから仕方なく従うような豪族ではありません。(個人的見解)

更に、乱が起こった時の背景として、ヤマト王権の時の大王である継体天皇(大迹王•おおどおう)の存在も大きいと思います。継体天皇は正統性を疑われて最初は大和の豪族達からも信頼されてなかったみたいなので、九州の豪族達にも同じ気持ちがあったんじゃないかなと。倭の五王(雄略天皇•ワカタケル大王)の時代まではヤマト王権も九州の豪族達をうまくコントロール出来ていたのかもしれませんが、ここにきて国内情勢も絡んで九州の不満が爆発したのかもしれません🤔

前置きが長くなりましたが、以下、常設展示のハイライト•石人石馬の写真です↓

靫(ゆぎ)を負う石人 岩戸山古墳出土
因みにユギとは背中に背負う矢入れ。石人の裏に浮き彫りにされてたはず。
武装石人頭部と石馬

すみません、写真は撮ってませんが、これらの他にも巨大な石製品の展示がたくさんあって圧巻でしたよ😳因みに石人石馬は阿蘇溶結凝灰岩で作られています。

いわいの郷常設展示室パネルより阿蘇溶結凝灰岩分布

筑紫の君一族は埴輪と違い、圧倒的な質感と長期間風雨に耐える頑丈さを併せ持つ石人石馬を、ヤマトからの独自性を明確にし一族の権威を示すために古墳に並べたと考えられています。そして、この石人石馬は熊本、佐賀、大分の有力豪族の古墳からも出土していて、筑紫君を盟主とする首長連合のシンボルとも考えられています。

いわいの郷常設展示室パネルより石人石馬の分布。
パネルにはありませんが、大分県臼杵市の臼塚古墳にも短甲形の綺麗な石人が出土しています。

それにしでも、展示してある石人石馬がバッキバキに割られているのが印象的でした😳筑後国風土記には、磐井の乱が鎮圧された後、石人石馬がヤマト政権軍によって叩き割られたことが記されているのですが↓

官軍、追い尋ぎて跡を失いき。土、怒やまず、石人の手を撃ち折り、石馬の頭を打ち堕しき。

『筑後国風土記』逸文より

硬い巨大な石像を真っ二つに割るのは屈強な兵士でもかなり労力がいるだろうし、怒りだけではないある種異様な執念みたいなものを感じたのですが、古墳の被葬者を守る石人石馬には呪術的な意味合いもあって、ヤマトの兵士たちは怖れから石人石馬を徹底的に破壊したのかもしれませんね。

次は、展示物の中でもひときわ目を惹く、朝鮮半島製の金製イヤリングです。↓

いわいの郷常設展示室解説パネルより

こちらは八女古墳群の立山山古墳から出土した、朝鮮半島南部で作成されたとみられる金製垂飾付耳飾で、筑紫の君と朝鮮半島との活発な交流をうかがわせる出土品です。重厚かつ複雑で精巧なデザインですよね✨
ところで、これとデザインがよく似た金製耳飾りが、火の君一族の古墳と比定されている野津古墳群(熊本県八代市氷川町)からも出土しているんですよ。↓

画像左手。氷川町野津古墳群パンフレットより。
肥後古代シリーズで野津古墳群の記事作成予定ですがいつになるやら💧

野津古墳群のものは伽耶地方産と思われることから、八女古墳群のもそうなのかもしれないですね。ていうか、磐井は新羅と繋がっていたと書かれていますが、明確に新羅製の出土品ってあるのかな?

さてここからは、誠に勝手ながら、熊本の火の君についてつらつら述べたいと思います。(火の君の詳細は肥後古代シリーズで書くつもりなので触りだけ。。)磐井の乱後は、ヤマト政権側の朝鮮半島戦略に九州の豪族達を活用したいという思惑もあり、筑紫の君も火の君もお家取り潰しは免れ、ヤマト政権に従うことになるんですが、そこから火の君は筑紫の君と婚姻関係を結び(乱以前から婚姻関係による結束はあったかもしれませんが)、筑紫の君一族を凌ぐ勢いで勢力を拡大をしていきます。

火君は、大王や吉備地方の有力者に対し、自ら作成した石棺を海上輸送するなど、得意な海上活動能力を買われ磐井の乱後、九州各地に進出していきます。しかしこれはヤマト王権が目論んだ北部九州の兵站基地化を推進するための「移住命令」であり、勢力拡大のための積極的な進出ではなかったものと思われます。

いわいの郷リーフレット『「九州の豪族」から「ヤマトの臣下」へ 』から一部抜粋

石棺の話は後ほどするとしてちょっと補足説明すると、「九州各地に進出」とは、ヤマト王権の政策に従って、朝鮮半島との往来に重要な博多湾の西の糸島に進出したり、南の隼人対策として薩摩の出水群•高城郡に進出したりしています。また、556(欽明17)年には筑紫火君が1000名を率いて百済の王子を護衛して朝鮮半島に送り届けるなどしています。

それらがヤマト王権の「移住命令」に従っただけで、「勢力拡大のための積極的な進出ではなかった」かどうかは分かりませんが、とにかく火の君はヤマト王権に同調して活躍している様子が文献からも伺えます。なので、火の君は磐井の乱では最初からヤマト王権側に立っていたとか、途中でヤマトに味方したという説をとる専門家もいます。実際のところはわかりませんが。
最後に、さっきとばした石棺の話ですね、まずは以下のパネルを引用します。↓

いわいの郷常設展示室解説パネルより、下記に引用

最大のライバル!
継体大王が眠る今城塚古墳

大阪府高槻市にある墳長190mの前方後円墳で、6世紀前半に築かれた古墳としては日本最大です。墳丘は慶長・伏見地震(1596年)などで大きく崩れ、右室本体も失われていますが、平成13年には大規模な埴輪配列区画が発見され、当時の大王墓祭祀が明らかになりました。平成10年には墳丘上で熊本県宇土産凝灰岩の石棺材が発見され、磐井の乱後も火君と大王家との関係が続いたことが分かりました。

因みにこの宇土産凝灰岩は、馬門石というピンク色の美しい石材で、不知火海沿岸(宇土、八代)を本拠地とした火の君が主導して運ばせたと考えられています。更に、この馬門石製の石棺、継体天皇墓だけじゃなく、後の推古天皇の植山古墳でも発見されているんですよね😳

古代に活躍した火の君ですが、中世以降、肥後の歴史から姿を消します。変わって活躍するのが菊池氏と阿蘇氏なのですが、私は火の君一族が中世まで肥後の歴史に雄族として残れかったのは、海上活動能力に長けた故、各地に進出して主力が分散してしまったからかなぁなんて思いました。
スマートで柔軟で海洋技術に長けたミステリアスな古代肥後の大豪族•火の君。肥後古代シリーズで早く記事化して彼らの活躍を鮮やかに甦らせたいのですが、なにぶんとろくて記事作成が全然進みませーん😂😂

馬門石(石棺)と肥後古代シリーズの過去記事のリンクです↓ご興味があれば是非❣️

菊池一族イラストパネル展

菊池市から出張中の、菊池武光と懐良親王のイラストパネル

「武光さん、宮さま、九州南北朝シリーズの記事作成が滞っておりまして申し訳ございません🙇‍♀️」(写真を見て思わず口に出た💦こんなんばっかだな😅)

九州南北朝シリーズを脇に置き、現在肥後古代シリーズを執筆中なこともあり、岩戸山古墳はいずれ訪れたいと思っていたのですが、偶然にも熊本の菊池一族のパネル展もいわいの郷で開催中とのことで、この機を逃さず今回こちらに訪れた次第です。

私の記事をお読み頂いている皆さまには改めての解説は不要と思いますが、菊池武光は熊本は菊池を本拠とした菊池一族の南北朝時代の当主で、後醍醐天皇の皇子である征西将軍宮•懐良親王を支えて太宰府を制し、九州南朝の一時代を築いた立役者です。

というのも、八女市は懐良親王ならびにそのあとを継いだ良成親王の終焉の地であり、九州南朝とゆかりの深い土地なのです。そして八女は懐良親王の九州下向からの従者である五條氏の本拠地であり、九州南朝関係の史跡もたくさんあります。(五條家の御子孫は代々現在まで八女市にお住まいです。)

五條頼元さんのイラスト解説パネル

元々私のnoteは九州の南北朝時代の記事をメインに書こうと思って続けているのですが、興味がこっちにそれ、あっちにそれで全然進んでおらず😓有難いことに、九州南朝を支えた氏族の子孫の方々からもたまにコメントでメッセージを頂いたり、フォロー頂いたりしているのですが、最近更新出来てなくて申し訳ない限りです🙇‍♀️この5月にも八女の関連史跡を巡ってきまして、散策自体はあと太宰府周辺と筑後川合戦の古戦場くらいを残すのみなのですが、調べ物をしたり記事化するのがなかなか。。新章•南北朝シリーズはご存知ない方でも分かりやすいように時系列形式にしたいと思っていて、第一回は菊池武時の博多北条館討入から始めたいと思っているのですが、いつになるやら😅

おわりに

来年2027年は磐井の乱から1500年の節目にあたるそうです。そして奇しくも、同じく九州で起こった西南戦争からも150年目になりますよね💡日本の歴史を見ていくと、中央政権を揺るがすような大きな反乱は、度々九州で起こっているように思います。毎回善戦するんですけれども、磐井しかり、九州南朝しかり、西南戦争しかり、最後には負けちゃうんですよね。。中央政権は、その厳しい戦いに勝つことで、中央集権化を強化していくという構図が成り立つように思います。「もしもあの時、九州勢が勝っていたら、、」九州人としては、折に触れてそんなことを思わないでもありません😌

牛島製茶本店の玉露ソフトクリーム。八女市はお茶の名産地でもあります。八女市にはこちら以外にも抹茶スイーツのお店がたくさんあって気分が上がります💓岩戸山古墳あり、南北朝時代の史跡あり、抹茶スイーツのカフェはたくさんあるし、八女市、好きです。またお邪魔します🥰
同じく牛島製茶の筑後けやき通り店の八女茶スイーツの写真も追加😋💕

最後までお読み頂きありがとうございました😊

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