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芸術とは、爆発なのだろうか?


 「芸術は爆発だ!」
 画面の向こうで、あるいは本のあるページで、ギョロリとした目つきの老人が叫んでいる。私たちはその姿をどこか愛らしく、あるいは滑稽なパロディとして眺めることに慣れきってしまった。
  けれど、一度立ち止まって考えてみてほしい。なぜ私たちは、この論理もへったくれもない、ある種「唾を吐く」かのような「衝動の表明」を、これほどまでに長く記憶の引き出しに仕舞い込んでいるのだろうか。

芸術の定義を除いてみると。。。

 まず、爆発うんぬんの前に、芸術を「定義」しようとすること自体が、局外者には、混迷しているように見える。
 現代美学の教科書を開けば、そこには「アート・ワールド(批評家やメディア、市場)が芸術と認めたものが芸術である」という、制度的な答えが書かれている。極めて合理的で、反論の余地のない、しかしひどく退屈な「事後報告」だ。
 それゆえ、もしあなたが、「私は自分の純粋な衝動だけで描いている」とうそぶくアーティストを見かけたら、鼻で笑ってもいい。
 現代において、表現者が「他者の視線(承認欲求)」や「ブランディング」から完全に自由であることなど、芸術の定義に照らし、論理的に不可能だからだ。
 あやふやな「自己」しか持っていない私たちが、外部評価という重力から逃れて、真空中で爆発することなどできはしない。
 多くの「自称・芸術家」が、計算ずくで「野生」を演じ、承認欲求を「衝動」という言葉でコーティングしている。それはもはや爆発ではなく、ただの「演出」だ。
 要すれば、「爆発」で内発的衝動を意味しているのであれば、「芸術は爆発だ」というメッセージは、芸術の定義に照らし、全く無意味ということになる。

「刷新」という名の陳腐なゲーム

 もう少し立ち止まって、「爆発」の意味するところを、別の方向から考えてみるのも良いのかもしれない。例えば、一つの解釈として、爆発とは「既存の様式をぶち壊して、新しい美を作ること」という解釈というのはどうだろうか。
 残念ながら、その解釈もすでに賞味期限切れだ。印象派が古典主義を壊し、ピカソが形を壊し、デュシャンが「美」そのものを便器に流して以降、芸術界は「前代未聞の刷新」を繰り返すことでしか存続できない、終わりのないアップデート地獄に陥っている。 新しさは、登場した瞬間にトレンドとして消費され、広告クリエイティブに飲み込まれ、最後には「金融資産」としての鑑定書が添えられる。
 バナナを壁に貼ることが「衝撃」になる時代はもう終わった。それは今や、賢い投資家たちの「関心」の対象でしかない。

それでも「爆発」が残したもの

 しかし、ここで一つの奇妙な事実に突き当たる。 論理的に破綻し、歴史的にも陳腐化してしまった「爆発」というメッセージが、なぜ今もなお、芸術の専門家ではない一般人の心に、芸術を表す表現として残り続けているのか。
 それは、この言葉が、芸術が「高尚な知のゲーム」や「冷徹な投機商品」へと完全に変質してしまう前に放たれた、「人間中心の芸術」という最後のメッセージだったからではないだろうか。
 現代のアートは、文脈を読み解く「特殊知識」か、価値を測る「経済力」を持たない者を門前払いする。そこには、生身の人間が、得体の知れないエネルギーに触れて「うわっ!」と立ち止まるような余地はほとんど残されていない。そんな中で「爆発だ」という言葉は、かつて私たちが芸術という未知の領野に、裸足で素朴に踏み込むことができた時代の、幸福な記憶の残滓なのではなかろうか。

結びに代えて

 「芸術は爆発だ」という言葉を、私たちはこれからもパロディとして使い続けるだろう。それは、自分たちがもはや芸術を心から信じられなくなったことへの、照れ隠しのようなものかもしれない。
 けれど、現代アートの砂漠を歩くとき、あのギョロリとした瞳が放つ「無目的なエネルギー」の幻影は、私たちがまだ「知識」や「価値」の奴隷になりきっていないことを、かすかに証明してくれているような気がするのだ。
 芸術とは、もはや「感動する美」ではないのかもしれない。しかし、そのような芸術を一般の人々はいまだ求めている。そのような集団的な切望の一つの表現として「芸術は爆発だ」というメッセージは残り続けるのかも知れない。


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