検視の日の「今後も同様に」〜三月十八日、校長は知事に何を言ったか〜 辺野古転覆事故・第46稿 (追記あり)
七月二十九日、毎日新聞が独自記事を出した。取材の手法が、これまでと違う。捜査関係者への取材でも、当事者の公表でもない。沖縄県への情報公開請求である。
開示されたのは、一枚の議事録だった。事故二日後の三月十八日、同志社国際高校の校長が県庁で玉城デニー知事と面会したときの記録である。この文書に残っていた言葉を、時系列の中に置き直す。
三月十八日
面会があったこと自体は、三月に琉球新報が短く報じていた。知事は十九日、校長と面談したことを踏まえ、安全安心な修学旅行を確立するための不断の努力が必要だとコメントした、という記事である。この書き方から、面談は十九日に行われたと読んだ言説が、三月以来流通してきた。
開示された文書は、それより一日早い日付を示している。毎日新聞の報道によれば、経過はこうである。三月十八日の午前、学校側が県の担当課に電話し、県庁への訪問を要望した。同日午後、玉城知事らが面会に応じた。面会を求めたのは、学校の側である。新しいのは、この日付と経過、そして言葉の中身だった。
議事録によれば、校長は知事らにまず状況を説明した。現在、ご遺族の方々がこちらに来ており、ちょうど検視が行われている状況。その上で、お世話になった関係部署・機関の皆様へごあいさつを申し上げるためにうかがった、と訪問の趣旨を述べ、こう続けた。
本校はこれまで四十年以上にわたり沖縄の皆様に大変お世話になってまいりました。今後も同様に訪問させていただき、研修を継続していきたいと考えている。
毎日新聞によれば、三月十八日は、亡くなった生徒の司法解剖が行われた日である。校長自身が、検視が行われている状況だと知事に説明している。その同じ面会の中で、今後も同様に、と述べた。
前日の三月十七日、校長は会見で、救急車や警察車両が来ることで事実がすべて分かった、と語っていた。第四十三稿で置いた言葉である。事実がすべて分かったと語った翌日に、県庁へ電話をかけ、その日の午後に継続の意思を伝えた。会見と面会は、連続する四十八時間の出来事だった。
六つ目の宛先
第四十三稿で学校の言葉を宛先ごとに並べ、第四十五稿で五つ目を足した。文科省には、至らない点があった。生徒には、今も偏っていると思っていない。保護者には、改善すべき項目はあるか。遺族には、調査中ですので。当局には、全面的に協力。
六つ目の宛先が出た。県知事には、今後も同様に。
そして、この六つ目は、時系列では一番目である。遺族が数えた最初の説明の場は、三月二十四日と二十五日の保護者説明会だった(第四十三稿)。生徒への説明は九十六日目。保護者へのアンケートは四か月目。文科省への回答は五月。当局への文書は七月。校長が事故後、最初に自分から会いに行った宛先は、そのどれでもなく、知事だった。事故から二日目、遺族がまだ沖縄にいて、検視が続いているさなかに、学校は継続の意思を県に伝えていた。
宛先の順序は、組織が何を優先しているかを言葉より正確に示す。
四十年の中身
四十年以上お世話になった、という言葉の中身は、この連載で検証されてきた事実と照合できる。
父の検証によれば、抗議船への乗船プログラムが始まってからの四年間、教員が下見で船に乗ったことは一度もなかった。多角的な視点をかろうじて提供していた普天間高校との交流プログラムは、二〇一五年三月を最後に途絶えている。金子国交相の会見によれば、金井船長が学校から依頼文を受け取っていたのは二〇二三年以降で、二〇二五年を除く計三か年、合計六回。いずれの年も謝礼を伴っていた。
四十年の交流の歴史はあったのだろう。ただ、同様に、という言葉が指すはずの直近の形は、下見のない乗船が謝礼とともに反復される数年間だった。継続したいと述べられた「同様」の中に何が含まれていたのかは、四十年という長い時間の名前で覆うには、具体的すぎる。
記録の非対称
遺族は毎日新聞の取材に、こう答えている。二日目の混乱の中で発した言葉尻を取るわけではないが、同様に、という言葉に、起こした結果に対して見合わない軽さを感じる。拙速ではないか。
言葉尻を取るわけではないが、という留保ごと引いておく。混乱への配慮を先に置き、その上で時系列の重さを指摘する。感情を露わにする前に、批判の射程を自分で限定する。この言葉の運びは、遺族のnoteが一貫して守ってきた、事実と感情を分けて書く型と同じである。
一方、学校は毎日新聞の取材に、当日の発言を記録しておらず、回答は控える、と答えた。沖縄への修学旅行の継続については、現時点で決まっていない、という。
並べると、こうなる。県は面会を記録し、議事録を作り、開示請求に応じて公開した。学校は、自校の校長の発言を記録していないとして、回答を控えた。三月十八日の言葉は、言った側の手元にはなく、聞いた側の公文書にだけ残った。記録には三つの形があることになる。公開が問われるもの、作られていないもの、他者の手で残るもの。三月十八日の言葉は、三つ目である。
第四十三稿で姉が特定した言い回しは、調査中ですので、だった。今回は、記録しておらず、である。先送りの言葉に、新しい変種が加わった。
なお、継続したいと三月に知事へ伝えた研修は、七月の学校の回答では、決まっていない、になっている。この四か月の間に何が変わったのかは、学校が説明していない以上、推測で埋めない。変わったという事実だけを置く。
開いた経路
この記事の手法に、もう一度戻る。
県の保有する公文書は、請求すれば誰にでも開かれる。報道機関の特権ではなく、市民の権利としての経路が、この事件で有効であることが実証された。県と学校の面会に議事録が存在し、開示されるなら、同じ経路で取れる文書は他にもあるはずである。事故の前、四十年の交流の中で、県の各部署と学校、協議会の間にどんなやり取りの記録が残っているのか。県議会の特別委員会が検証しようとしている、県側の受け入れの仕組みそのものである。
僕も七月二十九日、沖縄県知事宛てに情報公開請求を電子申請した。条例上の決定期限からみて、八月十日の特別委初会合には間に合わないが、委員会の議論と開示文書を突き合わせる作業は八月の後半にできる。開示されれば、この稿で毎日新聞の報道に依拠して書いた文書を、自分の手で読むことになる。結果は、出たときに書く。
三月十八日、検視が行われているさなかに、校長は知事に、今後も同様に、と言った。その言葉は学校には記録がなく、県の議事録に残り、百三十三日後に開示請求で出てきた。
僕は書き続ける。
【追記 七月三十一日】産経新聞が、沖縄県への取材で面会の議事録を報じた。それによれば、面会は三月十八日午後一時三十五分、県庁の知事応接室で約十分間。県側は知事のほか知事公室長と秘書防災統括監、学校側は西田喜久夫校長と学校法人同志社の事務部長が出席した。議事録の中で校長は、現在、ご遺族の方々がこちらに来ており、ちょうど検視が行われている状況だ、と自ら説明した上で、本校はこれまで四十年以上にわたり、沖縄の皆さまに大変お世話になってきた、今後も同様に訪問させていただき、研修を継続していきたい、と述べている。本稿で毎日新聞の報道をもとに書いた発言が、議事録の文言として確認された形である。僕が沖縄県に郵送で請求した開示文書にも、この議事録が含まれる見込みだ。届いたら、自分の目で読む。
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