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冷めた残りものが、心を満たす夜がある【50代】

介護のあと、台所で食べるひとりの一膳

誰かと食べるご飯は、もちろんいい。

家族で囲む食卓。
誰かと話しながら食べる時間。
温かいものを温かいうちに食べて、何気ない会話が少しだけ弾む。
そういう食事には、人間らしい豊かさがある。

だが、ひとりで食べるご飯にも、別の豊かさがある。

いや、今の私はむしろ、そのありがたさを以前より深く感じている。

ダブル介護が始まってから、食事というものは、単純に「食べる時間」ではなくなった。

父の食事を用意する。
母の好みを考える。
娘のことも見る。
妻の負担も考える。
誰が何を食べられるか。
誰が何を嫌がるか。
薬の時間はどうか。
食べ終わったあと、片づけはどうするか。

そんなことを考えながら、食卓は回っていく。

食事は、本来なら休む時間のはずだ。
だが介護のある家では、食事もまた段取りの一部になる。

父の体調を見る。
母の機嫌を見る。
認知症の母が同じことを何度も言えば、そのたびに答える。
父と母がぶつからないように、空気も読む。

こちらも箸を持っている。
だが、頭の中では別の回路が動いている。

だから、自分が食べたいものを食べているようで、実はあまりそうではない。

私は人と食べる時、わりと気を遣う。

相手より早く食べ終われそうなもの。
机の上に広がりすぎないもの。
提供までに時間がかからなそうなもの。
相手が嫌いそうな匂いや食材は避ける。
場合によっては、同じものを選ぶ。

我ながら面倒な人間だと思う。

だが、そういうことを自然に考えてしまう。
食べたいものより、その場が滞らないもの。
自分の満足より、空気が乱れないもの。

たぶん、そういう癖がついているのだと思う。

だからこそ、ひとり飯はいい。

誰にも合わせなくていい。
誰の速度も気にしなくていい。
見た目を整えなくてもいい。
器が多少地味でもいい。
台所で立ったままでもいい。
小さな椅子に座って、ただ黙って食べてもいい。

そこには、誰にも遠慮しない時間がある。

私にとって、心を満たすひとりご飯とは、豪華なものではない。

むしろ逆だ。

残りもの。
冷めたおかず。
少しだけ残った味噌汁。
半端に残った野菜。
豆腐。
納豆。
鶏むね肉の切れ端。
昨日の煮物。
誰かの分を先に整えたあと、最後に台所で食べる一膳。

それが妙に沁みることがある。

もちろん、冷めている。
見栄えもしない。
店で出てくるような完成度などない。
写真に撮っても、たぶん映えない。

だが、そこに救われる夜がある。

父の様子を見て、母の言葉を受け流し、薬を確認し、尿パックを見て、風呂場を確認し、台所を片づける。
全部が一段落したように見えても、完全に気が抜けるわけではない。

夜中に何かあるかもしれない。
父が呼ぶかもしれない。
母がまた何か言い出すかもしれない。
それでも、ほんの数分だけ、自分に戻れる時間がある。

その時に食べる、冷めた残りもの。

それが、私にとっての心を満たすひとりご飯なのだと思う。

誰かのために作ったご飯ではない。
誰かの好みに合わせたものでもない。
誰かの機嫌を取るための食事でもない。

ただ、今日一日を何とか越えた自分が、最後に自分のためだけに箸を持つ。

それだけのことが、こんなにも心を満たすとは、若い頃の私は思っていなかった。

若い頃は、食事にも勢いがあった。

大盛り。
ラーメン。
中華。
焼肉。
牛丼。
とにかく腹を満たすことが、どこか生きる力そのものだった。

ロスジェネ氷河期世代の若い頃は、安く腹いっぱい食べられるものにずいぶん助けられた。
給料は大したことがなくても、牛丼一杯で何となく立て直せた。
立ち食いそばで時間をつなぎ、コンビニ弁当で夜を越えた。

あの頃の食事は、前へ進むための燃料だったのだと思う。

だが50代になると、食べることの意味も少し変わってくる。

たくさん食べることより、ちゃんと満たされること。
豪華なものより、今の自分の身体と心にちょうどいいもの。
胃袋だけでなく、気持ちまで静かに落ち着くもの。

そういうものの価値が、少しずつわかってきた。

今の私は肉体改造中でもある。
だから米はかなり減らしている。
野菜、豆腐、鶏むね肉、もも肉。
そんなものを中心にしている。

以前なら、少し物足りないと思ったかもしれない。
だが今は、そうでもない。

むしろ、身体を保つための食事として、地味なものがしっくりくる。
豆腐に醤油を少し。
鶏むね肉をゆっくり噛む。
残った野菜を温め直す。
味噌汁を一口飲む。

それだけで、身体の中に少し明かりが戻る気がする。

昔、卵かけご飯について書いたことがある。

あれはあれで、私にとってかなり強いひとり飯だ。
卵、納豆、ネギ。
あの単純さには、今もかなわないものがある。

だが最近は、それとはまた少し違うものに救われるようになった。

誰かの食事を先に整えたあと、最後に自分が食べる冷めた一膳。
自分のためにわざわざ作ったものではない。
余ったものを寄せただけ。
それでも、その時の自分にはちょうどいい。

そこにあるのは、料理の完成度ではない。

ようやく自分に戻る時間だ。

介護のある暮らしでは、自分の時間はどんどん細くなる。

自由に外食へ行くことも難しい。
誰にも気兼ねなく長く座っていることも難しい。
旅行も遠い。
温泉も遠い。
ゆっくり寝ることすら、なかなか遠い。

だからこそ、身近なところに小さな満足を置いておく必要がある。

家キャン。
小高い丘。
妄想旅行。
そして、ひとりの一膳。

どれも派手ではない。
だが、私を保ってくれている。

人は、大きな幸せだけで生きているわけではない。
むしろ、日々を支えているのは、小さな回復のほうなのだと思う。

冷めた残りものを食べる。
誰にも気を遣わずに箸を持つ。
自分のためだけに一口飲み込む。
今日一日を何とか越えた自分に、少しだけ栄養を戻す。

それが私にとっての、心を満たすひとりご飯である。

豪華でなくていい。
珍しくなくていい。
映えなくていい。

ただ、ちゃんと自分に戻れるもの。

台所の灯りの下で、少し冷めた味噌汁を飲む。
残った豆腐を食べる。
鶏肉をひと切れ噛む。
野菜を少しつまむ。

そして思う。

ああ、今日も何とか越えたな、と。

ひとり飯というのは、寂しさの名前ではない。

少なくとも今の私にとっては、自分を取り戻すための小さな儀式だ。
誰かのために動き続けた一日の終わりに、最後に自分自身へ戻ってくる時間だ。

読者の皆様にも、きっとあると思う。

誰にも見せないけれど、自分を少し救ってくれる食事。
豪華ではないけれど、なぜか心に残っている一膳。
疲れた日に、これだけあれば少し立て直せるもの。

あなたにとっての、心を満たすひとりご飯は何ですか。

私はたぶん今夜も、台所で何かを温め直す。
少し冷めた残りものかもしれない。
豆腐かもしれない。
鶏肉かもしれない。
味噌汁だけかもしれない。

それでもいい。

今日を越えた自分に、静かに箸を持たせる。
それだけで、少しだけ明日へ進める気がするのだ。

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