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山崎の合戦「秀吉遅参」という新説を、論文も読まずに考えてみた

※論文読後の追記は後ろにあります。

馬部隆弘教授の論文「山崎の合戦に遅参した羽柴秀吉」が話題になっている。『戦国史研究』91号(吉川弘文館、2026年3月)に掲載されたばかりで、朝日・日経・毎日が一斉に報じた。論文はまだ手元にない。届くのを待ちながら、Xに流れてきた情報と既存の知識だけで少し考えてみた。

新説の核心はシンプルそうだ。合戦当日(天正10年6月13日)の秀吉書状が分析された結果、秀吉本人は富田(現在の高槻市付近、戦場から約12km後方)に陣を置き、「明日(14日)に西岡へ出陣する」と指示していたことが判明したという。つまり秀吉は光秀が勝龍寺城に籠城すると想定して翌日の包囲戦を計画していた。ところが光秀が予想外に打って出たため、先に展開していた摂津衆(池田恒興・中川清秀・高山右近)と秀吉与力部隊(秀長・黒田官兵衛・堀秀政)だけで決着がついてしまった。

これが「遅参」と呼ばれている。

ここで少し引っかかった。

「遅参」という言葉には、何かに遅れたというニュアンスが強くある。だが秀吉は翌日の決戦を計画していて、本隊を後方に置き、与力・地元衆を先に展開させていた。これは当時の武将としてごく常識的な配置ではないか。関ヶ原の家康だって本陣は後方に置いていた。誰も家康を「遅参」とは言わない。

より適切な表現は「秀吉本隊が参加するまでもなく決着がついた」ではないか。

新説では「光秀は秀吉の遅れを逆手に取って打って出た」とされている。これは桶狭間合戦と主観的な意図の点で構造が似ている。圧倒的大軍に対して、相手の前衛部隊を強襲して勝利の糸口を掴もうとする積極策。桶狭間では前衛部隊を撃破し、そのまま今川義元の討死につながり大勝利になった。山崎では前衛部隊に撃退されてしまった。始まりの構造が同じで、結果が真逆だった。

しかし、戦略的な観点を持ち込むと、全く異なった構図が見えてくる。仮に光秀勢が持ちこたえていたらどうなったか。賤ヶ岳の再現になっただろう。戦線に拘束されているうちに秀吉本隊が到着し、数の差で押し潰される。さらに言えば、仮に摂津衆を撃破できたとしても、小牧・長久手の家康と同じ状況になる。戦術的勝利が戦略的敗退を覆せない構図だ。

つまり、秀吉が中国大返しで本人と有力軍勢を畿内に連れ帰った時点で、光秀は詰んでいた。戦場に直接関与しなかったことをもって「遅参」と呼ぶなら、戦略的には逆で、秀吉はすでに「間に合っていた」のだ。むしろ、戦略的勝利が圧倒的だったからこそ、戦闘に参加するまでもなく決着がついたのではないか。そのことをあべこべに「遅参」と呼んでマイナス評価すること、これが私の感じた違和感の正体であった。

そこまで考えると、論文の本質が少し見えてくる気がする。

新説の核心は「秀吉が神速で駆けつけて自ら采配を振った」という後世の神話を、一次史料で修正したことにありそうだ。あわせて、合戦後4ヶ月頃の書状に残る推敲の跡から、秀吉が事後的に遅参の事実をぼかすイメージ戦略を行ったことを論じている。

「遅参」というタイトルはその意味でキャッチーだが、誤解を招く表現ではないか。むしろ「秀吉は実は後方にいたのに、神速の英雄として語り継がれた」という神話形成のプロセスこそが、新説の面白さの核心だと思う。

論文が届いたら、答え合わせをしたい。

論文読後の追記

 論文が届いたので早速読んでみた。全体として非常に興味深い内容だったが、やはり『遅参』という用語法には違和感が残る。
 史料により、秀吉が実際には戦闘に参加していないのに、参加したかのように装ったとする点はなるほど。
 ただ、山崎は予定通りの配置で動いていたのに本隊が戦闘に参加する前に片付いただけではないのか?
 たとえば、甲州征伐で信忠先遣隊が武田をほぼ滅ぼしたけれど、信長本隊を遅参とは誰も呼ばない。遅参とは、例えば刀根坂の佐久間らのように、予定された行動に遅れたニュアンスが含まれるので、誤解を招くおそれがある表現なのではないかと思う。
 秀吉の宣伝工作にしても、遅参という失態を伏せたというよりも、自身の活躍を宣伝する積極的なものと捉えた方が実態に合致しているように感じた。

追記2

 歴史街道8月号の馬部隆弘教授「秀吉は山崎の合戦に遅参し、仇討ちの功労者は別にいた!」を拝読しました。
 要旨は、清洲会議期の連署状から、柴田・池田・羽柴・丹羽という序列が読み取れる。池田の序列が羽柴を逆転していることから、何らかの瑕瑾が秀吉にあったことになる。山崎の合戦は池田が主導、秀吉は遅参した——という論理展開。

 教授の「遅参」という用語法には、明確な意図があったようです。秀吉遅参説の違和感、あえて秀吉側の瑕疵を強調する表現を使った意図がよくわかりました。

 ただし、多少の違和感も残ります。 羽柴・池田の地位逆転は、羽柴の「瑕瑾」がなければ説明できないのか。池田が勲功第一だった、というだけで足りるのではないか。そして、この論理でいくと丹羽にも「瑕瑾」があったことになりそうです。

 また、秀吉に積極的な瑕瑾があったのならば、その後すぐ家中筆頭に上ったことの説明が難しくなる懸念もあります。

 単に池田が勲功第一なのか、秀吉に糾弾されるべき落ち度があったのか、そのニュアンスの差を感じました。

 秀吉は、山崎の合戦の戦い自体には参加しておらず、池田が仇討ちの最大の功労者であると当時評価されていたことについては、素晴らしい論説と感じました。

関連記事

【論文】
馬部隆弘「山崎の合戦に遅参した羽柴秀吉」
『戦国史研究』第91号(吉川弘文館、2026年3月刊)
yoshikawa-k.co.jp/book/b10155571…【参考報道】
・朝日新聞(2026/3/13)https://www.asahi.com/sp/articles/ASV3D1H0WV3DUCVL011M.html
なお、馬部教授の所属する中京大学では、文学部創設60周年記念特別展『豊臣放題!―秀吉関係文書を一挙に公開―』(古文書室、2026年6月12日〜7月16日)が開催されている

馬部隆弘「秀吉は山崎の合戦に遅参し、仇討ちの功労者は別にいた!」
『歴史街道』令和8年8月号(PHP研究所、令和8年7月6日刊)

#山崎の合戦 #戦国史 #秀吉遅参

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