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会津さざえ堂とレオナルド・ダ・ヴィンチの謎

1796年、会津に奇妙な建物が現れた
設計したのは建築家ではなく、一人の和尚 

登りと降りが螺旋状に組まれ、すれ違わずに登って降りられるなんとも不思議な二重螺旋構造

サザエの貝の中の渦巻き🌀になぞらえて、
「会津さざえ堂」
と呼ばれるこのお堂には正式名称がある

円通三匝堂(えんつうさんそうどう)

円通(えんつう)とは観音菩薩(かんのんぼさつ)のことを指し、
三匝(さんそう)とは三度めぐることを意味する

建築士の友人から聞いてずっと行きたかったこの建物、やっと見に行くチャンスが訪れました

今回はこのさざえ堂から、
まさかのレオナルド・ダ・ビンチに繋がる寄り道を掘っていきたいと思います

さざえ堂外観
螺旋の斜めの状態がわかりやすい、
正面向かって右側から撮った写真
正面少し左角度からのさざえ堂

1796年というと、江戸時代後半
江戸の街では写楽や歌麿などの浮世絵師が活躍し、庶民たちの間で「お寺や神社にお参りする旅」が大流行していた時代

一方このさざえ堂が出来た会津では、5代目松平容頌(まつだいらかたのぶ)が藩主で、教育や産業にとても力を入れていた豊かな時代でした

そんな時代、近畿地方を中心とする33か所の観音霊場を巡る
「西国三十三所(さいごくさんじゅうさんしょ)」
という観音様巡りの旅が大流行していました

ただ、すべてのお寺をまわると、
今の滋賀県から和歌山県、京都などを歩いて移動するため、何ヶ月もかかります

お金も体力もない一般の人や、お年寄り、子供には、一生に一度行けるかどうかの超ハードな旅

わざわざ遠くまで行けない地元の人のために、
1つのお堂の中に、33のお寺の観音様のレプリカ(身代わり)を全部集めてしまおう!

遠く西国まで行けない人でも、ここで三十三観音を巡れば、西国三十三所を巡礼したのと同じ功徳を得られる「ワンストップサービスお堂」を作ろう!

と思い至ったのが、会津の正宗寺(しょうそうじ)の住職、郁堂和尚さまでした

あれ?なんか聞いたことある話…
そう、富士山をそうやって運んだ「富士塚」の話
ありましたね、
日本人はやっぱりご利益あるものを近くに持って来たくなるのかしら?こんなところにも同じような理屈の話があったとは🤭

過去の記事より↓


さて、さざえ堂何がすごいかというと…

「上る人と下りる人が、絶対にすれ違わない」という仕組み
33もの観音様を一つのお堂内で拝むとなると想像できるのが「大変な混雑」、そこで
「全員が時計回りに一方通行で進み、絶対に人とぶつからずに、スムーズに33体の観音様を拝んで帰れる夢のアトラクション」
として、この不思議な形が誕生したのだそうです

お堂内、時計回りの「登り」
一番上、この渡り廊下の向こうから下りに
お堂内、「下り」は反時計回り

今はもう33体の観音様はありませんが、ここを拝みながら登って降りていたのですね
しかも階段ではなく「スロープ」です!

巡礼のためのお堂ですので、
お年寄りや子供にも歩きやすい
まさに江戸時代の「やさしい設計」、
今で言うバリアフリーに繋がる意識ですね

さて現在、私たちが本やネットで見ることができるさざえ堂の正確な断面図や図面は、
1965年に日本大学理工学部建築史研究室が現物を実測して図面を作ったもの

では、1796年の大工たちは、この複雑な立体構造をどんな図や方法で設計したのだろう?

残念ながら、建立時の設計図は現在確認されていないのです

日建連の資料によると、中央の6本の通し柱と外側の柱を梁でつなぎ、その構造に沿って緩やかなスロープを組み込んでいるというこのさざえ堂

アイデアは和尚さんだそうですが、誰かが頭の中で立体構造を考え、それを木材の寸法に落とし、職人が実際の建物として成立させた

今の私たちならCADで立体モデルを作ってしまいそうな構造を、江戸時代の職人たちは、「当時の設計・規矩術」と「木造技術」を駆使して実際の建物にしていったのです

実は、この複雑な構造、和尚さまのアイデアと大工さんたちによる建築技術で突然閃いて作られたかどうかは「謎」となっている部分

というのも、これより前
秋田藩主だった佐竹曙山(1748〜1785)が残したスケッチ帳の中に、
「二重螺旋階段」を描いた図がありました

この人、単なる殿様ではなく、当時の日本を代表する洋風画家の一人

さざえ堂建立の11年前に、彼が二重螺旋階段を図として描いていたのです

ただ曙山のスケッチは、のちの研究によって、
17世紀にロンドンで出版されたジョゼフ・モクソンの『Practical Perspective』など、西洋の透視画法書に掲載された二重螺旋階段の図と非常によく似ていることが研究で指摘されています(諸説ありますが、要は西洋の建築様式の図版がオランダ語訳経由で輸入されていた)

つまり、曙山が突然二重螺旋を発明したわけでもなく、その図にはヨーロッパの建築などの長い系譜があったということ

ただ、その曙山と郁堂和尚の接点がわからないので、郁堂和尚がそこから着想を得たかどうかはまた謎の話

でも日本には、
「さざえ堂ができる前から二重螺旋の図がヨーロッパより入っていた」こと自体はかなり確かな話のようです

なので会津側では
「郁堂和尚が二重“こより”の夢を見た」
という伝承もある一方で、西洋の二重螺旋との関連を考える説も紹介されているのです



さて、その二重螺旋階段、
実はさざえ堂の他にフランス・ロワール地方にあるシャンポール城(1547年築)というお城の階段にも採用されています

その「シャンポール城」の二重螺旋階段
これはお城内中心部にある2本の螺旋階段が、中央の空洞を挟んで絡み合う二重螺旋構造になっており、階段を歩く姿はお互い見えども永遠に会えない階段として有名な観光地となっています

そしてこの二重螺旋階段、
実はレオナルド・ダ・ヴィンチの建築思想の影響があったのではないか、
と考えられています

ようやくここで出てきました、

レオナルド・ダ・ビンチ

レオナルドのノートには、螺旋や階段に関するさまざまな研究・スケッチが残っています

そしてシャンボール城の公式資料も、シャンボールの二重螺旋階段とレオナルドのノートのスケッチを比較すると、明らかな類似があるとしている

だから、
「ダ・ヴィンチと二重螺旋は無関係」
とは考えにくい

ただし、
「ダ・ヴィンチがシャンボールの二重螺旋を直接設計した」
は、これまた証明されていないのです

そうなんです、ヨーロッパには二重螺旋という建築的アイデアが、さざえ堂建築の250年ほど前に存在しており、それが透視図法・建築書などを通じて日本にも伝わっていた
そして曙山がそれをスケッチしていたと言うのは明らか

ここでダ・ヴィンチの二重螺旋階段と日本の建築に接点が生まれるのです

最初にこのさざえ堂を見た時に、江戸時代に、
しかもこんな田舎(ごめんなさい!)の会津で
こんなに複雑な構造の建築物がいったい誰の手によって作られたのか??とワクワクが止まりませんでした

しかもいまだにこのさざえ堂、ひっそりと佇みすぎではないか?一方のシャンポール城は世界中の人々がその階段を見に来る人気の観光地なのに

もし二重螺旋というアイデアが、彼らのオリジナルでなく何らかの形で西洋から日本に伝わっていたものからの着想だとしても、

それを見た誰かが、

「これを階段ではなく、巡礼のためのスロープにできないか?」

と考えた

お堂の中の「移動のためのスロープ」というより
もはやそれは、
お堂の内部の「構造そのもの」なのです

そして、それを日本の「木造建築」として実際に成立させた

いったい、それを設計したのは誰だったのだろう

郁堂和尚なのか
大工だったのか
あるいは、その両者だったのか

「会津にダ・ヴィンチの二重螺旋を当時の大工技術で再現できたという天才が、誰にも知られず埋もれていた?」

もしかしたらそうなのかもしれない

そう思いたい私でした



※会津さざえ堂の構造については、日本建設業連合会「Material Stories 会津さざえ堂(円通三匝堂)」を参考にしました

この記事から派生した話はこちら😊↓



最後まで読んで頂きありがとうございました😭
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どうぞご興味に触れたものがありましたら覗いてください😉↓

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