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「いまひとたびの」あらすじ解説【タイムループ研究】

タイムループとタイムリープは似ているけど違います。ぐるぐる廻るのがループです。飛び移るのがリープです。

あらすじ

爆発の閃光に目を焼かれ、やがて記憶を失ってしまった、作家にして化学者にして陸軍将校のアラン・ハートリー。目を覚ますと、13歳に戻った自分を見つけます。第三次世界大戦の最中の1975年から1945年8月5日に戻ったのです。

13歳のアランは1945年の世界で(お約束ですが)殺人事件を未然に防ぎます。
しかし父がいぶかしがります。なんで予知できたんだ。それに語彙が昨日までと違い過ぎる。父は十分賢い人でしたので、アランは正々堂々と起こった事態を説明します。

会話の後、やがて両者ともタイムループした人間のメリット、すなわち外れない予言の力に気付きます。二人で強力して起こるべき第三次世界大戦を阻止しよう、というところまで会話が進んだところで、父の言葉で作品は終わります。
「わかった。おまえの言う通りにしよう。お前が大人になるころには、わしは大統領か・・・。さあ夕食を作ろう」

(あらすじ終わり)

ループ物語のはじめ

SF翻訳家の大森望氏によれば本作はループもののはじめだそうです。ヘンリー・ビーム・パイパーによる1947年の作品です。「ここがウィネトカなら、きみはジュディ」という本に収められています。

タイムループはするのですが、なにしろループものの始まりですから、原始的な構造で話の展開がありません。1945年8月5日にもどって、父と将来のことを話し合って、そこで小説は終わりです。
そんな短編をここで取り上げたのは、父と息子の会話が面白く、時間論としてわかりやすいからです。

アラン(息子)「ぼくが仮定しているのは、この次元における時間の一瞬一瞬がつねに共存しているということだよ。

ちょうど、物差しの目盛りの一個一個が他の目盛りと同時に存在しながら、それぞれが空間上の別の点を占めているのとおなじこと」

「ふむ、目盛りと順序に関してはそうだろうな」と父はうなずいた。「だが”時の流れ”はどうなる?」

「そうだね、時間は流れているように見える。でも走っている車の窓から眺めた風景も流れているように見えるでしょ。どちらもある種の錯覚だとしたらどうかな。
ぼくらが時間を動的と考えるのは、静止したポイントから観察したことがないからなんだ。だけど、もしすべてがまるごと存在するなら、時間は静止している。
そしてその場合は、ぼくらのほうが時間の中を動いていることになる」

「筋は通っているようだ。だがその場合、車の窓とはなんだ?」

「あらゆる時間が存在するなら、人間が一生ですごしてきたあらゆる瞬間も同時に存在しているはずだよ」とアラン。
「肉体も、精神も、精神が抱くあらゆる思考も、それぞれあるべき瞬間に、順番に並んでいる。でも、ぼくらが”いま”と考える瞬間にしか存在しないものは?」

父はにやっと笑った。彼はすでに、幼い息子が自分と知的に対等な相手だと認めていた。
「教えてください、先生。それはなんですか?」

「意識だよ。おっと、『それはなんだ?』とか言わないでよ。先生も知らないんだから。
だけど、ぼくらは、ある瞬間だけにしか知覚できない。そこに”いま”という幻が生じる。
この瞬間も”今”だし、さっき父さんが質問したときも”今”だったし、ぼくが話を終えるときも”今”だろう。
でも、それぞれ別の瞬間なんだ。ぼくらは無数の”今”がすべて過ぎ去っていくと想像している。ほんとうは、一瞬一瞬のほうが制止していて、意識のほうがびゅんびゅん通過していくんだ」

(引用終わり)
つまり現在も過去も未来も既に決定しているというのです。ただ「意識」がそこを通過してゆくので、我々は時間の流れとして認識していると。

アウグスティヌス

本作はアメリカの小説ですから、当然キリスト教文化圏です。キリスト教では全てを作ったのは神であり、神の被創造物の中には「時間」も含まれます。
アウグスティヌス(西暦354-430)という神学者がいまして、ローマ帝国末期の人物なのですが、彼の著作から引用します。

「あなた(神)が全ての過ぎ去った時間に先立つのは、常に現在である永遠の高さによるのです。
それによってあなたは、全ての来たるべき時間を追い越しておられます。
実際、それらの時間は今は未来ですが、やってくると過去になるでしょう。
しかしあなたは同一の者にましまし、その年は欠けることがありません。
あなたの年は、来ることも往くこともありません。
ところが私達の年は、全ての年が来るために、ある年は来たり、ある年は往くのです。

あなたの年は、全てが同時に立ち止まっています。なぜなら静止していますから。往く年が来る年に押しのけられることもありません。あなたの年は移り去らないのですから」(告白録 第11巻・第13章)

時間も神が作ったもので、神から見れば現在過去未来全てそろっているのです。だから静止しています。我々人間は神の作った静止した時間の中を移動しているだけです。作中のアラン少年の時間観と同じですね。

逆方向から説明してみましょう。
絶対的な神を想定する
→神は全てを作った、よって神は時間に拘束されない
→逆に言えば、時間が永遠であっては困る(神と同等になる)
→直線時間、有限時間になる。
だからキリスト教は直線時間なのです。

しかし非キリスト教の日本人の感覚では、
年の始めの ためしとて
終わりなき世の めでたさを
松竹たてて 門ごとに
祝う今日こそ 楽しけれ
と歌われます
終わりなき世、つまり時間が永遠だと思っています。この時間の永遠性は神の絶対性とバッティングします。こういうのが文化の大きな溝になります。

決定論と自由意志

キリスト教の神は、現在、過去、未来、全ての時間を創造しました。となると、実はタイムトラベラーたちは困るはずです。なぜならば時間は既に作られたものであって、人間が新しく作ることはできないからです。理屈上はそうなります。
でも実際には(いや小説の中では、なのですが)本作のアランは、来るべき第三次世界大戦を回避するために活動を開始します。ここはキリスト教教義の大きな弱点です。

神は全てを作った。時間も作った。現在過去未来全て止まっている。全ては決定されている。とすると実は、人間が神を信仰する必要がなくなります。神は個人が信仰するか信仰しないかまでも決定しており、最終的に救済されるかされないかまでも決定しているはずですから。
ですからどんな良いことをしても救われない人は救われない、どんな悪いことをしても救われる人は救われる。教会に火を付けて司教を殺して金を奪っても、自分の未来の運命に変わりは無いはずなのです。全ては強力な神が決定しているのですから。

ではその考え方で教会組織を維持できるか。できません。下世話な言い方で恐縮ですが、教会がメシを食ってゆくためには、人間には自由意志があり、自分なりに考えて善行をし、教会に寄付をし、その結果救済されるというストーリーを作る必要があります。だから教会は人間の自由意志を認めてしまう、神の絶対性に逆らってでも。
結果本作のアランのように、第三次世界大戦回避の行動を取ろうとする人物が発生する。定規の目盛りのように決まっているはずの未来を、変えようとするのです。すると神が時間を作ったという考え方が保持できなくなります。
難しいですね。実は阿弥陀如来を信仰する浄土真宗の教義もこの傾向あります。しかし阿弥陀様はキリスト教の神のような時間を含む天地を創造した絶対的な存在ではありませんから、ここまでシリアスな矛盾ではない。
キリスト教の場合は設定した神が強力すぎて、その分人間の力が極端に小さくなります。そもままでは主体的に信仰しよう、正しい生き方をしようとする自由意志までも圧殺されてします。それは教会が困る。だから神は絶対なのに、なぜか人間は自由意志を持つことになります。妥協です。神は絶対なのか絶対でないのか、どっちやねんです。神学上は色々議論あるようですが、結局はだれもが自由意志を持って行動しています。

タイムループものの始まりの本作では、神が時間をすべて決定していることは描かれても、時間の勝手な変更は「まだ」描かれていません。主人公は13歳に戻って、その日一日で作品は終りです。作者は教会の扉から一歩だけ外に出たのですが、その後どうするかは(ループものが誕生したこの瞬間では)まだ決めていないようですね。

ループ時間分類

分類してみました。

火の鳥は過剰ループです。自分の生まれる前にタイムループします。だから20年間分主人公は重複して存在しています。
他の作品は完全ループです。ハルヒなんかは8/17~8/31を600年以上繰り返しています。
本作は不完全ループです。とりあえず昔に戻っただけ、昔の自分に入れ替わっただけです。この後なにが起こるかわかりません。翌日には現在に戻っているかもしれません。でもループになりかかっています。これこそタイムループが発生する瞬間です。

この後、作者ヘンリー・ビーム・パイパーはパラレルワールドものを書いたそうですが、私は読んでいません。決定された時間と自由意志の矛盾点を解決しようとすると、パラレルワールド世界観にゆくしかありません。神が無数の世界線を創造し、人間は自由意志で世界線間を移動する、ということなります。

このパラレルワールドというのは、仏教の三千世界とほぼ同値です。三千世界については以下ページご参照ください。

隣の小世界に移動すると、パラレルワールドに移動したことになります。それぞれの小世界、パラレルワールドにある時間軸が「世界線」という言葉になってSFに登場します。東洋系にはわりと自然な考え方で別に違和感ないのですが、西洋社会でいったいどうなのか、そこらへん考えたくて最近ループ研究している次第です。決定論と自由意志の間、教会の出口で立ち止まった作者パイパーは、少し仏教よりにポジション移動して問題を回避したのですね。
彼は元来リバタリアン的思想の持ち主、つまり決定論よりも自由意志を尊重するほうでした。彼の最期は自殺でした。教会の禁じる自殺を敢行して、自分の自由意志を貫きました。


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