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岩本崇氏による史上最強の三角縁神獣鏡=中国鏡説(魏晋鏡との併行関係)への疑問

2025/9/27に岩本崇さん(島根大学)の濱田青陵賞授賞式・記念シンポジウムの講演をYouTubeで聴きました。現在もYouTubeで聴くことができます。シンポジウム資料も見ることができます。岸和田市(大阪府)に感謝です。

YouTube(4時間1分)(岩本さんの講演は0:32~1:34、約1時間)
資料(岩本さんの講演要旨はp7~21)

※上記資料は、今回のnoteのテーマである三角縁神獣鏡の製作地と実年代に関しては、あまり触れていません。

※このnoteは2025/10/10に【11月投稿予定】として冒頭部分(400字×6枚)を投稿し、11/14に「岩本説の概要」「岩本説への疑問」等を追加(400字×45枚超)したものです。
※トップ画像:青龍三年銘方格規矩四神鏡[ほうかくきくししんきょう](大阪府安満宮山古墳出土)(今城塚古代歴史館企画展展示)


岩本説は一大事

三角縁神獣鏡=国産鏡説を完全否定

恥ずかしながら、僕は岩本さんの説を知りませんでした。これは一大事だと思いました。

岩本さんは、三角縁神獣鏡と魏晋鏡※(方格規矩鏡など)の単位文様(鳥像・唐草文)の変遷を比較することによって、三角縁神獣鏡はすべてが中国鏡であり、240年前後に製作が始まったことを説明しているからです。史上最強の三角縁神獣鏡=中国鏡説と言っていいと思います。

※岩本さんは「魏晋代の華北系鏡群」と表現します。このnoteでは「魏晋鏡」と呼ぶことにします。

三角縁神獣鏡(左)と魏晋鏡(右)の唐草文の対応例
(『三角縁神獣鏡と古墳時代の社会』(岩本崇、六一書房、2020年)より転載)

※僕は2023/5/26note第2章で、福永信哉さん(元・大阪大学)の三角縁神獣鏡の唐草文に関する説を紹介しました。岩本さんの説は、福永さんの説をより精緻に発展させたものだと理解しました。

福永伸哉「舶載三角縁神獣鏡の製作年代」(待兼山論叢、1996年)

僕は、三角縁神獣鏡はすべて国産鏡(ヤマト王権が中国鏡であるかのように偽装した鏡)であり、240年代にはまだ出現しておらず、製作が始まったのは3世紀第4四半期以降だと考えています。

岩本さんの説が正しければ、僕の説は成り立ちません。僕に限らず、三角縁神獣鏡は中国鏡ではない(国産鏡)と考える人は、岩本さんの説に反論できなければなりません。これは相当に難度が高いです。

岩本さんの書籍・論文等

岩本さんの書籍や論文を読みました。

『三角縁神獣鏡と古墳時代の社会』(岩本崇、六一書房、2020年)が詳しいです。この本はお勧めです。僕は千葉県立図書館から借りて読みました。特に第2章を精読しました。

『三角縁神獣鏡と古墳時代の社会』
第2章 三角縁神獣鏡の製作年代と製作背景
 第1節 魏晋代の華北系鏡群と三角縁神獣鏡
 第2節 三角縁神獣鏡の製作年代と製作背景

本書で岩本さんは以下のように述べています。

▶三角縁神獣鏡の製作系譜を明らかにすることを目的として、関連鏡群として位置づけられてきた魏晋代の華北系鏡群との関係をくわしく把握することを試みた
▶とりわけ三角縁神獣鏡の唐草文は魏晋代の華北系鏡群と表現が細部まで一致する傾向がきわめて強く、それは製作者集団の同一性を示すものとみなしうる
魏晋代の華北系鏡群の製作段階が舶載・「仿製」におよぶ三角縁神獣鏡の製作段階と、諸要素の共通性から同様の推移をたどると評価しうる
同一の単位文様が共有され、かつ変遷の方向性を同じくするとみられる点からは、時期的な併行関係だけでなく、その製作地<魏晋鏡と三角縁神獣鏡の製作地>が長期にわたって同一であった可能性がうかがわれる
▶すなわち、三角縁神獣鏡の製作地は、舶載・「仿製」の差を問わず、一貫して魏晋代の華北系鏡群に重ね合わせて考えることが妥当なのである

『三角縁神獣鏡と古墳時代の社会』(岩本崇、六一書房、2020年)

まとめ
三角縁神獣鏡に魏晋代の華北系鏡群と共通する単位文様が長期にわたって存在し、両者の変遷がほぼパラレルに進行する可能性が高いことを確認した
▶あえて三角縁神獣鏡の製作地について言及するならば、すべての三角縁神獣鏡が中国製であり、魏晋代の華北において製作されたと考えることができよう
▶その製作は230年代にはじまり、終焉時期は4世紀前葉を遡らない可能性がきわめて高い。したがって、三角縁神獣鏡の製作期間は、短くみても70年以上の長期におよんだことを確実視できる

同上

※引用は、見やすいように文章を▶で改行します。順番は入れ替えていることがあります。< >は僕が補った個所です。

他にも以下のような書籍・論文を読みました。『銅鏡から読み解く2~4世紀の東アジア』は1年以上前に読んでいたのに、岩本さんの論文に気づかないとはうかつでした。

岩本崇「三角縁神獣鏡生産の展開と製作背景」(『銅鏡から読み解く2~4世紀の東アジア』(實盛良彦編、勉誠出版、2019年))

岩本崇「魏晋代における華北系鏡群の編年と三角縁神獣鏡」(考古学研究会岡山例会、2019年11月)

上野祥史「古墳時代における鏡の分配と保有」(歴博研究報告第211集、2018年)

馬渕一輝「漢・三国・西晋鏡の流入経路」(古文化研究、2025年)

岩本説の概要

ここから2025/10/10の【11月投稿予定】のnoteに追加します。

岩本さんの結論は、以下のような順番で組み立てられています。

①三角縁神獣鏡の編年

岩本さんは三角縁神獣鏡の製作段階を、舶載5段階、「仿製」5段階(合計10段階)に編年(前後関係をつけて区分)します。

※三角縁神獣鏡は戦前から、舶載と仿製に分けられています。舶載は輸入、仿製は国産という意味ですが、岩本さんはすべて中国鏡と考えるので、仿製には「 」をつけて表現します。

文様全体の構成、単位文様(個別の文様)、銘文、鏡の厚み(厚→薄)、紐[ちゅう]の大きさ(大→小)などから、精緻な編年を組み立てています。

※今回のnoteでは、岩本さんの三角縁神獣鏡の編年は正しいことを前提とします。岩本さんの編年の根拠は未確認です。他の研究者との比較もしていません。

②魏晋鏡の編年と実年代

岩本さんは、魏晋鏡の製作段階は9段階に編年します。単位文様(鳥像・玄武像・唐草文)が、年代を経るにつれて徐々に「簡略化」していったとします。

例えば、鳥像のA系(写実的かつ躍動感のある翼表現をもつ)は、下図のように7型式に区分します。このA系を基準として、他の系列との併行関係・前後関係を検討することによって、鳥像の変遷を整理できるとします。玄武像・唐草文も同様に区分します。

下表は、岩本さんによる魏晋鏡の鏡種別資料から、「鏡種」「出土地等」「面径」「単位文様」「(備考の)紀年銘」を抜き出し、「三角縁神獣鏡共伴」「出土地 日/韓/中」を追加し、全133面を合体して「製作段階」別にソートしたものです。

※下表では、魏晋鏡は方格規矩鏡・方格T字文鏡・円圏規矩鏡・細線式獣帯鏡・鳥文鏡・唐草文鏡を指します。魏晋鏡には内行花文鏡、双頭龍文鏡もありますが、岩本さんは製作段階を示していないので(鳥像・玄武像・唐草文をもたないためだと思われます)、下表からは除いています。
※「面径」は㎝単位で、小数点以下切り捨てです。14㎝以下が小型、14~19㎝が中型、19㎝超が大型とされます。
※「出土地 日/韓/中」は、中国の博物館等所蔵・図録掲載は「中国」、日本の博物館等やロイヤルオンタリオ博物館(カナダ)所蔵は「ー(不明)」としました(景元四年銘円圏規矩鏡(五島美術館蔵)は、中国の考古学者・羅振玉氏所蔵だったことが確認できたので「中国」としました)。
※下表の赤字は、岩本崇「魏晋代における華北系鏡群の編年と三角縁神獣鏡」(考古学研究会岡山例会資料、2019年11月)から追加・修正された個所です。

※上表のエクセルを以下に添付します。上表は「製作段階」でソートしていますが、みなさんも「出土地」など、いろいろソートしたり、抜き出したりしてみてください。
※ほんとうは、こういった集成資料がネット上のDBのような形で、誰でも利用できるように整備されてほしいです。

上表の薄緑網かけが紀年銘鏡(235年・263年)、墓の磚(レンガ)の紀年銘(271年)、共伴遺物の紀年銘(306年)になり、製作段階の実年代が推定できます。製作段階別の実年代・面数・出土地を整理したのが下表です。

③三角縁神獣鏡と魏晋鏡の併行関係

岩本さんは、三角縁神獣鏡と魏晋鏡で同一の単位文様(鳥像・唐草文)が共有され、パラレルな変遷で進行するとします。簡単に言うと、三角縁神獣鏡と魏晋鏡の鳥像・唐草文が同じ変化をたどる、ということです。そこから、三角縁神獣鏡と魏晋鏡の併行関係(各段階の対応関係)を推定します。

ここは岩本さんの説の最も重要なポイントですが、僕は疑問があり、「岩本説への疑問」の疑問❸で後述します。

両者の併行関係を明らかにできれば、魏晋鏡の編年に与えられた実年代から、三角縁神獣鏡の実年代も推定できるとします。岩本さんによる両者の編年・併行関係・実年代・面数・出土地を整理したのが下表です。

上表で示された併行関係から、以下のようなことが言えるとします(あくまで岩本さんの説です)。

  • 実年代:三角縁神獣鏡と魏晋鏡の紀年銘鏡によって、三角縁神獣鏡の舶載第1段階は240年前後の実年代が与えられ、製作は240年前後に始まったと推定できる。舶載第4段階は260~270年代の実年代が与えられる。第2・第3段階はその間であり、ほぼ10年刻みと考えられる

  • 面数:三角縁神獣鏡は舶載第2段階(実年代は240年代)が43%と圧倒的に多く、「定型・量産期」と言える

  • 製作地:三角縁神獣鏡と魏晋鏡は単位文様(鳥像・唐草文)が同じように変化していくことから、製作地は同一だった可能性が高い。魏晋鏡は古代中国の幽州(河北省・遼寧省・北京市・天津市≒華北)で多く出土し、製作地の中心だったと考えられる。三角縁神獣鏡はすべて華北で製作された中国鏡である

  • 製作期間:短くても70年以上に及ぶ

(補足)製作地について

製作地について、福永さんも以下のように述べます。

▶舶載三角縁神獣鏡は…他形式の中国鏡とわずかではあるが、しかし重要なつながりが継続的にたどれる
▶工人が倭と大陸の間をその都度行き来して製作にあたったというような極端な想定を別にすれば、それらがすべて大陸において製作されたと理解する のがもっとも自然である

福永伸哉「舶載三角縁神獣鏡の製作年代」(待兼山論叢、1996年)

僕は「工人が…その都度行き来」の意味がよくわからなかったのですが、魏晋鏡と三角縁神獣鏡の併行関係が明らかになったことによって、三角縁神獣鏡が国産鏡だとすると、以下のように工人の不自然な行き来を想定しなければならないということだと理解しました。

  • 工人が中国で、第2段階の魏晋鏡(の文様)を製作

  • その後、工人が倭国に渡来し、第2段階の三角縁神獣鏡(の文様)を製作

  • その後、工人が中国に戻り、第3段階の魏晋鏡(の文様)を製作

  • その後、工人がまた渡来し、第3段階の三角縁神獣鏡(の文様)を製作

鋭い指摘ですが、後ほど、「3世紀第4四半期に工人が渡来」の項目で反論したいと思います。

(補足)製作期間について

三角縁神獣鏡は製作期間も議論になっています。以下のように短期編年説と長期編年説があり、岩本さんは長期編年説と言えます。

  • 短期編年説:舶載と仿製の区切りは西晋の成立期(260年代)であり(舶載の製作期間は20年間前後)、仿製の製作は3世紀末までで終了したとする

  • 長期編年説:舶載と仿製の区切りは西晋や楽浪・帯方郡の滅亡期(310年代)前後であり(舶載は50年間前後)、仿製の製作は4世紀代とする

④古墳の編年

三角縁神獣鏡は日本で600面近くが出土しているため、編年に実年代が与えられれば、副葬されていた古墳の実年代も推定できます。三角縁神獣鏡を研究する価値はそこにあると思います。

三角縁神獣鏡は、紐に鋳バリが残っている、銘文が不完全である、デザインも粗いといった特徴から、墳墓に副葬するための鏡として製作されたものが多いと考えられます(2023/5/26note第2章参照)。そのため、製作から副葬までの期間(タイムラグ)は、中国鏡に比べて小さい(製作年代と副葬年代が近い)ことが想定されます。

岩本さんが以下のように「(三角縁神獣鏡は)製作から副葬に至るまでがスムーズに進行した」と述べているのも、このことを指すと僕は理解しました。

▶三角縁神獣鏡の古墳における共伴関係のまとまりの強さは、製作から副葬に至るまでがスムーズに進行したことを物語る
▶これにたいし、倭鏡やとくに中国鏡では「伝世・長期保有」が目立つ
▶同じ古墳に副葬された銅鏡でも、古墳の築造時期に近接するのは三角縁神獣鏡の年代であることが多い

『三角縁神獣鏡と古墳時代の社会』(2020年)

製作段階が明確な三角縁神獣鏡が5面以上出土した古墳を、最も新しい製作段階の三角縁神獣鏡で分類すると、下表のようになります。

※ただし、製作段階が不明確な三角縁神獣鏡(破片)もあり、最も新しい製作段階の鏡が明確にはわからない古墳もあると思います(例えば桜井茶臼山など)。

三角縁神獣鏡で分類できる、墳長200m以上の巨大前方後円墳は桜井茶臼山のみになります。陵墓の発掘調査が望まれます。

桜井茶臼山古墳の後円部から望む箸墓古墳(2024/10/21撮影)

⑤受注生産

三角縁神獣鏡が中国、朝鮮半島での出土がないことについて、中国鏡説では倭国に向けた「特鋳」だったからだという説明がされています。

この点について岩本さんは、三角縁神獣鏡の発注主体はヤマト王権であり、ヤマト王権からの発注を受けての「受注」生産だったのではないかと述べます。僕もこの点については賛成です(ただし僕は三角縁神獣鏡は国産鏡とします)。

▶三角縁神獣鏡を「特鋳」した発注主体は魏晋王朝であったのか、倭王権であったのか
▶三角縁神獣鏡の生産量の変化は倭社会の動向を鋭敏に反映している可能性が高い。とすれば、定型・量産期以降の発注主体が倭王権であった可能性はあながち否定できず、むしろ少なくとも倭の具体的な要望に対応した生産がなされたと考えるべきあり方を示す
▶先行研究ではその生産状況を「特鋳」と形容してきたが、倭王権の需要にたいする適応性の高さを重視すれば、定型・量産期以降は「受注」生産に近い体制によって製作が実現されていた可能性をも想定できよう

『三角縁神獣鏡と古墳時代の社会』(2020年)

岩本説への疑問

岩本さんの説は難関ですが、書籍や論文を読み、僕なりに反論のメドが立ちました。もちろん、岩本さんの長年の研究に対し、僕が数ヶ月の勉強で反論できるはずはなく、反論というよりは、岩本さんの説に対する疑問になります(岩本さんの説が必ずしも正しいわけではないのではないか)。

現在のところ、三角縁神獣鏡に関する僕の説(三角縁神獣鏡は国産鏡であり、240年代には出現していない)を修正する必要はないと考えています。まず、岩本説への疑問6点を説明します。

疑問❶外交関係は266年で断絶した

岩本説に限らないのですが、僕は3世紀第4四半期以降の三角縁神獣鏡が中国鏡ということはありえないと考えています。なぜなら、倭国からの遣使は266年(泰始2年)の台与の遣使を最後に途絶えたからです。

三角縁神獣鏡=中国鏡説は、三角縁神獣鏡は外交交渉によって、中国から倭国に贈られた鏡だとするところから始まっています。卑弥呼の239年の遣使に伴う「銅鏡百枚」が契機とされます(三角縁神獣鏡は既に600面以上が出土していますが、中国鏡説ではその後の243年・247年などの遣使のたびに鏡が贈られたと考えられています)。

266年で外交関係が断絶したにもかかわらず、三角縁神獣鏡を中国から入手したとするのは矛盾しているのではないでしょうか。仮に初期の三角縁神獣鏡が中国鏡=魏鏡だったとしても、西晋鏡が日本に贈られることはなかったと思います(西晋の成立は265年)。

三角縁神獣鏡は、以前は、舶載が中国鏡、仿製が国産鏡とされていました。しかし、3次元計測に伴う観察によって、舶載と仿製の三角縁神獣鏡で鋳型の傷の痕跡が共通する(同じ鋳型を使った)ものがあることが明確になり、舶載と仿製の三角縁神獣鏡は、すべて中国鏡か、すべて国産鏡という説が提示されています(清水康二「「舶載」三角縁神獣鏡と「佑製」三角縁神獣鏡との境界」(考古學論攷、橿考研紀要、2015))。僕のように3世紀第4四半期以降は国産鏡でしかありえないと考えるならば、初期の三角縁神獣鏡も国産鏡ということになります。

※清水康二[やすじ]さん(橿考研)は上記論文で、すべてが国産鏡という可能性はないと述べています。その根拠は(上記論文からは)不明です。
※なお、岩本さんは「三角縁神獣鏡の生産は、政権間の交渉の結果であるのか」は今後の課題としていて、外交交渉の結果ではないとする余地を残しているようです。しかし、考古学によって、三角縁神獣鏡の生産が外交交渉の結果かどうかを解明することは難しいのではないかと思います。

(反論❶)遣使は266年で途絶えていない?

僕の疑問に対し、以下のような反論が想定されます。

晋書武帝紀には、276年(咸寧[かんねい]2年)以降、「東夷」の帰属や遣使が記述されています(リンク先の維基文庫で「東夷」で検索してみてください)。確かに、この「東夷」には倭国を含むのではないかという考え方があるかもしれません。しかし、この「東夷」は国としてまとまっていなかった朝鮮半島南部(馬韓・辰韓・弁韓)の国々だと考えるのが自然です。

古墳前期前葉には九州北部の楽浪系土器の出土が激減することも、中国との外交関係が3世紀第4四半期には断絶したことを物語ります。

(補足❶)なぜ外交関係は断絶したのか

ところで、倭国はなぜ266年を最後に中国の歴史書からいったん姿を消したのでしょうか。僕が知るかぎり、専門家からは目立った説が出されていないように見受けられます。

西晋成立直後の3世紀第4四半期は、西晋が安定した時代です。倭国からの交通経路が遮断されたとは考えられません。政権が混乱しはじめる八王の乱は290年前後からですし、蝗害[こうがい=イナゴによる大被害=大蝗]の発生は310年(永嘉四年)5月、高句麗の侵攻が激化し、楽浪・帯方郡が滅亡したのは313年です。

※帯方郡滅亡の年(313年か、314年か)や主体(高句麗単独か、韓などとの協力によるものか)、そもそも帯方郡は消滅したのか、などについては中国の歴史書に明確な根拠が見出せません。僕のnoteではわかりやすく「高句麗によって(楽浪郡と同じ)313年に滅亡」とします。

僕の想像ですが、倭国と中国との外交関係が断絶したのは、西晋において倭国のプレゼンス(存在価値)が下がったからだと思います。倭国は西晋から御用済みにされたのです。

卑弥呼による239年の遣使は、公孫氏を滅ぼした司馬懿[しば・い]の功績です。古代中国では、使いを送ってくる国が遠ければ遠いほど、大国であれば大国であるほど、皇帝の徳が高いとされていました。西晋の創業者である司馬懿を讃えるため、倭国は「遠い南の大国」に脚色され(2024/3/8note参照)、実際にも「親魏倭王」「銅鏡百枚」など破格の待遇を受けました。

しかし、西晋が成立し、皇帝も孫の司馬炎(武帝)の代になり、倭国のプレゼンスが低下したのは時代の流れだったと思います。魏にとっては、倭国からの遣使のたびに特別待遇するのも重荷だったでしょう。

武帝は中国統一しか頭になく(呉の滅亡=中国統一は280年)、266年の倭国からの遣使では「もう来るに及ばず」ということになったのではないでしょうか。脚色された倭国は魏志倭人伝(280年代に成立)の中だけに記録されたのだと思います。

疑問❷流入ルートが別々なのは不自然

岩本説への疑問に戻ります。

仮に三角縁神獣鏡が中国鏡だとした場合、三角縁神獣鏡と魏晋鏡は倭国への流入ルートが異なることになってしまいます。岩本さんは両者が華北の同じ工房でつくられたと考えていますが、流入ルートが異なるのは不自然です。

❶で述べたように、仮に三角縁神獣鏡が中国鏡だとしたら、倭国には遣使のたびに楽浪・帯方郡を経て持ち込まれたと考えられます。楽浪・帯方郡で目録がつくられ、九州上陸時に目録どおりに届いているかどうか検査が行われたでしょう。

※三角縁神獣鏡は朝鮮半島でも出土しないので、上記は仮に三角縁神獣鏡が中国鏡だとした場合の想定です。

魏晋鏡は楽浪・帯方郡での出土がありません(三韓で2面出土しています)。華北から直接、倭国に持ち込まれた可能性が高いです。鏡の研究者である森下章司[しょうじ]さん(大手前大学)と馬渕一輝[かずき]さん(黒川古文化研究所)は以下のように述べています。

▶魏晋鏡は、楽浪では今のところ一面も出ておりません
▶どのような経路なのかよくわかりませんが、どうも三世紀初めまでの徐州系<の鏡>を中心とした流通<徐州→楽浪→倭国>とは違うルートがあったのではないかと考えられます

森下章司「銅鏡からみた邪馬台国時代の倭と中国」(『纏向発見と邪馬台国の全貌』
(角川文化振興財団、2016年=2015年福岡シンポジウム講演))

▶<画文帯神獣鏡など>後漢鏡は楽浪と倭の出土鏡に共通点が多い
▶一方で魏晋鏡は楽浪でほとんど出土しておらず、倭は朝鮮半島を経ずに中国大陸から直接魏晋鏡を入手するようになったとみられる
▶魏晋代、渤海沿岸の幽州(現在の河北省・ 遼寧省・北京市・天津市)をめぐる状況は安定に向かっていたことに注目できる
▶現在の北京市には…洛陽や長安などの中原[ちゅうげん]地域から多くの人や物がもたらされたことで、3世紀後半には東夷世界への窓口の機能が楽浪から幽州へ移転していたと推測する

馬渕一輝「漢・三国・西晋鏡の流入経路」(古文化研究、2025年)

日本列島での鏡の分布先は、三角縁神獣鏡も魏晋鏡も近畿を中心に全国に広がります。魏晋鏡は九州、山陰が多いと言われることがありますが、上位5府県(奈良、京都、福岡、兵庫、大阪)は共通していて、うち4府県は近畿であり、やはり近畿中心と考えていいと思います。

辻田淳一郎さん(九州大学)も古墳前期の鏡の流通を以下のように整理しています。

①ほぼ全ての鏡式・鏡種において、近畿地域が分布の中心となる
▶②大型・超大型の中国鏡・和製鏡は近畿周辺に集中的に分布する
▶③逆に三角縁神獣鏡と小型の中国鏡・和製鏡は近畿からの遠隔地まで広く分布する…

辻田淳一郎『鏡の古代史』(角川選書、2019年)

※辻田さんは、古墳時代の鏡を大きく「中国鏡」「倭製鏡」「三角縁神獣鏡」に分けます。舶載三角縁神獣鏡の製作地は楽浪・帯方郡域、その後、工人が渡来し、仿製鏡は国産とします。
※魏晋鏡は62%が小型鏡(面径14㎝以下)です。
※なお、僕は三角縁神獣鏡の配布・副葬が本格化する年代を古墳前期ととらえ、実年代では4世紀とします。

僕は、三角縁神獣鏡と魏晋鏡は、ヤマト王権が同盟の証として、同じ目的で利用したと考えています。ただ、魏晋鏡は小型鏡が6割を占めますので、大型鏡である三角縁神獣鏡に比べて格下だった可能性はあります(出土古墳の墳長等を比較したら、より明らかになるかもしれません)。

三角縁神獣鏡と魏晋鏡が共伴する古墳も、大阪府安満[あま]宮山古墳、京都府椿井[つばい]大塚山古墳、福岡県老司[ろうじ]古墳など、11古墳あります(②魏晋鏡の編年と実年代に掲載した「魏晋鏡一覧」参照)。

下図は三角縁神獣鏡と魏晋鏡の分布図です(全段階の合計)。

※棒の高さは面数ですが、三角縁神獣鏡と魏晋鏡では高さの比率が異なることに注意してください(魏晋鏡が多いわけではありません)。

つまり、仮に三角縁神獣鏡が中国鏡だとすると、流入から配布まで以下のようなことになります。

  • 倭国からの使節は、華北の同じ工房でつくられたとされる鏡のうち、三角縁神獣鏡は楽浪・帯方郡で、魏晋鏡は華北の工房で別々に受け取っていた

  • 受け取った三角縁神獣鏡と魏晋鏡は、どちらも近畿に集約され、近畿を中心に全国に配布された

どちらも近畿に集約され、全国の同じような地域に配布されていながら、別々のルートで流入したというのは、僕は不自然だと思います。三角縁神獣鏡が中国鏡だと考えているところに矛盾があるのではないでしょうか。

(反論❷)華北で直接受け取っていた?

三角縁神獣鏡は初期のものだけが楽浪・帯方郡経由であり、その後は華北(≒幽州)の工房から直接受け取っていた可能性があるでしょうか。

馬渕さんは「東夷への窓口が幽州に移転していた」と推測しています。しかし、中国の歴史書にそのような記述はありません。三国志韓伝は「韓・倭は帯方に帰属した」と記述しており、移転したのであればその新しい事実は歴史書に残されたはずです。少なくとも、高句麗侵攻による313年の滅亡まで楽浪・帯方郡は存続しており、倭国以外の東夷の窓口としては機能していたと考えられます。

もう1つの可能性として、三角縁神獣鏡は「銅鏡百枚」とは別の鏡だという考え方もあるかもしれません。三角縁神獣鏡は、④古墳の編年で述べたとおり、副葬用の鏡≒下位の鏡だと考えられるからです(2023/5/26note第2章参照)。

ただ、三角縁神獣鏡は生産面数が他の鏡に比べて多いです。販売先がなくて生産在庫が過剰になれば、工房は立ち行かなくなります。工房は三角縁神獣鏡の全量引き取りの保証を国に求めたはずです。仮に三角縁神獣鏡が中国鏡だとすれば、国の機関である楽浪・帯方郡を通さずに倭国と直接交渉することは考えにくいです。

疑問❸鳥像は同じ変化をたどらない

繰り返しですが、岩本さんは以下のように述べます。

(再掲)
▶<三角縁神獣鏡と魏晋鏡に>同一の単位文様<鳥像・唐草文>が共有され、かつ変遷の方向性を同じくするとみられる点からは、時期的な併行関係だけでなく、その製作地<三角縁神獣鏡と魏晋鏡の製作地>が長期にわたって同一であった可能性がうかがわれる
三角縁神獣鏡に魏晋代の華北系鏡群と共通する単位文様が長期にわたって存在し、両者の変遷がほぼパラレルに進行する可能性が高いことを確認した

『三角縁神獣鏡と古墳時代の社会』(2020年)

③三角縁神獣鏡と魏晋鏡の併行関係で述べたとおり、簡単に言うと、三角縁神獣鏡と魏晋鏡の鳥像・唐草文が同じ変化をたどる、というのが岩本説の最も重要なポイントです。しかし、僕は岩本説に疑問を抱いています。

単位文様が同じように変化したことを、岩本さんは書籍で以下のように文章で説明しています。

(唐草文)
▶B1式(44・45・90鏡)は円圏規矩鏡(ロイヤルオンタリオ博物館蔵)、
▶A3式(201鏡)は景元四年銘円圏規矩鏡や唐草文鏡(兵庫県城の山古墳)、
▶B3式(93鏡)は唐草文鏡(兵庫県宮山古墳群)、
▶B5式(205・225・232鏡)は鳥文鏡(河北省東道元村)、
▶A6式(234・235・236鏡)は唐草文鏡(陝西省咸陽師院附中西晋墓)、
▶A7式(245・246・249・250・253・255鏡)は唐草文鏡(鳥取県横枕73号墳)と共通する唐草文を採用する
(鳥像)
▶D7式(205鏡)は鳥文鏡(河北省東道元村)とまったくといってよいほど同じ表現である

『三角縁神獣鏡と古墳時代の社会』(2020年)

太字は出典書籍に文様の図が掲載されているもの(下図参照)
※三角縁神獣鏡の番号は『三角縁神獣鏡目録』(京大)

ところが、上記の文章には文様の図が添えられていないので、ほんとうに同じ変化をたどっているのかどうかが確認できません。しかも、文章で紹介されている25面中、11面は書籍に文様の図が掲載されていません。これはとても不親切です。

僕が書籍から文様の図を見つけて、製作段階別に対応がわかるように並べたのが下図です。変化が同じように対応しているかどうかを、○△✕で判定しました。

  • ○印:よく対応しているもの

  • △印:ほぼ対応が認められるもの

  • ✕印:対応が認められないもの

上図のように並べてみると、確かに唐草文は6文様(B1・A3・B3・B5・A6・A7式)でほぼ対応しています(文章のとおり)。しかし、鳥像では1文様(D7式)しか対応関係は認められません。岩本さんはD7式(205鏡と東道元村鏡)は「まったくといってよいほど同じ表現」と述べますが、僕は同じ表現には見えません。みなさんはご覧になっていかがでしょうか。

問題点は3つあります。

1つ目は唐草文は単純だということです。ここに挙げた6文様がよく対応しているとしても、単純な文様は偶然、似たような文様になった可能性を否定できません。森下章司さん(大手前大学)は、古墳時代の倭製鏡についてですが、以下のように述べています。

単純な紋様のものは、異なる条件下でも偶然似たような製品ができる
▶紋様全体の類似性はかならずしも製作年代や工人の近さを示すとは限らない

森下章司「第6章 古墳時代倭鏡」
(『考古資料大観 第5巻 弥生・古墳時代 鏡』(小学館、2002))

2つ目は、上図のとおり、鳥像はほとんど対応していないことです。実は、岩本さんも鳥像について書籍では以下のように述べ、「限界がある」と認めています。

▶三角縁神獣鏡には細線表現の鳥像をもつ例があり、魏晋代の華北系鏡群との併行関係を想定する材料としうる
▶ただし、唐草文とは異なって、三角縁神獣鏡と華北系鏡群の鳥像には表現の違いが少なからずあり、その併行関係は大まかにとらえておく必要がある
▶むろんその違いは、三角縁神獣鏡ではこれらの単位文様が主像として用いられないために、施文スペースが相対的に狭くなっていることに起因していると考えられるが、いずれにしてもそれゆえに細かな併行関係を鳥像によって決定することには限界がある

『三角縁神獣鏡と古墳時代の社会』(2020年)

ところが、岩本さんはシンポジウムのパネルディスカッションでは、以下のように述べています(YouTubeの3:24:50~)。

▶鳥の文様とか唐草の文様に注目しましたけども、唐草の文様は単純なので難しいですけども、鳥の文様はそれなりに複雑な文様なので、それがやはり同じ変化をたどっていくっていうのは、やはり同じ場所で、近いところでつくられていたと考えるほうが素直かなと考えられると思います
▶そういう意味では、一貫して中国でつくられていたというふうに考えていいのかなと思います

パネルディスカッションでの岩本崇氏コメント(2025/9/27)

「そんなのウソだろー」と僕は言いたいです。どうして、書籍では「鳥像によって決定することには限界がある」と述べていながら、パネルディスカッションでは「鳥の文様…がやはり同じ変化をたどっていく」と述べているのでしょうか。受講者をミスリードしていると思います。

※2020年の書籍の出版以降、新たに鳥像でも対応関係が明らかになったのでしょうか。そうであれば、それを示してほしいです。

3つ目は、対応関係が明確な面数も少ないことです。唐草文は6文様で三角縁神獣鏡16面・魏晋鏡7面、鳥像は1文様で三角縁神獣鏡1面・魏晋鏡1面を挙げています。三角縁神獣鏡600面弱・魏晋鏡133面のうち、両者が対応するのはこれだけしかありません。特に三角縁神獣鏡の唐草文に対応する魏晋鏡は、各段階1面ずつしかなく、偶然の類似を否定できないと思います。

福永さんも「わずかではあるが」とは認めています。

(再掲)
▶舶載三角縁神獣鏡は…他形式の中国鏡とわずかではあるが、しかし重要なつながりが継続的にたどれる

福永伸哉「舶載三角縁神獣鏡の製作年代」(待兼山論叢、1996年)

僕の結論は、そもそも岩本説の根拠となった、三角縁神獣鏡と魏晋鏡の鳥像・唐草文が同じ変化をたどる、という事実は疑わしいということです。

書籍も論文も対応関係がわかる図がなく、不親切である以上に、書籍の編集者、論文の査読者、濱田青陵賞の審査委員は、岩本説が正しいことをしっかり検証できたのか疑問です。最も重要な点でありながら、図がなくてわからない(わかりにくい)ということを指摘しなかったのでしょうか。

疑問❹日本列島から「隔絶」とは?

岩本さんは三角縁神獣鏡が中国鏡である根拠として、以下のように2つの製作動向も挙げています。キーワードは「(日本列島からの)隔絶性」です。ただ、僕は岩本さんの言っていることがよくわかりません。

「隔絶性」の1つ目

▶三角縁神獣鏡が魏晋鏡の系譜につらなり、「仿製」第3段階までの製作諸段階において中国出土鏡と関連性があるとする立場からは、安定期<第3段階>以降にうかがわれる集約的ながらも断続的な生産状況についても、都度の「特鋳」のような製作と説明するのが整合的である
▶むしろ、いわゆる「特鋳」的な生産以外の要因で集約的かつ断続的な生産を説明することは難しい
▶このことからも三角縁神獣鏡の場合、製作の場が日本列島と隔絶した条件を想定した方が生産の実態とは矛盾しない

『三角縁神獣鏡と古墳時代の社会』(2020年)

岩本さんは、三角縁神獣鏡の第3段階(安定期)では、「集約的」ながらも「断続的」な生産が行われたとします。岩本さんの「断続的」「集約的」の説明がよくわからないのですが、僕は以下のように理解しました。

  • 第2段階は面数の43%を占め、多様な様式が10年間で大量生産された

  • それに対し、第3段階は少ない様式が、短期間ずつ、断続的に(途切れ途切れに)、集約的に(まとまって)生産された

  • そのような(第3段階以降の)生産は、ヤマト王権からの「特鋳」だったからだと考えられる

ここまでは僕なりに何とか理解したのですが、そのような集約的・断続的な特鋳生産は、どうして日本列島から隔絶しているほうが矛盾しないのでしょうか。「集約的・断続的な特鋳生産」と「中国産か国産か」がどのように関係しているのかがわかりません(関係ないような気がします)。

「隔絶性」の2つ目

▶「仿製」三角縁神獣鏡の製作が始動した時期には、古墳時代倭鏡生産が軌道にのり、多彩な系列が展開していた状況を確実視できる点も重要である
▶「仿製」三角縁神獣鏡の製作は…実際の時間幅の割にはその生産は低調となる。それは、古墳時代倭鏡生産の活性化とは対照的なあり方である
▶生産量が少ないにもかかわらず、集約的な量産が「仿製」三角縁神獣鏡に想定されるのは矛盾があるようにみえるが、それだけに量産が可能ながらも生産量を確保できない特殊な状況や背景が存在した可能性を考慮すべきであろう
▶こうした製作状況は、「仿製」三角縁神獣鏡生産と古墳時代倭鏡生産との隔絶性をうかがわせる。もし集約的な生産が日本列島でなされていたのであれば、「仿製」三角縁神獣鏡の生産量が低下することこそが矛盾した現象といえるのである

同上

この説明もわかりにくいです。岩本さんは、倭製鏡の生産は活発だったのに、「仿製」三角縁神獣鏡の生産が低調だったのは、両者の生産が別々の場所で行われていたからだと言いたいようです。

しかし、③三角縁神獣鏡と魏晋鏡の併行関係で述べたとおり、三角縁神獣鏡は第2段階の面数が43%を占めるのに対し、魏晋鏡は第5・第6段階で51%を占めます。

日本列島で倭製鏡が活発な時期に「仿製」三角縁神獣鏡が低調なことが(どちらも国産だとすると)矛盾していると言うのであれば、中国で舶載三角縁神獣鏡が低調になった時期に魏晋鏡が活発になることも矛盾と言わなければなりません。2つ目の「隔絶性」は、岩本さんの説明に整合性がないと思います。

ただ、【疑問❹】については僕の理解が不足しているかもしれません。もっとわかりやすく説明してほしいところです。

疑問❺簡略化による編年は正しいか

岩本さんは魏晋鏡の製作を9段階に区分します。その前後関係は「簡略化」を基準としています。文様が簡略化の方向で変化したことに根拠はあるのでしょうか。魏晋代は全体的に鏡の生産が退化したとされていますが、年代が明らかな他の鏡種で、70年以上にわたり、簡略化の方向で変化したことが確認できる事例があるのでしょうか。

※僕は様式学を学んだことがないのですが、様式学ではどのように変化の方向を判断しているのでしょうか。

例えば、上野祥史[よしふみ]さん(歴博)による画文帯神獣鏡の編年(環状乳式→同向式・対置式→対置式などの模倣)は、それぞれの段階に紀年銘鏡があることを根拠にしていて、わかりやすいです。

岩本さんは「簡略化」を基準としますが、現代の例で、僕は1966~74年のウルトラマンシリーズ(ウルトラマン→ウルトラセブン→帰ってきたウルトラマン(ウルトラマンジャック)→ウルトラマンエース→ウルトラマンタロウ)(リンク先は電ホビ)をずっと観ていて、ウルトラ兄弟はだんだん複雑(派手)になっていくなぁと思っていました。

森下さんは、以下のように述べています。森下さんは古墳時代の倭製鏡について述べていますが、魏晋鏡ではどうなのでしょうか。

▶古墳時代倭鏡の変遷全体を一律の退化としてとらえるのは間違いである
▶紋様の精粗や変形の度合いから鏡の時期を考えることはできない

森下章司「第6章 古墳時代倭鏡」
(『考古資料大観 第5巻 弥生・古墳時代 鏡』(小学館、2002)

魏晋鏡の場合、紀年銘鏡は青龍三年(235年)と景元四年(263年)です。その間の編年が正しいかどうかはわかりません。

仮に「簡略化」が正しいとした場合、次に、岩本さんの編年(様式の前後関係)には再現性はあるでしょうか。

下図は、岩本さんによる魏晋鏡の鳥像A系と玄武像A系の区分です。僕は試しに、これらの1つひとつのデザインをバラバラにして、自分で簡略化と思う方向に並べてみました。みなさんもやってみてください。

その結果、ビックリしたのですが、僕の並べた順番は岩本さんとほとんど同じでした。意外に再現性があるのかなと思いました。ただし、僕は鳥像の向野田[むこうのだ](A3式)をA4式の位置にし、玄武像の椿井大塚山(A2式)をA4式にしました。

※ちなみに、熊本県向野田古墳は人骨が残っていて、被葬者が女性と判明した古墳です。向野田以外にも、副葬品などの分析によって、弥生・古墳時代には女性の首長が少なくなかった(3~5割いた)ことがわかっています。

向野田の鳥像はA2でも納得できますが、椿井大塚山の玄武像は、僕はA2より簡略化されていると思います(もし岩本さんが編年をブラインドで(古墳名を隠して)判断していなかったとしたら、椿井大塚山が初期の前方後円墳であるという先入観に引きずられた可能性があるのではないでしょうか)。

実際、岩本さんは2019年の例会資料と2020年の書籍で、方格規矩鏡の鳥像A7系の製作段階は第8段階から第7段階に修正しています。唐草文鏡のB5系はC5系に修正しています(②魏晋鏡の編年と実年代に掲載した「魏晋鏡一覧」の赤字が修正・追加個所です)。文様の区分、前後関係の判断は再現性にも疑問が生じます。でもそれを言い出したら、考古学の様式学は成り立たないかもしれません。

疑問❻第3段階は激減期(在庫調整期)

岩本さんへの疑問の最後は面数の推移についてです(これは三角縁神獣鏡の製作地や実年代とは関係ありません)。

岩本さんは第2段階を「定型・量産期」、第3段階を「安定期」と呼んでいます。モノは言いようです。僕は第3段階は「激減期」または「在庫調整期」と呼ぶべきだと思います。第2段階の226面に対し、第3段階は67面(7割減)です。売上が7割も減ったら、企業であれば倒産です。

僕は、三角縁神獣鏡はヤマト王権が需要を見通して発注し、工房が受注生産したという考え方には賛成です(国産鏡であっても)。④古墳の編年で述べたとおり、三角縁神獣鏡は副葬用の鏡として製作されたものが多いと考えられます。しかし、第2段階から第3段階にかけて、死んだ首長が7割も減るわけはありません。この製作動向は倭国での需要を反映していません。

簡単に言うと、ヤマト王権は第2段階の発注見通しを大幅に間違えたわけです。もっと同盟関係が広がると、過度に期待していたのかもしれません。

福永さんは、2023年9月に桜井茶臼山の鏡の大量副葬が改めて明らかになったことについて、以下のようにコメントしています。

▶桜井茶臼山古墳は権威の次元が違う、異次元の権力者である
▶従来は、初期のヤマト政権は豪族連合のイメージだったが、ヤマト政権は当初から図抜けた存在だったといっていいのではないか

朝日新聞記者サロンでの福永信哉氏コメント(2024/3/5)

僕は違う見方をしています。第2・第3段階の黒塚、椿井大塚山、桜井茶臼山に三角縁神獣鏡の大量副葬があるのは、手元の過剰在庫を一斉廃棄したためだと思います。権力の証とは関係ないのではないでしょうか。

大量副葬が権力の証なのであれば、第4段階以降に早くも大量副葬がなくなることや、生産面数が激減することが説明できません。第2段階はバブル期であり、第3段階は在庫調整局面だったというのが実態だと思います。三角縁神獣鏡の受け取りは外交交渉によるものだったため、発注を止めるわけにもいかなかったのです。

三角縁神獣鏡は240年代に出現していない

ホケノ山に三角縁神獣鏡はない

岩本説からは離れて、これまでnoteで何度も繰り返してきたことですが、僕が三角縁神獣鏡が240年代には出現していないと考える根拠を改めて紹介します(2025/8/6note参照)。

  • 奈良県ホケノ山古墳には、画文帯神獣鏡の破鏡(B鏡)が副葬されていた

  • ホケノ山B鏡は上野祥史氏によって、銘文や外区の文様などから、中国で230~250年製作と推定された(上野祥史「ホケノ山古墳と画文帯神獣鏡」(橿考研『ホケノ山古墳の研究』、2008年))

  • 僕は、ホケノ山B鏡の製作から副葬までの期間(タイムラグ)を考えると、ホケノ山の年代は3世紀第3四半期以降(250年以降)と考える

  • ホケノ山には三角縁神獣鏡の副葬はない。ホケノ山の年代に三角縁神獣鏡は出現していなかったことを示す

  • よって、三角縁神獣鏡が240年代に出現していたとは考えられない

ちなみに、福永さんは以下のように述べています。

▶240年代に邪馬台国政権が入手した鏡<三角縁神獣鏡>を配布し、それが配布先で副葬にいたるまでの期間を見込んだ年代を考えると、安満宮山古墳の築造が250年をさかのぼる可能性は少ない
※安満宮山古墳の最も新しい三角縁神獣鏡は、福永編年の編年B=240年代

福永信哉『三角縁神獣鏡の研究』(大阪大学出版会、2005年)

Qホケノ山古墳から三角縁神獣鏡が出土しないのはなぜか?
福永:ホケノ山古墳は三角縁神獣鏡が出現する直前の墳墓だから。景初三年(239年)の年号が三角縁神獣鏡にはある。ホケノ山古墳の築造は240年より前になる

朝日新聞記者サロンでの福永信哉氏コメント(2024/3/5)

240年代につくられた鏡(安満宮山の三角縁神獣鏡(編年B))が副葬された古墳(安満宮山)が250年をさかのぼる可能性は少ないのと同じように、230~250年につくられた鏡(ホケノ山B鏡)が副葬された古墳(ホケノ山)は240年をさかのぼることもありません。福永さんがホケノ山は240年より前の古墳だと述べているのは矛盾していると思います。

ちなみに、僕はホケノ山の年代は、炭素14年代から270年前後だと推定しています。これはホケノ山B鏡の製作年代と矛盾しません。ですから、三角縁神獣鏡の出現年代は3世紀第4四半期以降と考えられます。

(補足)3世紀第4四半期に工人が渡来

僕は、三角縁神獣鏡はプレヤマト王権のもと、渡来した魏や西晋の工人によって、3世紀第4四半期以降に倭国内(近畿)でつくられ、4世紀に配布された鏡だと考えています。工人が渡来したのは、それだけ日本列島での需要が見込めたからだと思います。呉の滅亡(265年)によって、呉の工人も渡来して共同で製作した可能性も高いです(神獣鏡の系譜)。

※プレヤマト王権(ヤマト王権の前段階)は、魏志倭人伝の邪馬台国と考えていいと思います(2024/12/18note2025/6/24note参照)。

渡来した工人たちは卑弥呼の遣使を記憶していたので、景初三年(卑弥呼が遣使した年)、正始元年(魏からの遣使があった年)の紀年銘鏡もつくって、中国鏡に見せかけたのだと思います。三角縁神獣鏡はヤマト王権によって中国鏡であるかのように偽装された鏡なのではないでしょうか。紀年銘鏡が景初三年・正始元年に集中しているのは不自然すぎます。

魏晋鏡と三角縁神獣鏡には、岩本さんや福永さんが想定するような併行関係はなかったと考えられます。

3世紀第4四半期以降に渡来した工人は、魏晋鏡の第3四半期(第1~第4段階)までの文様は知っていたのですから、それを三角縁神獣鏡に表現することはできたはずです。福永さんは工人の行き来を想定しなければならないと述べますが、そもそも魏晋鏡と三角縁神獣鏡の第2段階同士、第3段階同士…は同年代ではないのですから、工人が行き来する必要はありません。

(反論)ホケノ山の年代に出現していた?

僕の説に対する反論として、三角縁神獣鏡はホケノ山に副葬されなかっただけで、ホケノ山の年代までに出現していたはずだという反論があるかもしれませんが、説得力がありません。三角縁神獣鏡は権力の証なのに、第1段階の紀年銘鏡は、島根県神原神社古墳や群馬県蟹沢古墳に副葬されながら、ホケノ山には副葬されなかったなどということはありえないと思います。

岩本説への疑問まとめ

この記事の要旨(岩本説への疑問と僕の説の根拠)は以下のとおりです。疑問❸が最も大きな問題点になります。

疑問❶:倭国からの遣使は266年で途絶えた。3世紀第4四半期以降の三角縁神獣鏡は国産鏡としか考えられない。舶載鏡と仿製鏡は連続していると考えられ、すべてが国産鏡である

疑問❷:仮に三角縁神獣鏡が中国鏡だとすると、流入ルートが、三角縁神獣鏡は楽浪・帯方郡、魏晋鏡は華北(≒幽州)という不自然なことになってしまう

疑問❸:そもそも三角縁神獣鏡と魏晋鏡の鳥像は同じ変化をたどらない。唐草文は同じ変化をしているようにも見えるが、面数は少なく、文様は単純であり偶然を否定できない。併行関係は疑わしい

疑問❹:三角縁神獣鏡の集約的・断続的な生産は日本列島から隔絶した場所だと考えるほうが矛盾しないという説明(理由)がよくわからない

疑問➎:簡略化を基準とした前後関係は再現性がないのではないか

疑問❻:第2段階はバブル期、第3段階は安定期というよりは在庫調整期であり、大量副葬は権力の証というよりは過剰在庫の廃棄というのが実態ではないか

根拠:ホケノ山は270年前後と推定でき、その年代には三角縁神獣鏡は出現していなかったと考えられる

繰り返しですが、僕は三角縁神獣鏡について以下のように考えています。

  • すべて国産鏡。ヤマト王権のもと(近畿)で製作された

  • 渡来した魏や西晋の工人によって、3世紀第4四半期以降に製作された。呉の工人も渡来し、共同製作した可能性も高い(神獣鏡の系譜)

  • ヤマト王権は三角縁神獣鏡が中国鏡であるかのように偽装して、同盟関係を結んだ首長に配布した

  • 紐の鋳バリが残り、銘文は不完全で、デザインも粗い下位の鏡

  • 用途はほとんどが墳墓での副葬用

僕なりに岩本さんへの反論を試みました。

魏晋鏡の例:実物が千葉にもある!

僕は魏晋鏡になじみがありません。これまで博物館で観覧した鏡の中に、魏晋鏡はほとんどありませんでした。

青龍三年銘鏡

青龍三年(235年)銘鏡は3面の同型鏡が知られています。うち2面は観覧しました。

大阪府安満[あま]宮山古墳鏡(トップ写真)は今城塚古代歴史館の所蔵で、常設ではレプリカ展示ですが、実物は企画展(2025/10/18~2026/2/11)で展示されています。

京都府太田南51号墳鏡ふるさとミュージアム丹後(丹後郷土資料館)の所蔵ですが、同館は2027年3月まで休館中で、他館への貸し出しなどがないかぎり、現在は観覧が難しいです。

太田南51号墳鏡は踏み返し鏡との説があります。ただ、僕は中井一夫さん(橿考研)の論文を読みましたが、踏み返し鏡だという根拠がよくわかりませんでした。鏡の研究者が中井さんの論文に言及しているものも、見つけられませんでした。

▶2面の鏡<太田南鏡と安満宮山鏡>には…その製作方法において大きな違いがあることが判明した
▶太田南鏡は安満宮山鏡のように、方格部およびTLV字部と紐座にキサゲ削りが施された鏡を踏み返したもので、キサゲ削りにより生じる3つの痕跡のうち、刃こぼれによる細かな線までは踏み返しでは転写しきれなかったと考えられる
▶太田南鏡はほぼ全面が薄い錆に覆われているため、小さな痕跡が見えなくなっている可能性が充分に考えられる。しかし錆のつきようからしても、また鏡背部における加工痕跡の有り様から見ても、この鏡は踏み返し鏡であると考えられる

中井一夫「「青龍三年」銘方格規矩四神鏡について」(鏡笵研究、橿考研、2005年)

個人蔵鏡はトーハクのテーマ展示「紀年銘鏡と伝世鏡」で展示されています(2025/7/8~2026/7/1)。ただし、撮影禁止です。

安満宮山古墳鏡、太田南51号墳鏡、個人蔵鏡がどのような関係にあるのか(親子関係なのか、兄弟関係なのか)、同笵鏡なのか同型鏡(踏み返し鏡)なのか、原鏡はどこで製作され踏み返しはどこで行われたのかなど、気になります。

ちなみに「青龍三年」銘は、トップ写真では欠けた個所の外側に下から上の向きで書かれています(写真では不鮮明です)。今城塚古代歴史館では太田南51号墳鏡の図面で下図左のように説明されています。鏡の展示の向きが、実物、レプリカ、説明で90度ずつ異なるので、そろえてほしいところです。

安満宮山古墳では、右の写真のように出土状態が復元されています。

ちなみに、トーハクのテーマ展示で鳥取県馬ノ山4号墳出土品が展示された時も、魏晋鏡(方格規矩鏡)は展示されていませんでした。魏晋鏡は注目されることが少ないようです。

※トーハクのHPでは紀年銘鏡や馬ノ山4号墳出土品のテーマ展示は2025年7月までになっていますが、僕は10/3に観覧しました。

景元四年銘鏡

景元四年(263年)銘鏡は五島美術館(世田谷区)の所蔵です。常設展示は行っておらず、2025年10月現在、展示の予定はないとのことです。なお、五島美術館によると、この鏡は中国の考古学者・羅振玉氏の所蔵だったとのことで、中国鏡だと考えられます。

千葉県七廻塚古墳鏡

②魏晋鏡の編年と実年代に掲載した魏晋鏡一覧に、千葉県が2面あります。どちらも出土地は僕の自宅から近いです(僕はときどき3時間ぐらいかけて歩いていきます)。

このうち、七廻塚[ななまわりつか]古墳鏡(千葉市緑区)は千葉市埋蔵文化財調査センターに展示されています。なんと、僕は2021年に訪ねた時に撮影していました。何気なく撮った写真が4年後に日の目を見るとはビックリです。

千葉市埋文では当時は「変形八乳鏡」と題名がついていました。「変形」というのは中国鏡を模倣した国産鏡につけることが多いと思いますが、現在は題名はつけていないそうです。魏晋鏡であることがわかったからでしょうか。

岩本さんは第6段階のA5系と位置づけています(疑問❸の「文様変遷の対応」の図にも掲載しています)。簡略化された唐草文になります。

七廻塚古墳は径54mの円墳で5世紀代とされています(現在は消滅)。280年代に製作され、5世紀代に副葬された鏡が千葉市にあるかと思うと、ちょっと感慨深いです。

※七廻塚の5世紀代の根拠は不明です。

もう1つの草刈24号墳鏡(市原市)は、千葉県文化財課森宮分室(大多喜町)が所蔵しています。展示はしておらず、観覧には申請が必要です。近くで出土しているのに、遠い場所にあるというのが残念です。

千葉市は残っている古墳は少ないのですが、JR外房線鎌取[かまとり]駅の千葉市緑区おゆみ野から市原市ちはら台にかけては、大覚寺山古墳(下の写真左)、草刈古墳群(写真右)がよく整備されています。

七廻塚は大覚寺山に近いと思います。草刈24号墳は草刈古墳群(古墳公園)の中にあります。千葉市埋文も近いので、古代史好きの人にはウォーキングコースとしてお勧めです。

七廻塚や草刈の被葬者は、ヤマト王権と同盟関係を結んだ首長だったのでしょうか。魏晋鏡は博物館であまり展示されないのですが、ヤマト王権の歴史と郷土史を結びつける素材として、もっと注目されるといいですね。

(最終更新2026/7/28)

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