初めての保護猫 第14話(#シロクマ文芸部)
<あらすじ>
妻に先立たれ、やもめ暮らしの75歳の主人公は、買い物帰りに近所の田んぼのあぜ道で、泥だらけになっている猫を『初子』と名付け保護することにした。ところがその猫は妊娠していて、しかも猫エイズキャリアだった。
数日後、5匹の仔猫の出産に立ち会い、仔猫の里親探しをする為、『ポチたま保護の会』主催の里親譲渡会への参加をすることになった。
初子はFIVを発症し、日に日に弱っていく。
ワクチン接種を終えた仔猫たちは、いよいよ譲渡会に参加し、唯一雌の長子がもらわれていくことになった。寂しさを感じていたところへ、長女の美奈子が訪ねてきて、夫、陽介への気持ちを打ち明ける。
美奈子の気持ちが落ち着かない中、陽介が訪ねてきて・・・。
曇り空だった。
思い返せば、美奈子が陽介君を家に連れてきた日も、結婚式当日も、今日のような薄曇りの空が晴れることはなかった。
「雨が降るような天気じゃなくて良かったじゃない」
留袖姿の妻が、笑顔でつぶやいていたのを覚えている。
美奈子の晴れ姿が白く輝いていたから、雨さえ降らなければそれで良いと思っていた。
美奈子の未来が晴れやかであれば……それだけを願っていた。
今日も空は鈍い鉛色で、重たくのしかかっている。
それでも美奈子の気持ちに曇りがなければ、正しい答えが出せるはずだ。だが、見る限り、それは望み薄だった。
「お父さん、久しぶりです」
陽介君がソファから立ち上がり、丁寧に挨拶をした。
「……ああ…久しぶりだね」
ソファの左側に美奈子が座り、向かい合わせに陽介君がいる。
帰って来たばかりで、いきなりこんな状況だ。
どこに座ったらいいのかわからない。美奈子の顔を見ると、かなり緊張していて表情が強ばっている。手元を見つめながら黙って座っている。
自分が留守にしている間に、どういう会話がされていたのか、状況がつかめないまま立ち尽くしてしまった。
「お…お茶でも飲むか――」
やっとの思いで出た言葉だ。そそくさと逃げるようにキッチンへ向かう。
「お父さん、いいから座って」
美奈子に強い語調で呼び戻された。
美奈子の隣の椅子に座り、陽介君と向き合う形になる。
身の置き所がない。
「二人で話し合った方が良いんじゃないか?……その…俺がいない方が、夫婦の問題なんだし……」
それとも、俺がいない間に、すでに結論が出ているのか?
二人の顔を交互にうかがう。表情を読み取ろうと試みるが、元々そんな才能は持ち合わせていない。
しばらく沈黙が続いたが、陽介君が張り詰めた空気を一変させた。
「浮気をしました――、悪かった……だけど、気持ちが他の人に移った訳じゃないんです」
美奈子の表情は変わらない。ただ握りしめた手は、微かに震えている。
陽介君はまっすぐ美奈子の口元を見つめ、美奈子の返事を待っているように見えた。ホテルから見知らぬ女性と出てきた陽介君を見た――美奈子がそう言っていたときは、正直信じたくなかった。でも今、その言葉が真実だったと知って、やはり父親として怒りがこみ上げてくる。
「謝って済むと思っている訳じゃないよな? 美奈子はこの通り、傷ついているんだぞ」
できる限り冷静に話したつもりだったが、自然と拳を握りしめていた。
「俺さ……たぶん逃げていたんだ。家のことも仕事も頑張っていて、隙が無い美奈子を友だちに自慢しながら、どこかで敵わないってあきらめていて……気付いたら必死に完璧さを装うようになっていた。誤魔化して、嘘をついて、いつの間にか限界だった」
陽介君は言葉を選びながらゆっくりと、美奈子の顔を見ながら話し始めた。
「自分が嫌いになっていたんだと思う。そんな時、大学時代の後輩から連絡があって――つい、誘いに乗ってしまって……」
同じような事を美奈子から聞いていた。これって……。
美奈子はハッとしたように目を見開いた。真っすぐ陽介君の顔を見て、
「それ、私も同じだった……」
震える唇で、絞り出すように美奈子が言った。
「…私も……私も、陽介にふさわしい妻になろうと必死だった。陽介のお母さんに気に入られなきゃって思ってたし、陽介の同僚に“いい奥さんだね”って言われたくて……背伸びしていたのかも……」
言葉が途切れる。喉の奥に詰まった感情が、ふさわしい言葉を見つけられないでいるみたいだ。
代わりに陽介君が言葉を続けた。
「逃げちゃいけなかったんだ。ちゃんと美奈子と向き合って、本当の自分をさらけ出す勇気が少しでもあれば、美奈子を傷つけずに済んだはずなのに……」
なんだ、二人ともお互いを想い合いながら、気持ちがすれ違っていただけじゃないか。美奈子は結婚前に陽介君を〝憧れの人“と紹介してくれていた。
結婚して一緒に暮らすようになってからも、変わらず〝憧れの人“であり続けていたんだな。
思い返せば、美奈子は幼い頃から、なんでも自分一人で抱え込んでしまう。そして「大丈夫」と笑っているようなところがあった。周りから心配されることを怖がっているようにも思えていた。
陽介君も同じなのかもしれない。似た者夫婦だったというわけか。
「お父さん、すみませんでした。嫌われるのが怖かったんです……たぶん。美奈子さんを悲しませてしまいました」
陽介君は深々と頭を下げた。
「俺に謝られても……でも、父親としては、やはり簡単に許す気持ちにはなれない。美奈子と向き合うことを避けて、浮気に走るなんて、どうも……やっぱり納得できない」
正直な気持ちを打ち明けて謝罪する陽介君を理解しようとする俺の思いと、悲しい顔で陽介君の言葉を聞いていた美奈子への親としての感情が、胸の中で綯い交ぜになる。
「……でも、まあ、話してくれてよかったよ」
自分でも驚くほど、穏やかな声が出た。
怒りは、もうさっき吐き出してしまったのかもしれない。代わりに、戸惑いの余韻と、ほんのわずかな安心が胸に残っていた。
「親としては美奈子の悲しむ顔は見たくない。だが、長い人生何事もなく穏やかな夫婦関係を続けるのも、難しいことだということはわかっているつもりだ」
確かにそうだ。妻とも些細な行き違いを何度も経験してきた。育児の事では喧嘩もした。憎しみを感じたことだって……あった、と思う。
そうした幾つもの傷を、二人で少しずつ治していくうちに、絆は太く、確かなものに変わっていった。
気づく頃には、お互い、なくてはならない人生の“同志”になっていた。
美奈子と陽介君はまだ若い。昔の俺と妻のように__。
「……陽介、話してくれてありがとう」
美奈子がぽつりと言った。
その声は震えていたけれど、はっきりと前を向いていた。
たぶん__許したわけじゃない。まだ整理がついていない……そう見えた。だけど、美奈子の中で、何かが変わったように思えた。
「……少しだけ、時間がほしいの。ちゃんと、自分の気持ちを考える時間が」
美奈子はようやく顔を上げて、まっすぐ陽介君に視線を合わせた。
「うん。わかった。どれだけでも待つ。待たせてほしい」
陽介君の声にも、美奈子を真っすぐ見つめる気持ちが込められていた。
どこか吹っ切れたような、そんな静かな決意が滲む表情だ。
たとえ何年寄り添っていても、人はちゃんと向き合わなければ、すれ違ってしまう。
夫婦でも、親子でも、それは同じなんだ。
ウニャー ニャンゴー ニャン
隣の猫部屋から仔猫たちの鳴き声が響いてきた。
どうやら昼寝から覚めて、餌の要求が始まったようだ。
ニャーーン ウニャーーーン
「えっ? 猫?」
陽介君が驚いて、猫の声がする隣の部屋のドアへ視線を投げた。
「ああ、そうなんだ。数ヶ月前に猫を保護してね……それで仔猫まで産んでしまって…」
立ち上がろうとした美奈子を制して、
「いいよ、俺が餌を用意するから。しばらく二人で話し合いなさい。そんな時間も必要だよ」
重苦しい空間から解放してくれた、仔猫たちへ感謝の気持ちが湧き上がる。
そそくさとキッチンへ向かい、仔猫たちの餌を手に持って部屋を後にした。
猫たちがいる部屋に入ると、白と斑がすでにドアの前で待ち受けていた。
尾曲と豆男は鳴きながらペットベッドから起き上がるところだった。
「でかしたぞ、チビたち。もっと早く鳴いて呼んでくれても良かったんだぞ」
はーーっと大きく息を吐いた。
猫たちの餌を小皿に分けて置いてやると、待ってましたとばかりに仔猫たちが一斉に顔を突っ込んでいく。
カリカリと心地よい音を立てながら、夢中で食べるその様子に、ようやく緊張の糸がほどけ、ヘナヘナと床に座り込んでしまった。
すると早々に食べ終わった豆男と白が膝に乗ってきた。
そうだった! 肝心な事を思い出した。
囲碁仲間のk氏の娘さんが、子猫を欲しがっているということで、今度見学に来たいという話だったんだ。
「気に入ってもらえると良いな」
思わず白の背中を撫でてみる。産まれたばかりのときは、手のひらの中にすっぽり収まるほど小さかったのに、今では歯も生えて、走り回るようにまでなっている。
子猫たちは、あっという間に成長する。いつまでも手元に置いておけるわけじゃない。
「……ちゃんと、幸せにしてくれる人のところへ行こうな」
そのとき、リビングの方から、かすかな話し声が聞こえた。
陽介の低い声、美奈子の少し鼻にかかった声――互いに遠慮がちな、それでもどこか穏やかなトーンだった。
……きっと、大丈夫。
豆男が膝の上で丸くなる。斑は足元でじゃれついていたおもちゃに飽きて、静かに丸まっていた。
この小さな命たちにも、ちゃんと優しい世界が待っていると信じたい。
俺にできることは、願うことだけだ。
窓の外を見ると、雲の切れ間から温かな日差しが漏れ、部屋の中に柔らかな光が差し込んできた。
