初めての保護猫 第21話(#シロクマ文芸部)
<あらすじ>
妻に先立たれ、やもめ暮らしの75歳の主人公は、買い物帰りに近所の田んぼのあぜ道で、泥だらけになっている猫を『初子』と名付け保護することにした。ところがその猫は妊娠していて、しかも猫エイズキャリアだった。
数日後、5匹の仔猫の出産に立ち会い、仔猫の里親探しをする為、『ポチたま保護の会』主催の里親譲渡会への参加をすることになった。
初子はFIVを発症し、日に日に弱っていく。
保護当初は、面倒ごとのように感じていたが、世話を通じて徐々に情がわいてきた。
ワクチン接種を終えた仔猫たちは、いよいよ譲渡会に参加し、唯一雌の長子がもらわれていくことになった。
その後、囲碁仲間のK氏の娘さんが斑の里親になった。
そして、離婚危機になっていた娘の美奈子も、夫の陽介と和解し、よりを戻すことになった。その際、白と豆男の二匹を一緒に連れて帰ることになった。
そして数日後、長男の拓望家族が尾曲を引き取りたいと申し出があった。そんな折、初子の具合が悪くなり・・・。
金魚玉のある濡れ縁で、寝ぼけ頭を覚まそうと窓を開けた。
結菜たちが帰ったあと、少しうたた寝してしまっていた。
空は昨日までの雨空が嘘のように晴れ渡っていた。
あの日も爽やかな晴天だった。
拓望がまだ幼稚園へ通っていたから、もう四十年ほど前の頃だ。
地元の大きな公園でフリーマーケットが開催されていて、妻と三人で出掛けたことがあった。かなり大規模なイベントだったようで、「食」「衣」「住」の三つのテーマごとにエリアが分かれており、プロ・アマ問わず、さまざまなブースが立ち並んでいた。
妻はインテリアや食器を物色したかったようで、拓望と俺は「食」のエリアで時間をつぶしていた。
親子でありながら、拓望と二人きりのシチュエーションというのに慣れておらず、妻がいない時に泣かれては困ると思い、拓望の要望をすべて聞き入れていた。昼食の時間にもかかわらず、テーブルには甘いデザートばかりを並べて食べさせた。
ただ、夢中にアイスクリームを食べている拓望があまりに可愛らしく、何枚も写真を撮った記憶がある。
しばらくして、妻が「可愛らしい金魚玉を見つけたの」といって、戦利品の金魚玉と陶器の食器を並べて見せてくれた。
あの時の金魚玉が、今も我が家の庭の軒下にぶら下がっている。
中に入れたビー玉が太陽の光を受けて乱反射し、まるで小さなミラーボールのように輝いている。
そのきらめきの中に、あの日の妻の面影がふっと差し込むように現れ、記憶のなかで若く美しい姿が、静かに輝いていた。
「ひとりにも慣れていたつもりだったんだがな……」
三年前に妻を亡くしてから、ひとりの暮らしにも、それなりに慣れたつもりでいた。
最初のころは洗濯機の使い方すらわからず、取扱説明書を読みながら見よう見まねで洗濯した。
色物と白いYシャツを一緒に洗って、台無しにしてしまったのは、一度や二度じゃなかった。それでも今では、色分けして洗い、干して、アイロンをかけることも覚えた。
自炊も最初はまったくダメだった。
スーパーの総菜ばかりではさすがに飽きてしまい、仕方なく自分で作るようになったが、失敗の連続で情けなくなることもしばしばだった。
そのたびに、妻がどれほど多才だったかを思い知らされた。
妻は印刷会社で事務の仕事をしながら、二人の子どもを育て、家事もそつなくこなしていた。
「今日の夕飯は手抜きしちゃった」
そう言う日もあったが、どこが手抜きだったのか、今思えばさっぱりわからない。
「二度目のひとり暮らしになるのかな?」
何となく、妻に話しかけてみた。もちろん反応は無いが、今なら妻が聞いてくれているような気がしていた。
「初子は、多分……もう長くはないよ……」
初子がいなくなっても、また元の寡暮らしに戻るだけだ。妻を亡くして、煩わしい家事のひとつひとつを覚えたあの頃の苦労に比べれば、大したことじゃない。たった数ヶ月の間、世話をしただけのことで、仔猫たちも五匹とも無事に貰われていった。きっと優しい里親さんの元で幸せな猫生を送れるだろうと思う。
元々面倒ごとだったはずで、猫一匹の世話にずいぶんお金もかかった。それが不安の種だったはずだ。
そうした諸々の厄介な事柄から解放されて嬉しいはずなのに、妻を亡くした時に似た喪失感を感じ始めている。
「猫一匹死ぬだけなのに、大げさだよな……」
こんなふうにセンチになった俺を見て、妻は面白がって笑うだろうか。年を重ねてなお、孤独に向き合うことになるとは――やはり、侘しい。
金魚玉が風に揺れて、庭にカラフルな光を散らしている。
柱時計が、ボーン、ボーン、ボーン……と、午後三時を告げた。
いつものように、タクシーで初子を動物病院へ連れて行く。
平日の午後だから空いているだろうと高を括っていたが、待合室には予想外に多くの犬がいた。
受付で「今の時期は狂犬病の予防接種でワンちゃんが多くて……すみません」と説明を受けた。犬たちがワンワンと吠え立てるので、ケージの中の初子は怯えて縮こまっている。
出直したところで、暫くは同じような状態になるだろうから、ケージを膝に抱え椅子に座って待つことにした。
「猫ちゃんですか? うちにも同じ毛色の猫がいるんですよ」
隣りの中年女性が声をかけてきた。膝の上にはクリーム色のチワワを抱いている。
「そうですか。こんなに小さない犬なのに、ワクチン接種ですか?」
チワワのように室内で飼っていても、狂犬病の予防接種が義務付けられていることに驚いて聞いてみた。
「毎年受けてますよ。病院に来ることが分かるのか、怖がって逃げ回るんですよ」
女性はそう言って、膝のチワワの頭をやさしく撫でた。
室内で大切に飼われている犬でさえ、毎年きちんとワクチンを受けている。――初子のように、外で生きてきた猫なら、病気にかかってしまうのも無理はないのかもしれない。
一時間も待たされて、ようやく名前が呼ばれた。
診察室には井上先生が初子のカルテを手に待っていた。
「初子ちゃん、どんな様子ですか?」
そう言いながら、初子とカルテを交互に見ながら、診察台の上に乗せられた初子を見つめた。その目がわずかに曇ったように見えて、胸が詰まる。
「ここ数日、水は飲めているんですが……餌をほとんど食べられなくて。薬も飲んでないです」
「口内炎のせいで食事ができないのでしょうね。体重も減っています。水分は摂れているということですが、脱水も進んでいるようです。とりあえず、今日は点滴をしましょう」
「もう……回復することはないのでしょうか?」
恐る恐る尋ねると、先生は短く息を吸って、静かに答えた。
「そうですね、残念ですが――でも、今は熱も高くなく、静かに呼吸しているので、苦痛はそれほど強くはないと思います。ただ、これ以上の点滴や治療は、延命のための処置にしかならない可能性が高いです」
診察台の上の初子は、全てを受け入れているようにも見えた。それとも、俺がそう思いたいだけなのかも……
「ご自宅で、静かに、安心できる場所で過ごさせてあげるのが一番だと思います。水も受け付けないようなら、口元を湿らせる程度で構いません。あとは、そばにいてあげてください。声をかけて、撫でてあげて……それだけでも、初子ちゃんはきっと安心すると思います」
井上先生の言葉に、自宅で看取るという自分の判断が間違っていなかったのだと、そっと背中を押してもらった気がした。
けれど、その少しの安堵のすぐあとに、もう回復の望みはないのだという現実が、重くのしかかってくる。
そうか、もう……本当に、最期なんだな。
受付で会計を済ませ、タクシーに乗り込む。
窓の外に流れる見慣れた景色――往きと同じ道のはずなのに、色を失ったように見えた。
