初めての保護猫 第20話(#シロクマ文芸部)
<あらすじ>
妻に先立たれ、やもめ暮らしの75歳の主人公は、買い物帰りに近所の田んぼのあぜ道で、泥だらけになっている猫を『初子』と名付け保護することにした。ところがその猫は妊娠していて、しかも猫エイズキャリアだった。
数日後、5匹の仔猫の出産に立ち会い、仔猫の里親探しをする為、『ポチたま保護の会』主催の里親譲渡会への参加をすることになった。
初子はFIVを発症し、日に日に弱っていく。
ワクチン接種を終えた仔猫たちは、いよいよ譲渡会に参加し、唯一雌の長子がもらわれていくことになった。
その後、、囲碁仲間のK氏が娘さんと一緒に仔猫を迎えに訪れてきて、斑の里親になることになった。
そして、離婚危機になっていた娘の美奈子も、夫の陽介と和解し、よりを戻すことになった。その際、白と豆男の二匹を一緒に連れて帰ることになった。
そして数日後のゴールデンウィークに、長男の拓望の家族が帰省してきた。ゴールデンウィーク明けから、孫の結菜が學校へ行けなくなったと連絡があった。心配した秀美差から、懐いていた尾曲を引き取りたいと申し出があった。そんな折、初子の具合が悪くなり・・・。
夜に釣りをする人を、長時間映しているYouTube動画がある。たまたまテレビで流していたら、尾曲がすっかり気に入ってしまった。
釣り上げられた魚に飛びかかったり、波間に浮かぶ光るウキを前足でチョイチョイと捕まえようとしたり――仔猫とはいえ、やはりハンターの血が騒ぐのだろう。狩りの練習のつもりらしい。
そんな可愛らしい光景に目を細めながらも、傍らでは初子の看病を続けている。
看病といっても、毛を梳いてやったり、薬を飲ませたり、少しでも食べられそうなものを口元に運んでみたり――自分にできることなんて、その程度のものだ。
ひとりで初子と向き合っていると、どうしても「このまま死なせてしまうんじゃないか」という不安が頭をよぎる。
何が正解で、何が間違っているのかも、もうわからない。ただ、じっと痛みに耐えている初子の姿を見るのが辛い。でも、それでも――目を逸らすことはできそうにない。もしかしたら、自分のそうした苦痛を取り除きたいだけなのかもしれない。
初子はきっと嫌がるだろうが、初子のためと自分に言い訳して、病院へ連れて行くことにした。このまま静かに看取ることを選択した矢先、少しでも苦痛が和らぐのなら、病院へ連れて行って獣医に頼ろうと、心が揺らぐ。
――全く、優柔不断だ。
初子と始めて出会った時のことが、常に頭をよぎる。
道端で瀕死の状態だった初子を見つけた時、助けることが良いことだと、自分の善行に酔っていたのかもしれない。
あのとき見過ごしていれば、出産の苦しみも、仔猫たちとの別れも、経験せずに済んだのはずなのに……。
そう思うたび、初子にとって自分がしたことは本当に「優しさ」だったのか、苦痛を長引かせただけなんじゃないかと自問してしまう。
安全な室内飼い、きちんとしたエサ、柔らかな寝床――それらは人間が与える「幸せ」だ。
だが、初子にとっての幸せとは何だったのか。
あのまま道端で命を落としていたとしても、それが自然のことなら、初子はきっと、黙って受け入れていたのだろう。
尾曲のように無邪気に遊び、無防備に眠る子猫たちを見ていると、この子たちは何の疑問も抱かず、この暮らしを受け入れ、幸せそうに見える。
けれど、それも所詮は、人間側の勝手な思い込みなのかもしれない。
窓越しに空を眺めることしかできず、空を飛ぶ鳥を追いかけることも、土の匂いを嗅ぎながら歩くことも、叶わない。
それでも、長生きしてほしいと願うのは――やはり、人間の都合にすぎないのだろうか。
初子が人間の言葉を話せたなら、俺のことをどう言うだろう。
「ありがとう」だろうか、それとも――「勝手なことばかりしやがって」と怒るだろうか。
その答えは、きっとわからないままだ。
だからこそ、自分の判断が間違っていないと、誰かに肯定してもらいたいだけなのかもしれない。
今日の午後、タクシーの予約をして病院へ行くつもりだ。
その前に、秀美さんと孫の結菜が尾曲を引き取りに来ることになっている。一度は断るつもりでいたが、自分の寿命を考えると、やはり仔猫の尾曲を、結菜に託すのが正しいことだと思い直した。
初子は寂しく感じるだろうか。命がけで産んだ五匹の子どもたちが、ついに全員いなくなってしまうのだ。
それは、すべて人間――俺の都合によるものだ。
けれど、猫にとっては、そんな都合も理由もわかるはずがない。気付かないところで初子を傷つけてきたのかもしれない。もしそういったストレスが、FIVの発症につながっていたのだとしたら……。
尾曲がYouTubeの魚釣りに飽きた頃、家のチャイムが鳴った。
秀美さんと結菜が来たようだ。
玄関に出迎えると、少し痩せた結菜の姿が目に映った。
「やあ、朝早くに来てもらってごめんね。午後は初子の受診を予定しているものだから……とにかく上がって」
そう言って二人を招き入れた。
「お義父さん、お忙しいところ、すみません」
「いやいや、忙しくなんてしてないよ。早い方が良いと思ってね」
尾曲を預ける決心が鈍らないうちに……そう思っていた。
尾曲は、遊び疲れたのか、ソファの上で寝転んでいた。それを見て、結菜の目が輝いて、そっと尾曲の隣に座った。
「こんにちは、尾曲ちゃん。今日は一緒に帰ろうね」
そう言いながら、優しく尾曲を撫でている。秀美さんは、柔らかな結菜の表情を見て、ほっとした様子だった。
「本当に、尾曲ちゃんを貰ってもいいのですか?」
秀美さんは、テーブルの下で、手を固く握りながら尋ねてきた。
「もちろんだよ。結菜が欲しいって言ってくれたのが、何より嬉しかった」
そう答えながらも、胸の奥で何かが軋む音がした。尾曲を手放す寂しさと、初子に対しての罪悪感が混じっているのだと思う。
「コーヒーでも淹れようね。まだ時間はあるし、少し休んで行くといい」
キッチンに向かってお茶の準備を始める。
不意にケージの中で丸まっている初子に視線がいった。秀美さんは、手土産のクッキー缶を開けて、テーブルの上に広けている。
「拓望は単身赴任で、独り暮らしには慣れたのかな?」
「元々器用な人なので、自炊も楽しんでやっているようですよ」
秀美さんは、ふふっと笑ってコーヒーを一口飲んだ。
「これからは男も家事ができなくちゃって、妻は厳しく教えていたからな」
キッチンに妻と拓望が並んで、夕食の支度をしていた姿が思い出された。
「結菜ちゃんは落ち着いているようだけど、学校へはまだ行けないでいるの?」
聞いていいのか躊躇われたが、やっぱり気になった。
「最近は登校して教室にも入れるようになりました。思ったより早く馴染んでくれましたが、また頑張りすぎなければいいなと思っています」
「頑張り屋さんのところは、秀美さんに似たんだろうね」
尾曲を膝の上で撫でながら、クッキーをつまんでいた結菜が、顔を上げて口を開いた。
「自分ではわからないけど、とにかく学校は行かなくちゃって思っていた。まわりの人が、みんなすごく優秀に見えて……今もだけど……。でも先生が『みんなも結菜さんと同じで、普通だよ』って言ってくれて、少し冷静になれた気がする」
「そうか、良い先生に出会えたね」
「うん、それに尾曲ちゃんが来てくれたら、毎日楽しくなるに決まっている。おじいちゃん、ありがとう」
「お礼なら初子に言ってやってくれ。あの子が命がけで産んだ子どもなんだから」
そう言いながら、自分の言葉に胸がざわついた。まるで、命の責任を結菜に押し付けてしまったような気がして、少し後ろめたさがよぎる。
「そうだね」
結菜はそう言って、尾曲を初子の側に連れていって、初子の背を優しく撫でた。
「初子ちゃん、尾曲ちゃんを大切にします」
その声に、初子はゆっくりと目を開け、かすかに鳴いて応えたようだった。
秀美さんがそのタイミングで腰を上げ、持ってきたキャリーケースの扉を開けた。中にはふかふかのタオルが敷かれていて、温かな暮らしの始まりが、そこに用意されているようだった。
「元気に育つんだぞ」
尾曲にそう声をかけるのが精一杯だった。
一瞬、不安そうな表情を見せた尾曲だったが、すんなりとキャリーケースの中に入ってくれた。だが扉が閉まった途端、急に怖くなったのか、助けを呼ぶように鳴きだした。
「じゃあ、またね」
結菜はケースを両腕で抱え、少し緊張したように言った。
「うん。車に気をつけてな」
そう言いながらも、胸の奥がじわりと締めつけられるようだった。
玄関で靴を履いた二人を見送りながら、初子のいるケージへと視線を向けた。じっとこちらを見つめるその目が、全てを悟っているように思えた。「初子、勘弁してくれな。お前の大切なものを全部奪ってしまったのかもしれないな」
扉が閉まり、車のエンジン音が遠ざかっていく。静けさが部屋に戻ると、不思議と疲れがどっと押し寄せてきた。
ソファに倒れるように身を沈めた。
柱時計を見ると、午前11時に差し掛かるところだ。
病院は午後三時からだから、少し休むことにしよう。
「今日は憂鬱な一日になったな」
独り言ちて、ガランとした部屋を見渡した。
そしていつの間にか、うたた寝をしてしまっていた。
