初めての保護猫 第23話(#シロクマ文芸部)
<あらすじ>
妻に先立たれ、やもめ暮らしの75歳の主人公は、買い物帰りに近所の田んぼのあぜ道で、泥だらけになっている猫を『初子』と名付け保護することにした。ところがその猫は妊娠していて、しかも猫エイズキャリアだった。
数日後、5匹の仔猫の出産に立ち会い、仔猫の里親探しをする為、『ポチたま保護の会』主催の里親譲渡会への参加をすることになった。
初子はFIVを発症し、日に日に弱っていく。
保護当初は、面倒ごとのように感じていたが、世話を通じて徐々に情がわいてきた。
ワクチン接種を終えた仔猫たちは、いよいよ譲渡会に参加し、唯一雌の長子がもらわれていくことになった。
その後、囲碁仲間のK氏の娘さんが斑の里親になった。
そして、離婚危機になっていた娘の美奈子も、夫の陽介と和解し、よりを戻すことになった。その際、白と豆男の二匹を一緒に連れて帰ることになった。
そして数日後、長男の拓望家族が尾曲を引き取りたいと申し出があった。そんな折、初子の具合が悪くなり、悩んだ末、動物病院で診察を受ける。
すると獣医から、自宅で静かに看取ることを提案される。
ハンカチを差し出してくれたのは、理恵さんだった。
全く無意識だったが、気づくと涙が頬を伝っていたようだ。
「ありがとう。ずいぶん前から覚悟はしていたつもりだったんですけどね」
ワンポイントに猫の刺繍があしらわれた、白いハンカチを受け取った。
「無理もないです。小湊さんにとっては、何もかも初めてで、大変だったでしょうから……」
理恵さんは『ぽちたま保護の会』のボランティアスタッフで、ペット葬祭センターの方と知り合いだった。初子が息を引き取った翌日には、火葬の予約をしてくれていた。
「今日が晴れでよかった。真っ青な空に昇っていけるんだから、初子も気持ちが良いだろう」
ペット葬祭センターの待合室の窓から、ぼんやり空を眺めていた。
妻の墓参りを終えて自宅に戻ると、初子がケージの中で、胃液のような黄色い液体を吐き戻していた。呼吸も荒く、胸が小刻みに上下している。
すぐに綺麗なタオルで汚れた顔を拭こうとしたが、手が止まった。
「初子……」
――触っても大丈夫だろうか。
苦しそうに喘いでる初子の体を、触ったり動かしたりすることで、余計に苦しませてしまうのではないかという恐怖がよぎった。
ここ数日、初子がもう長くないことは、頭では分かっていたはずだった。獣医の井上先生の「最期は静かに見送ってやってください」という言葉を、何度も何度も思い返していた。そう、覚悟はできていた――つもりだった。
だが目の前にある現実は、想像していた穏やかな“最期”とはあまりに違っていた。
小さな身体が苦しげに震え、浅く速い呼吸を繰り返している。目はうつろで、それでもまだ、必死に生きようとしているのがわかる。
「ごめんな……ごめんよ……」
どうしてやることもできない無力さに、胸の奥が締めつけられる。
病院へ連れて行くべきか――一瞬その考えが頭をよぎった。
だが移動させること自体、初子にとっては負担になり、死期を早めることになるかもしれない。
ならばどうしたら……?
時間が迫っているような気がして、焦るばかりで頭が回らない。たったひとりで、この小さな命の最期を支える覚悟も、手立ても、持ち合わせていなかった。
咄嗟にスマホを取り出し、頼ったのは理恵さんだった。
理恵さんは、保護センターのスタッフだから、きっとこうした場面の対処にも慣れているだろう。慌ててアドレス帳をスクロールし『何かあったらいつでも連絡してくださいね』と、教えてくれていた電話番号を見つけ、通話ボタンを押した。
「理恵さんか……小湊だけど……今電話してもよかったかな?」
「何かありましたか?」
切羽詰まった声を察してくれたのだろう。理恵さんの声音が一気に真剣になる。
「初子が……初子が、どうしたらいいのか……苦しそうなんだ」
やっと出た言葉だった。
あとは何を話したのか、よく覚えていない。電話を切った後、しばらくして理恵さんが駆けつけてくれた。
だがその時には、もう初子は息をしていなかった。
まだぬくもりの残る小さな体を、そっと抱き上げて、きれいなタオルで顔を拭いてやる。苦しかったはずなのに、眠っているように穏やかな顔だった。小さな段ボール箱にいつも使っていたブランケットを敷き、初子を静かに寝かせた。
そして庭に咲いていた紫陽花やラベンダー、ポピーの花を摘んで、初子の体の周りに手向けた。どれも、妻が生前、大事に育てていた花たちだった。
「情けないよ、まったく。何もしてやれなかった」
後悔で胸の中がいっぱいだった。
「初子ちゃん、穏やかな顔してますよ。最後に小湊さんの暖かさに触れて、幸せだったと思いますよ」
理恵さんは、もう動かない初子を撫でながら慰めてくれた。
「病気と闘いながら、五匹の仔猫を産んで……それも、自分の乳で育てあげて。ほんと、すごい子ですよ」
理恵さんの声には、誇りと労わりが滲んでいた。
「最期にね、初子は鳴いたんですよ。にゃ~んって。大きな声で……」
あれは何を言っていたのか? 「さよなら」だったのか、それとも「ありがとう」だったのか……仔猫たちの行末を心配しての「お願い」だったのか。あの鳴き声が切なくて、ずっと心に残っている。
「たいした猫ですよ……ほんとに」
初子の小さな体を見つめていると、色んなことが思い出された。
胸の中で、初子の生き様が何度も蘇ってくる。
あんなに小さくて、あんなにやせ細っていたのに……。
それでも一心に仔を産み、育て、最期の時まで生き抜いた。
ただ生きるために、何も言わず、痛みにじっと耐えていた。
誇らしかった。
胸を張って「すごい奴だった」と言いたくなる。
自分が同じ立場だったら、果たしてどうだろう。
猫と人間という違いはあっても、あの子のように、すべてを受け入れて、それでもなお、生きることにもがきながら前を向けるだろうか。
そう思った瞬間、初子の短くも力強い一生が、自分の中に静かに根を下ろした気がした。
2時間ほどたっただろうか。
葬祭センターのスタッフが、呼びに来た。
「収骨室へご案内します」
理恵さんはすぐに立ち上がり、
「火葬が終わったようですね」と呟いた。
軽く頭を下げ理恵さんにハンカチを返し、二人で後に続いた。
案内されて部屋に入ると、小さな骨になった初子がいた。
スタッフの男性が、慣れた手つきで説明をする。
「これが頭です。背骨があってシッポまで続いているのが分かりますか?」
骨壺を手渡されて、ひとつひとつ初子の小さな骨を拾って入れていく。
理恵さんは黙って隣に立ち、静かに見守ってくれていた。
拾骨が終わると、スタッフが骨壺に白い布をかけてくれた。
「お疲れさまでした」と静かに言った。
外に出ると、青空と太陽がまぶしく、下を向いたまま歩いた。
手には初子の骨が入った小さな骨壺がある。
まるで悪い夢でも見ているような気がしていた。
