初めての保護猫 第12話(#シロクマ文芸部)
<あらすじ>
妻に先立たれ、やもめ暮らしの75歳の主人公は、買い物帰りに近所の田んぼのあぜ道で、泥だらけになっている猫を『初子』と名付け保護することにした。ところがその猫は妊娠していて、しかも猫エイズキャリアだった。
数日後、5匹の仔猫の出産に立ち会い、仔猫の里親探しをする為、『ポチたま保護の会』主催の里親譲渡会への参加をすることになった。
初子はFIVを発症し、日に日に弱っていく。
ワクチン接種を終えた仔猫たちは、いよいよ譲渡会に参加し、唯一雌の長子がもらわれていくことになった。寂しさを感じていたところへ、長女の美奈子が訪ねてくる。
雷は心臓に悪い。猫にとってはなおさらのこと。
昨日まで好天が続いていたのに、今朝の天気予報では、大雨・強風・雷注意報が出ていた。まるで我が家の雲行きを映しているようだ。
窓の外が光り、雷が轟くたびに子猫たちは驚いてケージの中やソファの下へさっと隠れてしまう。
実のところ、自分も雷は苦手だ。雷が鳴るたびにビクッとし、肝を冷やす。
さらに、娘の美奈子の爆弾発言は、雷に打たれたような衝撃があった。
昨夜娘の美奈子が突然『離婚するからしばらくおいてほしい』とやってきたのだ。美奈子の話だと、陽介君の浮気が原因のようだが、それ以上は話したがらないから、こちらから聞き出すことはしないことにしている。
「さっきから雷が鳴っているから、買い物にも行けないな」
美奈子は朝食に手もつけず、黙って子猫たちの遊び相手をしている。
「何か食べないと腹が減るぞ、食べたいものがあるか?」
答えはない。ただ、小さく首を振るだけだ。
空気が重い。チラッと仏壇の遺影を見る。
妻が「ふふん」と笑ったような気がした。俺の不器用さを笑っているのか。
こんな時はどうしたら良い? 妻ならどうするのか?
こうした家族の面倒ごとは、今まですべて自分のあずかり知らないところで収まってきたのだろう。俺はただ、それに甘えていただけだったのかもしれない。
初子の様子が気になり、ケージの中を覗いてみる。
今朝は少しだけ餌を食べたようだ。水を替えてやり、初子のトイレの掃除をする。
「その子、病気なの?」美奈子が隣に座って初子の様子を伺う。
「猫エイズと言ってな、治らない病気らしい。子猫を産んでから体調が悪いんだ」喉を撫でてやると、ゴロゴロと喉を鳴らして気持ちよさそうに目を細める。
「死んじゃうの?」
美奈子が、あまりにあっさりと口にした。その言葉が、胸に引っかかる。痩せて毛艶を失った初子を見て、瞬間的にそう思ったのだろう。
「そうかもな……」
口に出した途端、後悔する。「そうかもな」なんて認めてしまったら、初子が本当に死んでしまうような気がした。
「でも、頑張っているんだ。簡単に死んだりしないさ」
そう言いながら、初子の頭を掌でそっと包み込む。指先に伝わる温もりが、かすかに揺れる命の灯火のように思えた。
「・・・私も頑張ったんだよ」美奈子がささやくように話し出した。
「陽介にふさわしい奥さんになれるように・・・」
美奈子は初子から視線を離さない。
「あの人は誰からも好かれて、頼りにされて、仕事もできて、家にいるときでも同じで・・・」
確かに陽介君は、社交的で明るく、所作がスマートだなという印象はあった。でも美奈子がふさわしくないなんて思ったことは一度もない。それどころか、お似合いの二人だと思っていたし、現に周りの人たちもそうはやし立てていた。
「だから・・・私も仕事を頑張ったし、陽介の友達にだって好かれるように、話題になりそうなことはちゃんと下調べして・・・」
美奈子の声が震えている。
「身なりだって、趣味が良いと思われるようにしていたし・・・」
どうやら美奈子はかなり無理をしていたようだ。美奈子はずっと、“陽介君の妻”であることに、必死だったんだ――。
「そうだったのか・・・」言葉に詰まる。
父親なのに、こんな時に気の利いた言葉がひとつも浮かばない。
もし、陽介君の浮気が本当なら、男同士で話すこともできるが、まずは二人で向き合うのが先だ。
「陽介君と、ちゃんと話してみないか? 何も言わずに出てきたんだろう?
いくら何でも陽介君だって心配してるはずだ」
「そうかな…それなら、もう連絡してきてるはずでしょ?」
しばらく沈黙が続く。無理もない。浮気されたかもしれない娘に、「話し合え」なんて、いかにも無責任なアドバイスだったかもしれない。
「……とりあえず、何でもいいから食え――」
「腹が減っては戦ができぬ」と言いかけて、慌てて飲み込んだ。美奈子の顔が、落胆と呆れの入り混じった表情に変わっている。
「食べろって、そればっかり……お父さんって、ホント、そういうとこあるよね」
こういうとき、母親なら優しく背中をさすってやるのかもしれないが、俺がそれをやったら美奈子は余計に戸惑うだろう。
――さて、どうしたらいいんだ?
気まずい沈黙だけが、じわじわと部屋に広がっていく。いたたまれない時間が過ぎていく中、尾曲がひょいと美奈子の膝に飛び乗り、丸まるように座る。そして、喉をゴロゴロと鳴らし始めた。
思わぬ助け舟に、俺は心底胸を撫で下ろした。
「この子たち、どうなるの?」
美奈子の口角がわずかに上がる。
「里親を探しているんだけど、猫エイズに感染しているから、なかなか引き取り手が見つからないんだ」
美奈子の膝の上で、尾曲が小さく丸まりながら喉を鳴らしている。落ち込んでいた美奈子が、ゆっくりとその背を撫でた。
「猫エイズだとダメなの?」
「ダメって訳じゃないんだが……」悔しさが喉元で痞える。
「元気だし、人懐っこいんだけどな。やっぱり病気持ちってだけで、みんな敬遠しちまうみたいだ」
美奈子は尾曲の背中を優しくなでながら、小さく息をついた。
「……私も、そうだよね」
「ん?」
「一度壊れてしまったものは……元通りにはならないよね……。陽介――、もう気持ちが戻らないのかな……?」
美奈子は迷っているのだろうか。
「……この子だって、時間をかければ、きっと、ぴったりの里親が見つかるはずだよね?」
美奈子が小さく笑い、尾曲の耳の後ろをくすぐると、気持ちよさそうに目を細めた。
「……そうさ、きっとな」
美奈子と陽介君とのことも、答えを急がなくても、時間が解決してくれるように思う。
美奈子の声は少しだけ柔らかくなっていた。
「この子、可愛いね」
「だろう! 可愛いんだよ、初子の子どもだからな」
窓の外を見ると、いつの間にか雨が上がっていた。季節の変わり目は天候の変化もめまぐるしい。
「明日は晴れるかな? 花見にでも出かけてみるか?」
「父さん、桜はまだ早いでしょ」
気が早いな、と言いたげな口元だ。
「じゃあ、何か美味しいものでも食いに行くか!」
「やっぱ、そうくるんだ!」
美奈子はくすっと笑い、尾曲のしっぽを指先でくるりとなぞった。
