生成AIの倫理課題についての私見
魔除け
最初に断っておきますが、私は全くもってAIの専門家じゃないです。技術にも法律にも権利にもAI作曲そのものにも、何一つ専門性を持っていません。そんな奴の言うこと聞く意味ありますか?無いですね。私のことに興味がない人はこれを読む必要ないです。
サムネイルの絵がすごい目をアップにしているのも一種の魔除けです。これはAI生成物じゃなくて妻に描いてもらった私のアイコンの一部です。
この記事は「インタラクティブミュージックについての12の神話」連載の、12.予想論 AIが進歩することで、プレイヤーによって全く違う音楽が作られるようになる、という神話、を書くにあたって、現時点でのAIに対する理解を自分なりにまとめておこう、と思ったのがきっかけで執筆しました。
私の連載などから音楽と技術の関連に興味を持ち、「私の」意見に興味があって、「私が」AIを含む作曲についてどのように考えているか、に興味がある人に向けて書いています。つまり、私と「対話」がしたい人です。
「対話をするとは、一人称的経験を共有し合うことで、相手がなぜそのように考えるようになったのかを相互に理解する試みに他なりません。「AさんとBさんの考えが一致している/していない」という表面的なことを確認するのではなく、「いったいいかなる経験が二人の考えを分けたのか」を理解し合うことが大切なのです」(p. 40)
あくまで私見であって、この考えを押し付けたいとか広げたいと思っているわけではないです。が、読んだ人が有用だと思った考えは特に断りなく自分の考えの一部として広めてもらっても良いですし、おかしいと思った点は私に直接指摘して頂いて構いません。そのような対話は可能です。間違っても、(私をどちらかの「派閥」に置いて)「この派閥の奴がこんなバカな事を言っている」というダシに使わないでください。
既に結論を決め込んでいて自らを反省する気がなく、相手を叩く事が目的だという人には何を言っても仕方ありません。誰しもが「自分はそうではない」と言うでしょうが、であれば、「自らも認識を誤っている可能性」を捨てないようにしましょう。私は、以下の文書が誤っている可能性は十分にあると思ってますし、批判は受け入れます。が、いずれの極端な立場からも、話をすべて読まずに部分的に切り取った理解による誹謗中傷が届くことがございますので、そうなったらミュートなりブロックなりを使いますのであしからず。
私を知らない人は今まさに「こいつは「反」なのか「反反」なのか」みたいなラベリングで勝手に補助線を引こうとしているでしょうが、それは人間の本能なので仕方ないとして、そのような態度を捨てない限りその人との対話は成り立たないですし、そんな面倒な事は、私に興味がなければ割に合わない行為です。私がどんなものを作っていてどんな事を言っている人か、知っている人にとっては、そうしたラベリングは不要でしょう。
以降、たくさんの文章や資料を引用しながら、「全部読んで理解しなければ、結局どういう立場なのかわからない」くらいの長文を書きます。読むのに時間がかかるけど結局消化できない、ウンコみたいな文書だと思います。見方を変えれば、思考の「肥やし」にはなるでしょうが、「この人の書いたものなら、ウンコでも興味ある」くらいの人に向けて書いてるんで、興味ない人は絶対後悔するようにクソ長いものにします。
では、残っていただいた我慢強い方へ。即座に結論が出ない複雑な問題に辛抱強く向き合う負荷に耐えられる方へ。そして私の考えを知り、私と対話して頂ける方へ。
現実ではなく理想の話をする
まず、私は「現実はこうだから」という論にはあまり興味がありません。「理想として、こうあるべきではないか」という論に興味があります。それが現実になるかどうかは全くわかりませんし、不可能と言われる事もあるでしょう。しかし、理想から目を背けて生きることは、私の価値観で言えば「カッコ悪い」ので、そうなりたくないだけです。
社会の流れに逆らわずに「自分がスマートに生きる方法」を探し、それを推奨するだけの人間は、もはや一般意志を構成するための人民ではないんですよ。つまり、それは自由ではない、奴隷としての生き方です。
— じーくどらむす/岩本翔 (@geekdrums) October 1, 2025
これの影響ですhttps://t.co/J4XcuQGGwv
— じーくどらむす/岩本翔 (@geekdrums) October 1, 2025
現実的に、AIの開発競争は止まらず、我が国が規制しても他国がAIを活用して世界を支配するなら、負けて損をするだけである、だから国も規制するべきではないし、個人もその流れに従うほうが「スマート」だとする考えはあります。そして、それが真である可能性は十分にあります。
現実を見ない私の生き方の方が「ダサい」とする見方も当然ありえます。そこで無駄に争うつもりはありません。どちらも社会に必要な役割だと思います。現実だけでは理想に向かうことができず、理想だけでは現実と接続することができません。極端な人は置いておき、残った我々で現実と理想の橋渡しを考えていく必要があります。
AIを活用するためにも、感情を無視しない
AI自体は破壊的なイノベーションだと思っているので、産業革命が人類にもたらしたインパクトと同様に、例えその転換期でどれほどの軋轢を生んだとしても、後世から見るとこれが無い世界は考えられない、となるでしょう。
しかし、その夢の技術は先人および現生人類の残した大量のデータ、いや、著作物、努力の結晶、その集積物に依存しています。既存の法制度のもとではAI学習を拒否したり対価を受け取ることが難しく、倫理的にそれを受け入れがたい創作者と生成AI利用者との間で軋轢を生じさせ、それらが感情論として唾棄されています。
感情は、倫理の出発点です。この苦しみは何なのか、と思う気持ちは考察の原初的モチベーションとして大切にすべきです。
しかし、倫理観を法律に反映するには、感情を論理に変換する必要があります。法としてそれを執行するためには、個々人の気持ちに左右されない厳然たる判断基準が必要で、その基準は特定の立場によらず抽象化され、公平でなければなりません。死にたくない人も死にたい人も、殺されれば殺人罪。生成AIに今の立場上賛成しようが反対しようが、それが公平な観点から搾取といえるのであれば、そうした立場を超えて適用可能な基準を見出す必要があります。
既存の法制度でカバーできる場合もある
私見ではAIに関しては既存の著作権法では足らず、それを拡張するなり、何らかの新しい法制度が必要なんだろうとイメージしてます。
一方で、以下の文化庁著作権課による考え方の整理は非常によくまとまっていて、「学習は適法」のソースとしてよく生成AIユーザーが引き合いに出しますが、読んでみると普通に「著作物の市場と衝突するか」「著作物の潜在的販路を阻害するか」という観点から慎重な姿勢(最終的に司法が判断するが、「著作権者への不利益を発生させない」スタンスがベースにある)を取っており、文化庁もAIを「生成」に用いることのリスクは十全に把握しつつ対処を探っているように思えます。

令和5年度 著作権セミナー AIと著作権 令和5年6月 文化庁著作権課
令和6年度 著作権セミナー AIと著作権Ⅱ 令和6年8月 文化庁著作権課 ―解説・「AIと著作権に関する考え方について」―
以下のスライドにあるように、生成ではなく検索や分析など、著作者への不利益が無い、または軽微といえる範囲については第1層、第2層などと層を分けて「柔軟な権利制限」を認めながらも、第3層(おそらくここが「生成的」なAIの事)では市場と衝突する場合に懸念を示しつつ、教育・福祉・報道などの公益的な目的のためには認めても良い、という姿勢をとっています(いわゆる30条の4)。

AI利用に規制は必要か
今のところ生成AIの論点として中心的なものは「(無断)学習」の是非かと思いますが、私はどちらかというとその先、「(生成を含む)利用」において何を認めて、何を規制するべきか、のほうが大事だと考えています。
なぜかというと、
利用先によっては学習を認めても良いが、別の場面では認めたくない、と考えられる用途がいくらでもあるから(いわゆる30条の4において「権利者に不利益を及ぼさない」とされている場面)
学習のメソッドが進化していけば、ある人の創作物を学習せずとも、同様の絵柄や創作性の再現が可能となり、それを逆手に取られて「クリーンだから何をしても良い」とされる方が厄介だから
という理由です。
先の文化庁のスライドにおいてもこの「学習」と「利用」は厳密に分けて考えられていて、学習を認めたところで、生成に利用するのは別、というのはしっかりと明記されています。
ちょうど良いタイミングで、ノーベル経済学賞を受賞された方の研究について解説しているnoteを読んでいたところ、そのノーベル賞受賞者による「AIは労働者を幸せにするのか?/国家がAIを制御すべき理由」というド直球なインタビュー動画を見つけました。私の言葉よりも100万倍説得力があると思うので紹介します。
著名な経済学者であるダロン・アセモグル教授と経済学者の安田洋祐教授とのAIが労働者と社会に与える影響に関する議論を概説します。アセモグル教授は、彼の著書『技術革新と不平等の1000年史』の内容に触れながら、テクノロジーは自動的に進歩をもたらすわけではなく、どのように利用するかという選択が重要であると主張しています。特に、AIを単なる自動化(労働代替)に使うか、あるいは労働者を補強し、新しい仕事(労働補完)を生み出す方向に導くかという二つの方向性の違いに焦点を当てています。また、技術の方向性を制御するためには、政府の規制、労働組合、市民社会の三つの柱が重要であり、労働に対する課税(給与税)を減らし、企業の税率を上げるなど、技術利用を労働補完の方向に導くための税制改革の可能性についても議論されています。
とりあえず、今年のノーベル経済学賞の受賞者も「AI技術の方向性を制御すべき」と警鐘を鳴らしているわけで、この議論には大きな意味があるという事は言えそうです。
とくに注目すべきは、
1,AIを単なる自動化(労働代替)に使うか
あるいは
2,労働者を補強し、新しい仕事(労働補完)を生み出す方向に導くか
という二つの方向性を区別できる言葉が必要だろう、という提言です。1は否定的(規制すべき)で、2は肯定的(推進すべき)という事が伺えます。安田教授は「ミサイルとロケット」に例えていますが、技術を使って世界を良くすることも、争いに利用する事もできるのはAIも同じです。
しかし、現状だとそれはどちらも「AI技術の応用」とされてしまい、きちんと区別されていません。では、どういうものが「労働代替的=Automation」であり、どういうものが「労働補完的=Augmentation」なんでしょうか。
まず、既存の労働市場とぶつからない、以下の領域において補完的に利用するのは問題ないように思います。
アカデミックの利用
学術的な研究目的、あるいは、生徒だけでなく教師も問題作成や資料作成に使ったりできそうです。
こうした領域においては、今までは単に予算がないためにデザインやアートの素人が作ったわかりにくい資料ばかりが流通してきましたが、AIを活用することで既存の仕事を奪わずに税金の無駄を減らし、コミュニケーションの促進につながる可能性があります。
もちろん、そうした資料がAIによる間違いや先入観に汚染されてしまう懸念は常に持つべきでしょう。しかし、少なくとも何の監視もされていない民衆が使うのよりは、行政なり権力による監視が(理論上は)あるわけですから、公共の利益から外れた活用をする(たとえば学校でプロパガンダを展開するとか)場合は注意指導する、といった制御が可能であるはずです。
私的利用
私的利用のための複製が問題ないのと同様、AI利用も、自分1人で消費するための利用に関しては、異論は少ないはずです。
私も、音楽のAIが進化して使いやすくなったら、自分の商用プロジェクトに使うことは全く想像してませんが、個人的に好きなジャズミュージシャンの「ありえなかったコラボレーション」を生成できたらどれだけ面白いだろう、と夢想せずにはいられません。
こうした「教育機関における活用」「私的利用」については、文化庁においても著作権を制限できる場合(許諾を必要としない場合)として例示されています。これは今まで「複製」をしても良い場面と解釈されていましたが、今後は「生成」についても同様の解釈が広げられるかもしれません。

一方で、既存の労働を代替するような利用には文化庁からも、そして経済的な面からも懸念が持たれています。
労働代替(自動化・効率化)の倫理性
ノーベル経済学賞受賞者のアセモグル氏も、仕事が奪われる形での自動化には否定的です。それを「禁止」するわけではなく、「自動化税」の課税などによって制限をかけ再分配を可能にする政策を提案しています。

しかし、自動化によるクリエイターの地位低下を懸念することを「ラッダイト運動(機械うちこわし運動)」と類似するものとして批判する言説も多く、「自動化程度で失われる職は非効率で、失われるべきだ」という圧力にクリエイターが晒されています。
レッテルとしてのラッダイト
AI研究者でカリフォルニア大学バークレー校のスチュアート・ラッセルは「論敵をラッダイト扱いすることも、”AIの擁護者”が修辞的な効果を狙って用いる常套手段である」と指摘しており、技術のリスクの否定や隠匿にラッダイト主義の糾弾が行われるとしている。
既存の労働市場の効率化は、どこまでが必要で、どこまでが行き過ぎなのか、結論が出ていません。
参考までに、ラッダイト運動の対象となった織布生産機械の打ちこわしと、現代に起こっている生成AIへの反対運動は、どこがどう違うのでしょうか?
ラッダイトとの対比
これは、機械が生産するものが「複製不可能なモノ」なのか、「複製可能な情報」なのか、という所にまず大きな違いがあるように思います。
100人で手作業しても100万人の需要を満たせないのであれば、機械化による恩恵というのは社会全体で無視できません。しかし、100人で作ったゲームは100万回でも販売可能であり、AIによって効率化されても「100人で作れたはずのものを1人で作ってしまい、すべての手柄を自分のものにする」という、市場を広げずに格差だけが広がる結果がもたらされるかもしれません。この点は文化的にも経済的にもリスクです。
しかし、いろんな意見を聞いて思考実験した末に、私は「生成AIによる効率化を全て否定はできない」という結論に達しました。既存のクリエイティブの現場においても、自動化・効率化は常に行われてきました。CGの導入も、オーケストラの演奏を音源で賄うのも、言ってしまえば効率化であって、これを「雇用のために100人のアニメーター・オーケストラを雇いましょう」とはならないわけです。
一方で、それらは生成AIのように学習時点での問題を孕んでおらず、対価を支払っており、なおかつクオリティも一定の妥協を強いられるものでした。つまり、これまでの自動化は、「妥協しない所はちゃんとプロに頼む」「妥協できる所は素材屋から買う」のように、既存の雇用を断絶しない形でゆるやかに役割分担が進んでいったものと思われます。
雇用が失われるか?ツールとして活用されるか?
生成AIもトッププロの仕事をすぐに奪うわけではないものの、妥協できる所の仕事を破壊的に変化させる恐れがあります。とくに絵や音楽は、プログラムなどと違って部品ではなく完成品を出す能力が進化したため、(部品であれば既存のプロが活用して徐々に移行を進めやすいのですが)これまで全くそれを生業としていなかった人間が参入して混乱が生じています。
私の仕事(プログラマー)なんかは、さっさとAIでも何でも自動化してくれと思っている部分が多くあります。それは、プログラムの生成AIが細かい部品(コード)を出せる能力を進化させているため、最終的にそれを責任をもって管理する仕事は失われないという前提が崩れず、自分はより本質的なタスクに集中できるからです。
絵も音楽も、商業的に活用するためには、プロンプトから完成品を出力するのではなく、下書きから一部を清書するとか、苦手なパーツだけを指示して手伝ってもらうとか、別アレンジを提案してもらうとか、そうしたツール的な生成AIというのが求められるはずです。でないと、結局は細かいレベルの修正ができず、意図した成果物に近づけるのがむしろ難しい(生成物を手動で手直しするほうが大変)という問題が残るからです。
クオリティ向上のためか、コストカットのためか
雇用が失われない形であればアーティストと生成AIが共存していく道もありそうに思われます。
しかし、コストカットの方向に活用しようとすると、雇用が失われ、クオリティは担保されず、粗悪な類似品で市場を埋め尽くそうとする悪意ある利用者から不当な圧力がかけられる可能性があり、それは既に始まっています。
「言うことを聞かなければ(給与・納期・環境などの条件の悪化を飲まなければ)AIにやらせれば良い」という脅しだけでコストカットの圧力としては機能してしまいます。AIに頼ることのデメリットを意図的に無視した交渉が蔓延ると、優越的な地位を持つ人がそれを濫用して富や権力を独占しようとしてしまうため、注意が必要です。
ラッダイト運動の動機も機械そのものへの恨みではなく、労働者を搾取する雇用者への交渉手段として機械を標的としたものと評価されています。現状のAIへの反対運動も、AIという機械そのものではなく、AIを通じてクリエイターをより劣悪な立場に置こうとする資本家や極端な言説(不要論)への対抗措置と位置づけるべきかもしれません。
>>ラッダイト運動を「暴動による団体交渉」と位置づけ、機械そのものよりも、労働条件の改善を要求したものだとしており、一般的にラッダイト運動は、技術の不正な導入や粗悪品を生み出す技術、そして熟練労働の当事者から同意を得ずに労働慣習を変えようとする政治的方策に対抗する、組織化された権利主張であると解釈することができるとしている
>>「これらの機械への攻撃は、必ずしも機械そのものに対する敵意を意味するものではなかった。機械はただ便利な露出した標的であり、攻撃ができるものだった」
AI学習元にどのように還元するべきか
ここまで、学習の問題を棚に上げてきました。
「学習」と呼ばれる過程を法的に許容する立場からは、
人間も同様に行う(ように見える)こと
データそのものを保持するのではなく、潜在空間に圧縮すること
特定のデータに依拠しているという証明が端的に不可能
データ量を増やすことで限りなく小さいと言い張れてしまう
などが主張されており、これと向き合う必要があります(学習ではなく指示入力段階で使うものは証明も可能だし依拠性もあるので別ですよ)。
まず、人間の学習が問題なくてAIの学習が問題となるのは当然で、それは結果として得られる能力をコピー可能かどうかが異なるからです。人間の目で見ることと写真を撮ることは同じだ!とか言って撮影禁止の場所で撮影して良いわけがなく、その影響が1人の脳内でとどまるのか、無数に複製が可能となるのかの違いを無視することはできません。
AI以前には、「データ」しかコピー可能とみなされていませんでしたが、AI以後は「能力」がコピー可能となり、それこそがAIの最も破壊的かつ便利な側面です。したがって、人間の学習は良くても、AIの学習は別という考え方が支持されます。
では、人間とAIが違うことは良いとして、AIが素材から能力を得ることに対し、作者はどのように意義申し立てができるのでしょうか?
文化庁もこの点については態度を決めかねており、
「著作権者の著作物の利用市場と衝突するか」「将来における著作物の潜在的販路を阻害するか」 という観点から「技術の進展」・「著作物の利用態様の変化」等の諸般の事情を総合的に考慮して検討する(AIと著作権Ⅱより)
最終的には司法の場で個別具体的に判断されます(AIと著作権より)
などとしています。しかし、現状では「個人が」裁判を起こしても、「その人の作品が学習されたか」「それによって、その人の利益が奪われたか」といった立証が困難で、現状のように煙に巻かれる可能性が高いです。
ただ、実際には「多くの創作者の多くのデータを学習し」「多くのクリエイターの利益が脅かされる」という広域的な影響および因果関係は誰も否定できません。なので、個人ではなく業界団体などまとまった形で裁判を起こす、などが対抗措置として考えられますが、その実現可能性については本稿では考慮しません。
理想論として重要なのは、個々人の主張としては弱くとも、創作者全体としては生成AIの影響を懸念する正当な理由があり(文化庁も「市場と衝突するか」を懸念しており、ノーベル経済学賞受賞者も懸念を表明している)、倫理課題が残っている状態です。それを解消するような合意点を見いだせない限り、生成AIの利用は薄暗い立場に置かれ、権力による搾取と見做されることでしょう。
学習の「許諾」で解決するのか?
ところが、単純に「許諾があるものだけを学習すれば解決」かというと、そうではないと思っています。既に申し上げたように、学習を拒否したのにも関わらず同様の絵柄・奏法・声質・相貌などが出力される事は十分に考えられるためです。
実は、noteにおいてもテキストの学習を許可し、その対価を還元しようとする仕組みが導入されているそうです。
現状はまだ「みなさまへ適切に利益を分配できるロジックの設計を進めております」という段階で、どのようにして依拠性を算出するのかは未知数です。そのロジックが決まったとして、その評価が正しいのかどうかも、全くわかりません。明らかに私のテキストの一部がコピペされているとかならともかく、私の思想、論理、口調、私のテキストから影響を受けた人の他のテキストなど、影響は薄く広く存在していると考えられます。
自分の創作に影響した「インスパイア元」をすべて列挙可能か
そもそも、私自身の言葉も、本当に私から出てきたものなのか?という事を問う必要があります。この記事でも既にノーベル経済学賞受賞者の言葉を何度か引用し、Wikipediaの言葉を引用し、AIの要約を使い、さらに、私自身の言葉も、いつかどこかで誰かから聞いた言葉を、自分のものと思い込んで発している可能性が非常に高いです。
そうすると、
・AIの出力物が、どれだけ私の成果物に依拠しているのかもわからない
・私の成果物が、どれだけ他人の成果物に依拠しているのかもわからない
二重の意味で、依拠性を割り出そうとする試みは複雑怪奇な罠にはまり込んでいくような気がしてなりません。
絵も、音楽も、こうした指摘を免れないでしょう。アーティストが自分ですべての構築していたとしても、それに影響を及ぼした作品を挙げだすとキリがないはずです。主たる影響元を挙げることが出来たとして、それを正直に全てAI学習許諾時に申告し入力できるでしょうか。
「無限の負債」と向き合う
こうした事を考え始めてしまったばかりに、私にはDavid Graeberによる著書「負債論」における、以下の一節が思い起こされるのでした。
つまるところ、わたしたちは自己存在すべてを他者に負っている。これはいわずもがなの真実である。わたしたちが話し、そのなかで思考する言語、習慣と意見、好きな食物、灯りを点けたりトイレを流したりする知識、さらに社会的因習に立ちむかう抵抗の身ぶりや反乱の流儀にいたるまで、わたしたちはすべてを他者から学んだのであり、それらの人びとのほとんどははるか昔に死んでいる。そうした人びとに対して負っている負債を想像するならば、ただただ無限というしかない。
私達が真の意味で「自分ひとりで作った」と言えるものはほとんど無いでしょう。だからといってAI学習が正当化されるわけではなく、依存関係の問題が複雑すぎるという事を言いたいのです。
あなたが学習を許可することは、あなたの創作に影響したさまざまな先人たちの功績すらも、間接的に学習許可を与えてしまいます。
あなたが学習を拒否したとして、あなたの創作に影響された人や、あなたに影響を与えた人たちが許可すれば、間接的にあなたの能力は再現できてしまいます。
なので、個々の学習データからの依拠性を算出可能だという幻想を、捨てた方が良いのではないか、というのが私の考えです。無限の負債を解消しようと、自らの創作における師匠や祖先たちを消し去ろうとする罪業に身を投じる事は、創作者の倫理観にも反してしまうでしょう。負債論における、先の文書に続く一節を引用します。
そこから以下の問いが浮上する。これを負債として考えることに意味はあるのか?結局のところ負債とは定義からして少なくとも返済することを想像できるものである。ところが、じぶんの両親への借りを清算したいと望むことはとても奇異なことなのである。そこにはもはや彼らを親とは考えたくないというふくみがひそんでいるのだから。
今のところ、私の理想は次のようなものです。
強い個別の依拠性に対して、権利侵害を検出する
明らかに特定の作品やキャラクターが出力されているような場合は、類似性・依拠性ともに満たし著作権侵害が成り立ちます。

また、経済産業省によるAI利活用における民事責任の在り方に関する研究会における「パブリシティ権侵害」の成立においても、「データセットに該当の画像が含まれていることは、権利侵害の要件にはならない」とされています。すなわち、本人以外のデータから偶然生成されたとしても、酷似してしまったものを(その知名度に応じて)確認せずに利用してしまえば、過失が認定されるわけです。

この点では、既存の法制度をそのまま援用することが可能です。ただし、AIでこうした出力が今までより飛躍的に簡単になる分、それ(過度な類似品)を検出する機能についてもAIが提供するのが筋ではないかと考えます。
そもそも、AI以前にそのような著作権侵害を行うには、元作品を学習し、意図してそれに似せようとする一定の悪意が必要でした。しかし、AIは利用者の意図とまったく無関係に既存の創作物を学習してしまっており、例えば、日本のアニメを全く知らない海外の方が「なんか適当にプロンプト入れたらすごいアニメが出てきた」と思って悪意なく公開したものが、日本人が見たら明らかに鬼滅の刃だよね、という事は起こり得るわけです。
これに対抗するためにはオプトアウトもそうですが、偶然生成されたものに対して「この作品への過度な類似が認められます」といったサジェストが同時に出力されなければ、悪意なくそうした出力が出てきてしまう可能性があります。
特定の作品への類似が認められた場合に、それを禁止するのか、それとも許諾して利用料を徴収するYoutube Content ID的な形態にするのかは、アーティストが選べても良いかもしれません。
弱い全体の依拠性に対して、課税を行う
特定の作品からの影響が見られなくとも、あらゆるデータから影響を受けた汎用的な生成AIの利用については、広く浅く、税金のような形でAI企業(を介してAI利用者)に課税し、それをアーティストが利用可能な基金とするのが良いと思います。それが自動化税と呼ばれるのかもしれません。そのためには、作品の権利者たちが政治的にまとまって自分たちがどうしたいのか、取り決めるプロセスが必要です。例えば、アニメ生成のAIを使うならアニメーター全体に還元するとか。
あるいは、業界全体で一致してすべての学習(および、それによる対価の再分配)を拒否する方向も考えられます。俳優や声優業界など、そもそも人数が少なくてどうしても誰かに似た出力が出やすい場合は、こちらに行くのかもしれません。
AI生成物は「著作物」「創作物」たりえるか
AIの「学習」「生成」の問題と、AI生成物が「著作物」かどうかもまた、別の問題です。文化庁のスライドにおいてもここは別項目になっています。そこではとくに「創作的寄与」の大きさが焦点となっています。

「創作的寄与」が低いものは、AIが自律的に生成したものと見做されるため、「著作物に該当しない」とされています。これは、ごく簡単なプロンプトによる生成なども該当します。
AI生成物は「AI製」とラベリングすべきか
ここまで論じた学習・生成段階の理想条件をクリアしたとしても(=AI利用者が間接的に学習素材への対価を払っていたとしても)、AIが自律的に作成したものか、人間がどこに創作的寄与をしたのか、という表記はマナーとしては必須になると考えています。
現状はまだ倫理課題が解決されていないため「烙印」のように押す・押さないの話になっていますが、制作過程の一部にAIがどのように活用されるかは限りなくグラデーションになり、「AI生成物かどうか」といったゼロ・イチの判定ではなくなるはずです。

一方、グラデーションだからといって、AI生成した部分と、自分で試行錯誤した部分を区別しなくて良い、とはならないでしょう。それは端的に誤解を招くからです。
音楽の世界でも、既にある録音物を取り込んだり組み合わせる表現はあるわけですが、例えば複数の楽曲をつなげて流す行為によって「作曲者」を名乗る人はいなくて、その人は「DJ」を名乗り、利用する楽曲に敬意を払って、自らの創作性にも自覚と自負を抱く事ができます。曲を作った人だと思ってDJに作曲を依頼してもお互い困ってしまうわけで、そうした誤った期待を抱かせないための社会的なマナーというわけです。
AIは「道具」にもなるし「他人」にもなる
最後にちょっと恐ろしい比喩をしますが、AIを使うことは究極的に「他人を使う」事に近づいており、これはAIを使うことの便利さと限界を同時に表すような気がしています。
「プロンプト」などの言語によって命令できる、というのは他人に作業をお願いする際と同じで、それが通じるようになっただけで衝撃的なのですが、しかし同時に、「他人に通じるくらいに明確な言語化」ができていない作業は依頼できないわけです。これはAGIと言われるような人間と同等の知能が実現したとしても変わらない限界で、「私の頭の中にあるモヤモヤを言語化してくれ・音楽にしてくれ」という依頼は出力不能なので、自分で考えるしかありません。だからこそ、AIがどこまで進化してもクリエイターはいなくならないと思います。
AIを他人と考えると、AI製かどうかを表記するかどうかも、協力を依頼した他人をクレジット表記するかどうか、と似た問題に帰着できると思います。
他人に100%描いてもらった絵ならその人の名前つきで「◯◯さんに描いてもらった」と言うでしょうし、一部を手伝ってもらったのであれば「△△はxxさん担当」などと補足するでしょうし、一方、利用した一部素材の制作者まで全部調べて書くわけじゃないし、利用したツールのプログラマーまで列挙するわけがないので、そのあたりは聞かれたら利用した素材やツールを答えるくらいでしょう。そのクレジット一覧にAIという他人も貢献度によって入ったり入らなかったりする、のだと思います。
ビジュアルが担う「中心的な新しさ」
こう考えると、プログラミングや企画段階のAI活用に対してお咎めが少ないのも頷ける気がします。それらはコンテンツの下支えをする役割で、表に名前が出ることも少ないです。
一方で、ビジュアルはそのコンテンツの「新規性」「創作性」を誰の目にも明らかにするために、アーティストの名前とともに前面に出されます。それは同時に「パクリ」「トレース」といった揶揄をされないだけのオリジナリティが求められ、非常に厳しい世界でもあります。
私はこれをコンテンツの「中心的な新しさ」をビジュアルが担っている、という風に考えました。ビジュアルは新しさの中心にいるので、常に気にされますが、中身は実は他をコピーしてきても、「ガワ替え」をしているだけで許されてしまうといった場合もあります。中身を構成するゲームデザインや技術のどこが新しいのかは、専門的な知識のある人にしか評価されません。これは端的に人間の視覚優位な認知特性、似たビジュアルを見つける能力の圧倒的な速さによるもので、優劣ではなく役割の違いです。
だからこそ、AIがビジュアルを担当する場合は、それ以外を担当する場合と比べて、どのような「創作的寄与」によってオリジナリティを担保しているのかが厳しく問われるのではないでしょうか。
お金や人脈が無くても、AIという「他人」がいることで表現の幅が広がり、救われる人は多くなるはずです。そんな時代が到来しても、「自分」がどこまでを考え、設計し、意図を込めているかという事の重要性は変わらず存在し続けるのではないでしょうか。
長い記事を読んで頂いてありがとうございました。
私のその他の考察系noteは以下から。
