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ライトSFP #10: AIペア介護士

また一人、辞めた。

この半年、介護付きホーム「さくら野」では、入居者より退職者のほうが多かった。

ベッドは空かない。
職員の名前だけが、勤務表から消えていく。

佐伯亮一は、事務所の壁に貼られたシフト表を見上げていた。赤い修正テープの跡が、あちこちに残っている。

夜勤。早番。遅番。入浴介助。食事介助。記録確認。新人指導。
辞めた人の名前は消えても、その人がしていた仕事は消えなかった。

「佐伯さん、すみません。今日もリンさんの申し送り、最後だけ見てもらえますか」
施設長の宮原拓也が、事務所の奥から声をかけた。
「分かりました」
この職場では、その一言で仕事が一つ増える。

佐伯は介護歴十三年。その前は、電気部品会社で製造や技術の仕事をしていた。

図面を読み、機械を動かし、不具合を追った。機械相手の仕事は嫌いではなかった。ただ、自分は測定値より、歩幅や返事の間の変化に気づくほうが向いていると知った。

必要とされる仕事なら、なくならないと思って介護に移った。
仕事は、なくならなかった。
代わりに、する人が足りなくなった。

「サエキさん」
ベトナム出身の介護スタッフ、グエン・リンがタブレットを抱えて立っていた。
「白石さん、昼ごはん、半分です。薬、飲みました。でも、記録の日本語、これでいいですか」
リンは利用者への声かけが丁寧で、よく見ていた。だが、記録文になると手が止まる。

「『白石様、昼食摂取量五割。服薬確認済み。表情は穏やか』でいい」
「ヒョウジョウ、オダヤカ」
「そう。大丈夫」
そこへ、白石澄子が通りかかった。八十四歳。元小学校教師で、今も背筋がすっと伸びている。
「“穏やか”もいいけれど、“落ち着いている”のほうが、少しやわらかいかもしれませんね」
リンは困ったように笑った。

「シライシさん、日本語の先生です」
「小学校の先生です。でも、言葉は大事よ」
白石はリンの画面を見ながら、ゆっくり言った。
「間違えるのは、悪いことではありません」
「間違えたまま、一人にされるのが、つらいんです」

白石は人に教えるのが好きだった。リンには日本語を、若い職員には声のかけ方を教えた。

ただ最近、同じ質問が増えていた。夕方になると「教室へ戻らないと」と落ち着かなくなる日もある。
白石は忘れることより、忘れた自分を人に見られることを怖がっているようだった。
その週、「さくら野」が国の新制度「AIペア介護士」のモデル施設に選ばれた。
介護職がAIを使い、記録、見守り、申し送り、外国人スタッフ支援、家族連絡を行うための認定資格だという。
AIは食事量、睡眠、歩行、発話、服薬、ナースコールなどの変化をまとめ、申し送りの下書きを作る。短い日本語や母語のメモも、介護記録の形に整える。

ベテラン職員の田辺律子が鼻で笑った。

「資格を取ったら、人は増えるんですか」
「AIを入れる前に、人を入れてください。今足りないのは端末じゃありません」

佐伯も、説明役の講師に言った。
「利用者さんは、機械に介護されたくて、ここにいるわけじゃない」
講師はうなずき、画面に三つの言葉を映した。

AIは材料を出す。
人間が最終判断する。
判断を、ケアに変える。
「この資格は、AIを使うためだけのものではありません。AIに任せてはいけないことを知るための資格でもあります」

佐伯は、その言葉だけを覚えていた。
導入初日は、予想どおり混乱した。

通知は多すぎた。リンはAIの日本語を確かめるたびに佐伯を呼び、田辺はタブレットを持とうとしなかった。
宮原も研修用端末を持って食堂に立ったが、配膳の動線をふさぎ、田辺に叱られた。

「施設長、そこに立たれると邪魔です」
「すみません」

現場も分からない。AIも分からない。それでも分かろうとはしている。佐伯は少しだけ、宮原を責める気を失った。

数日後の夕方、白石が廊下に立ち、窓の外を見ていた。
「今日は何曜日でしたかしら」
「火曜日です」
「そう。火曜日は、五時間目に国語がありました」
「白石さん、少し休みましょうか」
「私は大丈夫です」
声は穏やかだった。けれど、固かった。

白石澄子さん|生活変化
直近七日間、夕方の発話に「学校」「教室」「帰る」が増加
昼食摂取量:三日連続低下
歩行時ふらつき・夜間覚醒:軽度増加
本人への確認と、夕方の支援方法の再検討を推奨
AIは気持ちを決めつけず、変化だけを並べていた。
白石が画面を見た。

「見張られているみたいで、嫌ですね」
佐伯はタブレットを下げた。
「すみません」

「機械にまで心配されるほど、私は弱っていません」
翌朝、今度は佐伯の画面に通知が出た。

佐伯亮一さん|業務集中

直近五日間、残業・夜勤明け記録・教育支援が増加
拒否対応、家族連絡、外国人スタッフ支援が一人に集中
面談または業務再配分を推奨
「俺まで見守り対象か」
佐伯は苦笑した。
宮原は笑わなかった。

「今日の午後、少し時間をください」
「ありません」
「だからです。AIに言われなくても皆、分かっていた。でも、分かっているだけで、佐伯さんに集め続けてきた」
佐伯は返事をしなかった。

事件は、その三日後に起きた。
午後四時半。白石は食堂の窓際に立っていた。

「そろそろ学校へ帰らないと。子どもたちが待っています」
リンはその言葉が気になった。だが、食事介助の準備とナースコールが重なり、その場では短いメモだけを残した。

白石さん。学校、帰る。子ども、待っている。
午後五時十分。白石が、施設内からいなくなった。
職員たちは居室、食堂、浴室、トイレを確認した。佐伯は玄関の通過記録を開いた。

出入口センサー|16時52分

職員の通過に重なり、一名が退出した可能性
映像認識:不明瞭
未確認通知として保留
アラートは出ていた。ほかの通知に埋もれていた。
田辺の顔色が変わった。

「白石さん、夕方、何て言ってた?」
「学校、帰る。子ども待ってる、言いました」
宮原が警察と家族に連絡し、緊急捜索モードを起動した。
AIは、リンの短いメモ、田辺の申し送り、佐伯の記録、白石の生活歴シートをつないだ。

学校。教室。火曜日。国語。子どもたち。桜の坂道。
田辺が画面を指した。
「桜の坂道。前に話してた。昔勤めていた小学校へは、桜の坂を上るって」
公開地図と照合すると、候補が三件に絞られた。最有力は、白石が勤めていた旧南町小学校。今は地域交流センターになっている。
施設から、歩いて二十二分だった。
旧南町小学校の門の前に、白石は立っていた。

夕方の風が、細い髪を揺らしている。閉じた門の向こうを、じっと見つめていた。

「白石さん」
息を切らした佐伯が呼ぶと、白石は振り返った。
「遅くなってしまいました」
「何がですか」
「五時間目の国語です。子どもたちが待っています」
ここはもう学校ではありません。帰りましょう。そう言えば、白石の大切なものまで否定してしまう気がした。
佐伯は白石の隣に立った。

「今日は、もう授業は終わりました」
白石は門を見つめたままだった。
「そうですか」
「はい。みんな、ちゃんと帰りました」
白石の肩から、少し力が抜けた。
「なら、よかった」
佐伯は手を差し出した。
「施設まで、一緒に帰りましょう」
「私は、まだ歩けます」
「分かっています。だから、一緒に歩きます」
帰り道、佐伯のタブレットが震えた。

白石澄子さん|転倒リスク上昇

単独での連続歩行は非推奨
短い休憩を挟み、歩行状態を再確認してください
佐伯は画面を閉じた。
「白石さん、あのベンチまで歩いて、一度休みましょう。それでどうですか」

白石は少し笑った。
「先生に、休み時間をくれるのね」
「はい。今日は特別です」
AIは白石に「歩くな」と命じたのではない。佐伯に、歩き方を変える材料を渡した。

施設へ戻ったあと、宮原はすぐに会議を開いた。
「AIは情報を拾っていました。でも、通知が多すぎて埋もれた。運用の失敗です」
田辺が首を振った。

「AIだけの失敗じゃないよ。私も、リンさんも、佐伯さんも気づいてた。みんな、別々には見てたんだ」
画面には、田辺のメモ、リンの記録、佐伯の申し送り、食事量、夜間覚醒、発話内容が並んでいた。
全部、あった。

ただ、つながっていなかった。
「AIが白石さんを見つけたわけじゃない」
佐伯は言った。
「俺たちがそれぞれ見ていた白石さんを、一つにつないだんです」
宮原はうなずいた。
「AIが現場を救う、とは言いません。でも、気づいた人を一人にしない仕組みにはできます」

その日から、重要通知は通常通知と分けられた。出入口の未確認通知には、確認する職員の名前が自動で割り当てられるようになった。
職員への負担通知は本人だけに返さず、毎週の配置会議で扱うことにした。佐伯が善意で引き受けていた教育と記録確認も、勤務表に「支援業務」として入った。
リンは短い日本語のまま記録を残せるようになった。AIが介護記録の形に整え、元の言葉も並べて表示する。最後に確定するのはリン自身だった。
ある日、リンが入力した。

白石さん、今日、学校へ帰ると言った。顔、いつもより急いでいた。
田辺は整えられた記録と元の文を見比べて言った。
「見る力は、日本語のうまさでは決まらないんだね」

白石のケア方法も見直された。夕方に学校へ戻ろうとするときは、記憶を否定せず、「今日の授業は終わりました」と伝える。
入浴や更衣は、本人が落ち着きやすい時間を優先する。「先生」と呼ぶと表情が固くなる日は、「白石さん」と呼ぶ。
AIが感情を理解したわけではない。ただ、白石が傷つかずにすむ順番を、記録の中から探した。

その月の終わり、佐伯はAIペア介護士の修了証を受け取った。
名札の下に、小さな認定プレートが付いた。認定者には月一万五千円の手当がつき、教育や記録確認の時間も正式な業務として配置される。
田辺が名札を見て言った。

「似合わないね」
「自分でもそう思います」
「でも、前より顔を上げる時間は増えたんじゃない」
記録は少し早く終わるようになった。夜勤明けの残業も減った。人手不足が消えたわけではない。それでも、これまで善意で片づけられていた仕事に、名前と時間と値段がついた。

記録を整えること。外国人スタッフを支えること。利用者の変化を読み取ること。AIの出した情報を、現場の判断に変えること。
佐伯が一番変わったと感じたのは、画面を見る時間ではなかった。利用者の顔を見て話す時間だった。
ある午後、佐伯は白石の居室を訪ねた。
白石は窓辺に座り、昔の教え子から届いた葉書を読んでいた。

「佐伯さん」
「はい」
「今日の私は、何を忘れていましたか」
佐伯は、腰のタブレットに手を伸ばしかけて、やめた。
「今日は、何を覚えていましたか」
白石は少し考え、静かに笑った。
「授業が、終わったこと」
「それなら、お茶にしましょう」
そのとき、佐伯のタブレットは静かなままだった。

誰かが気づくべきことを、今日はもう人間が見ていた。
AIが人の代わりに立つのではなく、人が人のそばを離れなくてすむように、必要なときだけ声を上げる。

その余白を、佐伯は初めて「ペア」と呼べる気がした。


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