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“出る杭”は打たれる日本社会、では“浮く杭”はどうなる?


📌前回のエピソードはこちら



「普通にしてたらいいのに」
「目立たない方が得よ」

そんな言葉が、美徳として語られてきた国で、私は育った。
小学校の時から、なぜかクラスの輪から少し浮いてる存在だった。

クラスメイト全員が大声で笑っているとき、
私はその“笑いの輪”を避けていた。

「この人たちは、なぜ“一緒に笑う”ことに必死なんだろう🤔」

そんな風に分析しては、ひとりだけ冷めた顔をしてしまう自分がいた。

私は別に、反抗したかったわけじゃない。
ただ、なじめなかっただけ。

感じることに対する見え方が違う。
そして、見えてしまうものが多すぎた。

その結果、
「変わった子」とラベリングされてきた。

彼らに悪気はない。
でも、社会は悪気なく人を傷つける。

私はたまたま、それを「褒め言葉」として
受け取り喜んでいたが、きっと稀なタイプだと思う。


「ふつう」という在り方の正体

日本社会において、「ふつう」であることは、
単なるスタイルではなく、
社会的なステータスとして機能している。

就職面接では
「協調性があります」
と言うことが推奨される。

SNSでは「共感されやすい言葉」を
使うほど“イイね”が増える。

学校でも会社でも、
「みんなと同じようにできるか」が、
評価の+ポイントになる。

でも、ちょっと考えてみてほしい。
「ふつう」って、どこに線引きがあるんだろう?
いったいそれは・・・何?

周囲に溶け込めば「ふつう」で、
違えば「変わり者」なのだろうか。

それって
“所属するための暗黙のルール”
が優先され、
人そのものの価値は二の次
にされてないだろうか。

私の知るギフテッドの人たちは、
知能や才能というより、
違和感を感じる力を持っていた。

その違和感は、
社会の「ふつう」に対して無意識に
「なぜ?」と問いかける力でもある。

「なぜ朝9時に集まるのが当然なのか」
「なぜ怒鳴る上司が許されているのか」
「なぜ”昔からそうだったから”という理由だけでそれを続けるのか」

その問いに明確な答えが返ってくることは、少ない。

多くの人が「それが”ふつう”だから」と言う。


「出る杭」は打たれる。
でも、「浮く杭」はどうなる?

「出る杭は打たれる」という言葉があるけれど、
実際には打たれもしない杭もいる
目立たず、声も上げず、
ただそこに“浮いている”人たち。

これは、ギフテッドの子どもやHSP、
マイノリティに多いはず。
本人は合わせようと努力しているのに。

けれど、どこかで「自分らしさ」
ではないことに耐えられなくなる。

少しずつ言葉を失い、
身体が動かなくなり、

ある日、学校や会社、
そして社会に出向けなくなる。

私の夫🐻も毎日"それ"と闘っている。

とある会議での出来事。
「出る杭は打たれる」とマインドセットされた大人たちが集まる場。
当然ながら発言する者は一人もいない。

言わない方が「安全」だから。
打たれると痛みも伴う。
さらにプライドを守ろうとする。

夫🐻はそこに大きな違和感を抱いている。

日本特有の
「年功序列」
「部下による上司への申し入れは潰される」
などの古き慣習がまだ深く根強く浸透している。

そんな社風が漂う会議で、
夫🐻は心の中でジレンマを抱えている。

「どうして、みんな“中身のない会話”を交わし、
仕事してるかのように振る舞えるのか。」

それとも、彼らは彼らなりにその議案に対し、
真剣に向き合っているのかも知れない。

結論を出せないまま、言い訳だけ並べる。

そして、“仕方がないよね”
という共感を仰ぎ、物事を進めようとする。

と、夫は常に自問自答していた。

夫は決して“出すぎた杭”ではない。
ただ、“浮いている杭”として、
今でもずっと居場所を探し続けている。

見た目には順応しているように見える人ほど、その内側で苦しんでいることがある。

「社会に適応できていない」と判断される人の多くは、
実は、器用すぎるが故に、
“適応しすぎて壊れてしまった人”だったりするのだ。


「適応すること」が"すべて"ではない社会へ

“適応”という言葉は、一見ポジティブに聞こえる。
でも、その社会が壊れているなら、
適応しないことの方が健全」な場合もある。

例えば、過剰な忖度文化、建前ばかりの人間関係、無意味な長時間にわたる会議…
そんなものに適応して、心と身体をすり減らしていく。

それは「我慢強い」んじゃなくて、
「麻痺してる」だけかもしれない。

「適応できない人」を“落ちこぼれ”扱いするのではなく、
むしろその浮いた感覚にこそ、
社会を変えるヒント
があるとしたら?

実際、ギフテッドと呼ばれる人たちの多くは、
社会の非合理を見抜く“センサー”の感度が高い。

それは、「変化を拒む人たち」にとっては
”異物”かもしれないけれど、
「変わらなきゃいけない社会」にとっては、
必要な存在のはずだ。

この国には、“枠からはみ出す勇気”
を評価する文化がまだまだ浸透していない。

けれど、時代が本当に動くときは、
いつも「違和感」から始まっている。

「これは変だ」と思う人の声が、
社会の分岐点をつくり、
"イノベーター"となっているのに。

人はみな、彼らが良い結果を出すまでは、
彼らのことを「浮いている人」と呼ぶ…。


「あなたは変わってるね」は、
どう聞こえる?

私は何度もこの言葉を言われてきた。
最初は、「変わってる=浮いている」だと思っていた。
でも今は、こう思っている。

「あなたは変わってるね」は、
「私は"ふつうの人”だったら気づけなかった」
ってことかもしれない。

変わっているからこそ、見えるものがある。
変わっているからこそ、言える言葉がある。

”ふつう”であろうとしたとき、
私は自分の心を削っていた。

”浮いている私”を肯定できたとき、
ようやく深呼吸ができた。

誰かの“変わってる”が、
社会の風通しをよくすることもある。

私が声を上げたとき、改革を実行したとき、
多くの人に認められなくてもいい。

それから月日が経ち、結果的には良い変化になっても、
"ふつう”の人にとってはもうすでに「当たり前」として浸透している。

あんなにも「おかしい」「間違っている」と
抵抗していたことなんて、もうすっかり忘れている。

それでもいい。
私はそこに存在意義を求めていないから。

私はこれからも、少し浮いた状態のまま、
生きていこうと思う。

そして、もしこの記事を読んでくれている人が、
自分の「浮き」を感じていたなら、
それは、あなただけに与えられた“らしさ”。

みんなに合わせて「沈む必要なんてない」のです。


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いつも夫は「クロワッサンの匂いがいちばんの癒し」と言っています。執筆をそっと応援してくださる方からのチップ💚で、今日も夫に一つ、おいしいご褒美🥐を届けられたらうれしいです。

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