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高校野球、ベンチ外の夏。僕の野球はあの日一度、死んだ。

静かな敗戦

目の前では、負けたチームメイトたちが泣き崩れていた。 2014年、最後の夏。強豪・福知山成美に大差で敗れ、僕たちの高校野球は終わった。

マウンドで最後まで戦い抜いたのは、後にプロの世界へと羽ばたくエース・上茶谷大河だった。彼を含むナインが流した涙は、全力を出し切った者だけが許される、美しく、残酷なものに見えた。 スタンドでそれを見つめる僕の目には、一滴の涙もなかった。

冷めていたわけじゃない。僕の野球は、この試合が始まるずっと前、3年の春に一度死んでいたからだ。

監督からの「二択」

3年になる春。大会に挑む20名が発表された後、ベンチ外の3年の数名が監督から呼び出された。
告げられたのは「夏の大会でもベンチ外になる」ということ、この時点で戦力外ということだ。

監督からこれからの僕たちに与えられた選択肢は二つだった。

「これからはメンバーのサポートに回ってもらうか、受験勉強をするか、どうするかは君たち自身で決めてくれ」

そう告げられたとき、僕は意外なほどあっさりと「受験勉強」を選んだ。泣いてすがることも、食い下がることもなかった。両親や担任、監督にも、すぐに「切り替えて勉強します」と伝えた。

でも、今振り返れば思う。 17歳の僕がなぜあんなに物分かり良く、淡々と「選手」であることを辞められたのか。それは、当時の僕にとって、高校の部活動、特に野球部という世界で「下手な選手」が生き残れる選択肢なんて、どこにもなかったからだ。

残酷な結果だが、高校野球の時間は短い。この前入学したと思えば2年もすればもう最後の大会になってしまう。その中で選手だけでなく学校、監督たちも結果を残さなければいけない。

あきらめるしかなかった。それ以外の道が、最初から用意されていなかった。

和歌山での「本当の引退」

部活には勉強が終わってから少し顔を出してメンバーにノックを打ったりする日々。

そして6月、僕たちベンチ外となった選手に和歌山の高校で引退試合の場を用意してもらった。
僕はセカンドで出場。同じく受験勉強を選んだ親友と二遊間を組むも、この3か月いままでほどの運動をしてこなかった影響で足が攣ったりした。
運動不足も相まってヒットも打てず試合が終わった。

唯一よかったのは親友とゲッツーが取れたこと。

その試合には母親が観戦しにきていた。
これで野球が終わった。と実感した。そしてあの高校野球生活を支えてくれたにもかかわらずベンチにも入ることができず、最後まで晴れ姿をみせられなかったことが悔しくて涙を流しながら謝った。
母親は「全然ええんやで、お疲れ様」と言ってくれた。

チームとして福知山成美高校に敗れた最後の試合よりもこの引退試合が僕の感情を最も大きく動かした試合になった。

野球は「死んで」いなかった

野球部の同期たちは最後の大会に向けグラウンドで汗を流す中、僕は教室でこれまでにないほど机に向かって勉強していた。

おかげで学業では僕でもコース内でトップレベルの成績にまで向上した。

夏の大会が終わり、周りの同期たちは指定校推薦などで進路が決まっていく中、僕は志望校に合格するため勉強をつづけた。
その甲斐もあって、第1志望には届かなかったが、3年の春時点では想像もできなかったくらいの大学の試験に合格し、大学生になることができた。

大学に入ると、気が付けば当たり前のように軟式野球部や野球サークルの体験会に顔を出していた。

高校のときは引退試合で「野球のすべてが終わった」と思っていたのに、何もなかったかのようにケロッとして新たに野球をする場所を求めている。

結果的に大学で用意された活動には参加せず、地元の同級生たちと草野球チームを立ち上げることになって地元の大会に参加した。

そのチームには高校野球から上がったばかりのメンバーが集まっただけあって、大会ではそこそこのところまで勝ち上がることができた。やっぱり試合に出られるのが一番楽しい。

そこで気が付いたのは、高校野球における「甲子園」という目標の大きさと、サークルや草野球くらいの僕のレベルでの目標の大きさは異なるものの、いずれも「仲間とともに戦って勝利を目指し試合に挑む」ということに違いはなく、野球そのものは心の底から好きだったんだと実感できた。

ドイツで見つけた、日本に足りない「第3の選択肢」

それからしばらくして、大学在学中にドイツへ留学することとなる。そこで僕は現地のクラブチームに所属して野球を再開すると、日本の常識が通用しない「野球の風景」に出会った。

言語の違いがあっても、向こうでもスポーツを楽しむという本質的な姿勢は変わらない。ただ、仕組みが違った。

ドイツには甲子園みたいな日本中が注目する学生向けの大会はない。これは日本よりも野球がマイナースポーツだからではない。
でも、どのスポーツもどの年代にも階層制の仕組みがあって、競技レベルに関係なく試合に出られる環境が整っている。

ドイツのグラウンドで見つけたのは、プロを目指す若者も、週末を楽しむおじさんも、同じ熱量でバットを振る光景だった。 そこで僕が確信した日本に足りない「第3の選択肢」。それは、「上手いか下手かに関わらず、誰もが自分のレベルで『主役』であり続けられる仕組み」だった。

そんな環境を目の当たりにしてプロでもないのに「上手くないなら、辞めるしかない」という日本のスポーツ環境は、あまりにも極端ではないか?と感じた。

つまり、母校や監督が悪かったんじゃない。この国には、上茶谷のような才能を持った選手を受け入れる「箱」はあっても、僕のように「ただ野球を続けたい凡人」を受け入れる箱が一つしかなかったことが問題だと考えている。だから僕は、ITの力でその箱(クラブ)を無数に作れる仕組みを創る。

『OPEN PARK BASEBALL』とシステムで、日本のスポーツの未来を塗り替える

僕が歩んだ高校時代。試合に出られず、野球を「味わい尽くした」とは到底言えない。けれど、得られたものも確かにあった。根性で乗り切る力も、プロへ進む同期との出会いも、あの過酷な環境があったからこそだ。

けれど、あの日々を肯定することと、今のシステムを維持することは別だと思う。

高校野球のような極限の競争を求めているわけではない。けれど、ただ「仲間と野球を続けたい」。そんな当たり前の願いを持つプレイヤーにとって、「別の選択肢がある」という事実は、どれほどの救い(セーフティーネット)になるだろうか。

いま、日本のスポーツ界は「部活動の地域移行」という巨大な転換期にある。この流れの中で、僕は日本のスポーツ環境をアップデートしたいと確信している。

僕はタイムマシンを作って、過去の自分をマウンドに立たせることはできない。 でも、いまこの瞬間も、日本のどこかで「二択」を迫られ、スポーツを諦めようとしている少年少女に、「第3の選択肢」を手渡すことはできるはずだ。

そのために今、僕が進めている具体的な挑戦がある。

ひとつは、自身で培ってきたコミュニティ運営のノウハウとITシステムを掛け合わせた個人参加型野球プラットフォーム『OPEN PARK BASEBALL』の展開だ。 「誰もが安心して、ふらっと野球を楽しめる仕組み」を日本各地へ広げていくことで、どんな街にも「自分らしく野球を楽しめるハコ」を増やしていく。

そしてもうひとつが、それを裏側から支える専用のWebプラットフォーム開発だ。 決済や出欠確認といった煩雑な事務作業を徹底的に自動化・システム化することで、指導者や運営者をストレスから解放し、一人ひとりの選手や参加者と向き合える時間を創り出していく。

誰もが自分のレベルに合った場所で、主役として泥にまみれ、コミュニティに誇りを持てる環境を日本中に作ること。

あの日、和歌山の球場で流した「もう居場所がない」という涙を、次の世代には流させない。

スポーツの「運営」を「価値」へ。 僕は、日本のスポーツの未来を、現場とデジタルの力で塗り替えていく。

最後に

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

いま僕は、この「第3の選択肢」を日本中に実装するために、『OPEN PARK BASEBALL』の展開と、それを支えるWebプラットフォームの開発を推し進めています。

  • 同じように「ベンチ外」の悔しさを抱えたことがある方

  • 地域移行の波の中で、新しいクラブの形を模索している指導者や運営者の方

  • このビジョンに共感し、一緒に「日本のスポーツの未来」を創ってくれるエンジニアやビジネスサイドの仲間

ぜひ、コメントやメッセージをいただけると嬉しいです。一緒に、次の世代の「居場所」を創りましょう。


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