やりがいは「配る」ものだと思っていた ── 感謝を共有することの、本当の意味
この記事について
対象読者
職場の「ありがとう」や手応えを、チームに広げたいと考えている方
伝えたつもりのことが、なかなか相手のなかに残らない、と感じることがある方
働きがいを、仕組みでどこまで扱えるのか気になる方
要点
仕事の意味や手応えは、人から配れるものではなく、本人のなかにしか生まれません。それでも残せるものはあって、何が消えて、何が残せるのか、その境目を考えてみました。
前回、働きがいは人から与えられるものではない、と書きました。今回はその続きで、もう少し奥まで掘ってみます。
仕事の意味や価値観は、人から配るものではなく、自分で見つけるものだ。だから上司は、自分の価値観を語って部下を動かそうとしないほうがいい。むしろ逆効果になる。
そういう考え方があります。
私もこれにはかなり共感します。意味は外から手渡されても、なかなか腹に落ちません。自分で掴んだときに、ようやく効いてくる気がします。
前回書いたことと、根は同じです。
ところが、私自身、かつてはその逆をやっていました。
いざ人を率いる立場になると、お客さまの「ありがとう」を集めて、みんなに見せたくなる。はじめは、ただ感謝の声を並べていました。
それだけでは弱いと気づいてからは、「この対応の、ここがよかった」と、何がよかったのかまで添えるようにしました。そこまでやれば意味は伝わるはずだ、と思っていました。
でも、それでも、こちらが思うようには届きませんでした。
ひとつは、嬉しさそのものが、その場かぎりのものだからです。「ありがとう」はもらえれば嬉しい。けれど、その嬉しさは、しばらくすれば薄れていきます。
集めてみんなに見せても、見ている側のなかで同じようには響きません。
もうひとつ。たとえ「何がよかったのか」まで取り出せても、一度語って終わりにすれば、やはり消えていきます。
その場にいた人の記憶に少し残るだけで、いなかった人には届きません。せっかく取り出した中身まで、その場かぎりで消えていく。
思い返してみると、私自身、手応えとして残っているのは、誰かに「ここがよかった」と言われた言葉そのものではないことが多いです。残るのは、たいてい、自分のなかで何かが結びついた瞬間や、別の場面で「これは前のあれと同じだ」と気づいたときのほうです。
外からの言葉が無駄になる、という意味ではありません。きっかけにはなります。ただ、それが手応えになるかは、本人のなかで何が起きるかしだいです。
手応えも、仕事の意味も、本人のなかにしか生まれません。
だから、外から用意された手応えらしきものを、そのまま配ることはできません。では、何もできないのか。そうではなくて、ひとつだけ、できることがあると思います。
その場で起きていた中身を、消えない形にして残しておくこと。
これは、手応えそのものとは違います。手応えを外から渡すのではなく、次の人が自分で手応えを見つけるための、手がかりです。
残しておきたいのは、その場で何を見て、どう考えて、どう動いたら、どうなったのか、という中身のほうです。言われたとおりに動くだけでは、こうした中身は出てきません。これを言葉にして、誰でも手の届くところに置いておく。
こうした考え方は、私の思いつきではありません。
トヨタには「A3レポート」と呼ばれる仕組みがあります。一枚の紙に、起きた問題、何を見て、どう考え、どう動いて、どうなったかまでを書きとめる。文書の体裁ではなく、考え方そのものを、誰の目にも触れる形で残すための型として使われてきたものです。
NASAにも、Lessons Learnedと呼ばれるデータベースがあります。過去のプロジェクトで何が起きたか、なぜそう判断したかを集めておいて、後から来るエンジニアがいつでも検索できるようにしてあります。
どちらも、せっかくの中身を、その場で語って終わりにしないための、組織としての工夫です。
私自身、引き継ぎの場面で似たことをやっていました。頭のなかにあった判断の勘どころを文書に起こしてAIに渡し、ときどき手を入れながら、後任が困ったときに引き出せるようにしておく。組織が制度としてやってきたことが、いまは個人の手元でも、気軽にやれる時代になっています。
もちろん、何もかもを言葉にできるわけではありません。やってみせるしかない勘どころは、どうしても残ります。
だから、書き留められるのは、言葉にできる範囲にかぎられます。それでも、書き留めた一行は、その場にいなかった人にも届きます。全部は無理でも、種は渡せる。
残した記録は、命令にはなりません。
意味を配ろうとすると、「これだけ感謝されているのだから、もっとできるはずだ」と、外からの押し付けになりがちです。組織の行動指針を、立派な言葉として整えてみんなに見せる、というのも、根は同じだと思います。言葉そのものがどれだけ整っていても、それだけではなかなか刺さりません。
でも、「こういう場面で、こう考えて動いたら、こうなった」という記録は、ただそこに置いてあるだけ。読まれずに眠ることも、あるでしょう。
要領のいい人は、一度聞いた話をその場で手がかりにして、その後の自分の地図につなげられます。ただ、たいていはそうはなりません。だからこそ、いつでも手の届くところに置いておいて、本当に手がかりになるときに備えておく。
伝える側にも、形を変えて同じことが起きていると思います。熟練者は、自分のなかでもう繋がっているぶん、一度伝えれば伝わると思ってしまう。でも、繋がっているのは伝える側のなかだけで、受け取る側の地図に同じ繋がりが用意されているとは限りません。
書けば、この問題が消えるわけでもありません。書くときも、自分のなかで繋がっているところは、つい飛ばしてしまいます。ただ、語った言葉が、届いたかどうかも確かめられないまま消えていくのに対して、書いたものは、届いていないと分かったときに、直せます。
必要な誰かが手を伸ばせる場所にある。その一点が、その場かぎりの話とは大きく違ってきます。

言葉は、意味を配るのではなく、受け取った人が自分の手応えを見つけるための、手がかりを渡します。
そして、これは感謝があるときだけの話ではありません。
お礼の言葉がなくても、うまくいったこと、よく考えて動けたことを、書き残しておく。それ自体が、次の人の手がかりになります。
誰かに褒められたかどうかは、関係ありません。よかったことを、消えない形にしておく。それだけのことです。
ここで、はじめの話に戻ります。
私がつまずいていたのは、感謝を、その場の気持ちのまま配ろうとしていたところでした。何がよかったのかまで説明できたときも、語って終わりにして、中身そのものは消えるままにしていました。
感謝は、配れません。
でも、その「ありがとう」が生まれた現場で、誰が、何を見て、どう動いたのか。そこは、残せます。
それを残しておくことが、感謝を分かち合うことの、本当の意味なのかもしれません。
こうしてみると、私が立てるべきだった問いも、はじめとは違っていたのだと思います。「働きがいを、仕組みで配れるか」ではない。
問いは、「何が残せて、何が残せないのか」です。
残せないのは、その場の気持ちと、手応えの実感でした。これは、いくらみんなに見せても、本人のなかには届きません。
残せるのは、何がよかったのか、どう考えてそうしたのか、という中身のほうです。誰かが考えて動いた一回を、言葉にして、次の人の手が届くところに置いておく。
前回、仕組みにできないものを残せるのは言葉だけだ、と書きました。あのときは「仕組みか、言葉か」という線で考えていましたが、いま思えば、あれはこの「残せるほう」の話を、別の線から指していたのだと思います。
それでも、消えると分かっていても、つい見せたくなります。私が感謝を集めて見せようとしたのも、その善意が、ただ素直に出ただけのことでした。
間違いというより、善意の置きどころを、少し取り違えていたのだと思います。
書いて残せばそれですべてが片付く、というわけでもありません。残し方、読まれ方、時間が経ったときの色あせ方など、答えのまだ出ていないところもいくつかあります。それでも、書いてみて、読まれ方を見て、整えていく側に立ちたい、と今は思っています。
ここまで、見せる側として書いてきました。最後に、見せられる側のことも少しだけ。
集められた感謝の声を見せられて、ぴんとこなかったとしても、それは受け取り方の問題ではありません。そこにあるのは、誰かの手応えだからです。
自分の手応えは、手がかりさえあれば、自分で見つけられます。誰かが渡してくれるのを、待つ必要はありません。
私にできるのは、配れないものを無理に配ろうとする代わりに、残せるものを、消えない形で置いておくこと。たぶん、それくらいです。
