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「私はこうしてきた」は届かないことがある ── 任せると、相手は自分で取りに行く

この記事について

対象読者

  • 後輩やメンバーに、自分の経験や考えを言葉にして伝えている方

  • 「私はこうしてきた、だからこうしてみたら」と言ったあと、相手がうまく動かないと感じることがある方

  • 何を言うか以前に、どう渡すかで迷うことがある方

要点

判断や工夫を口で伝えると、内容はちゃんとしていても押しつけになりがちです。同じ中身でも、置いておいて相手が自分で取りに行けたとき、初めて手がかりになる ── そう感じる場面が、いくつかありました。



以前、その場で起きていた中身は残せる、という記事を書きました。

ただ、書いて残せばそれですべて片付くわけではない、とも書きました。残し方そのものは、まだ答えが出ていない、と。

今回は、その続きです。

そのときは、書くか書かないか、で考えていました。書いておけば、その場で語って消えるよりも、後の人に届くだろう、と。

ただ、振り返ってみると、書くか書かないか、だけが分かれ目ではなかった気がします。

書かずに、口で渡している場面を、これまでよく見かけてきました。

そして、口で渡されたものは、書いたものとは違う届き方をしていました。


口で配られる「なぜ」

よく見かける場面があります。

立場のある人が、後輩やメンバーに話をしているとき、自分の判断や工夫を言葉にして渡そうとしている。

「私はこのとき、こう考えてこうしてきた。だから、ここは、こうしてみたらどうか」

中身は、ちゃんと出ています。手順だけでなく、なぜそうしたか、まで添えてある。経験を惜しまずに渡そうとしているのが、分かります。

それでも、受け取った側が、すっと動き出すか、というと、そうとは限らないようです。

返事はします。指示にも従います。でも、本人のなかから、新しい動きが立ち上がってくる感じが、しません。

言われたから、やる。

やらされている感じが、そこには残ります。

中身は良いのに、なぜか、本人のものにならない。


押しつけになる

なぜ、本人のものにならないのでしょうか。

受け取る側に、立ってみます。

「私はこう考えてこうしてきた、だからこうしてみたら」と言われたとき、聞いている側には、考える余白が、あまり残りません。

その場で、受け取るかどうかを返さないといけません。考えたうえで受け取った、というより、断れずに受け取った、に近くなります。

中身は、正しいかもしれません。それでも、自分のタイミングで、自分のなかで考えて、受け取った、という感じには、なりにくい。

これは、押しつけになります。

押しつけている自覚は、たぶん、渡している側にはありません。良かれと思って、考えを言葉にしているだけです。

それでも、受け取る側の余白を考えると、それは押しつけになる。

私自身、後輩に対して、何度かそうしてきた覚えがあります。経験を渡したい気持ちが先に立って、その場で言葉にしてしまう。あとから振り返って、あれは押しつけだったかもしれない、と思うことが、ありました。

押しつけに見えるのは、強い言い方のときだけではないと思います。「たぶん、こうしたほうがいいかも」と柔らかく言っても、聞いている側に、その場で受け止めるしかない構図があれば、効果は変わりません。

言葉の強さよりも、受け取る側に余白があるかどうか、のほうが効いている気がします。


置いておくと、自分で取りに行く

ところが、これと逆の場面も、見てきました。

あとから知ったのですが、私が以前残しておいたものを使って、誰かが自力で解決していたことがありました。私は何かをしたわけではなく、ただ置いてあっただけです。本人が、必要なときに、自分で見つけて、自分で動いていました。

そのときの本人のなかには、たぶん、解けた、という手応えが残ったはずです。誰かに言われてやった、ではなく、自分で見つけて、自分で考えた、という形で。

思えば、若い頃の私自身も、似たことをしていました。

困ったとき、誰かに訊くより先に、残されている文書や、書きとめられたメモを、自分で探して読みに行く。読みながら、自分の状況に置き直して、考える。当時は、そうするのが当たり前だと思っていました。

いま振り返ると、そうやって自分で見つけたものは、なぜか、長く残っていました。

口で「こうすればいい」と言われたら、たぶん同じことは起きなかったと思います。言われたとおりにやって、できた、で終わっていたはずです。

中身は同じはずなのに、届き方が、こんなにも違う。


違うのは、押しつけないこと

中身は同じでも、届き方が違うのは、なぜでしょうか。

口で渡されると、受け取る側は、その場で受け取らないといけません。聞いている時間も、答える間も、渡す側が決めています。受け取るタイミングを、本人は選べません。

置いてあるものは、違います。本人が、困ったときに、知りたいと感じたときに、自分で取りに行きます。

取りに行く理由が、本人のなかにあるからです。

動機の研究の分野でも、人が自分から動くには、自分が動きの起点だ、と感じられることが要る、と古くから言われています。指示で動かされているかぎり、その感覚は育ちにくいようです。

これが、押しつけになるかどうかの分かれ目だった気がします。

口で渡されると、中身が良くても、押しつけになります。考える前に、受け取ることになるからです。

置いてあるものは、押しつけになりません。本人が、自分で取りに行ったときに、はじめて手元に来ます。考えたうえで、受け取った形になります。

取りに行くタイミングは、相手のなかにあります。本人が必要だと感じたとき、自分で読みに来る。あるいは、自分から聞きに来る。どちらでも、動きの起点は本人の側です。

つきつめると、こういうことだと思います。

こちらから渡されたなぜは、押しつけになる。置いておけば、相手が自分のタイミングで取りに行ける。


だから、書いておく

こうしたことを思うようになってからは、口で渡したくなった気持ちを、少し脇に置いてみるようになりました。

良かれと思って言葉にしたくなる場面で、いったん書く側に回ってみる。あとから、本人が必要なときに、自分で見つけられる形で置いておく。

そうしておけば、本人が読みに来たときに、はじめて言葉が届きます。読まないかもしれません。読んでも、自分の場面に合わないと、置いていくかもしれません。それでも、いいのだと思います。

書く時間がかかる、と言われたことがあります。口で言えばすぐ済むことを、書くにはひと手間かかる。たしかにそうです。

ただ、口で渡したそのひと言は、押しつけになりやすいひと言でもありました。

書いて置いておくひと手間は、相手が読まないかぎり、相手の時間を奪いません。読みたい人が、読みたいタイミングで、読みに来る。そういうひと手間だと思えば、長くはない気がします。

書くのは、なぜを残すためであり、それ以上に、なぜを押しつけないため。


書く以外にも、道はある

書いて置いておく以外にも、押しつけないやり方はあります。

問いの向きを、相手に返すことです。前に別の記事で、「なぜできなかったの?」ではなく「なぜうまくいったの?」と聞くと、本人の口から手順が出てくる、ということを書きました。

本人が自分で言葉にしたものは、最初から本人のものです。

書くことも、問うことも、どちらも、こちらから渡すのをやめる、という同じ方向だった、ということなのかもしれません。


残し方の答えは、相手に任せることだった

以前、残し方は、まだ答えが出ていない、と書きました。

いまのところの答えは、相手に任せること、です。

全部を書こうとしなくていい。残すなら、なぜそうしたか、のほうです。あとは、置いたあと、本人が取りに来るのを、ただ待つ。

読まれないかもしれません。それでも、いいのだと思います。読まれないものは、押しつけになりようがありません。読みたい人が、読みたいときに、自分で取りに行く。それだけで、十分のような気がしています。



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