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【安全な港の物語 第7話(前編)】私の天気はいつ変わる?〜56歳・清水久美子、限界かもしれない〜

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■ このシリーズについて
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ウェルビーイング・ナビゲーター G-Mate(後藤 学)が考える「ライフキャリア航海モデル」をもとにした、短編小説シリーズ「安全な港の物語」です。

登場人物は架空ですが、老若男女、多くの方が抱えるリアルな悩みをベースに描いています。

物語の登場人物は…
今のあなた自身かもしれません。
過去や未来のあなたかもしれません。
あるいは、あなたの大切な人かもしれません。
みんな、様々な天気の中で生きています。

【用語のミニ解説】
・G-Mate=「人生の相棒(Mate)」でありたいという想いを込めた相談室
・キャリア天気図=心とキャリアの状態を5つの天気で可視化するツール
・コンパス=自分の本当の価値観
・装備(リュックの中身)=今までの経験や知識、人間関係、資産など
・航海図=これからの人生計画
・安全な港=安心して立ち寄れる相談場所

▼過去の1話完結「安全な港の物語」シリーズ



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プロローグ
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電話がかかってきたのは、火曜日の昼過ぎだった。

午後の混み合う時間、久美子は店のレジにいた。
レジには列ができており、久美子とパートの女性二人が忙しく接客していた。

久美子のエプロンのポケットで、スマホが震えた。

———

ちらりと見た画面には、見慣れたデイサービスの電話番号が表示されていた。

——また、か。

久美子は、レジをパートの女性に任せて、バックヤードに入った。

「はい、清水です」

「清水さん、お忙しいところ、すみません」

施設のいつもの職員の声だった。

「お母様が、少し、落ち着かなくて。他の利用者さんと、トラブルになってしまって」

「……そうですか」

「できれば、少し、早めにお迎えに来ていただけると」

———

久美子は壁の時計を見た。

午後2時。閉店まではまだ何時間もある。
今日は、自分が店長として、閉店までいなければならない日だった。

「……わかりました。なんとかします」

そう、答えるしかなかった。

———

バックヤードの椅子に少しの間、腰を下ろした。

——どうしよう。

夫に連絡しようか。
いや、夫は、「仕事中だ」と言うだろう。
そもそも、「お義母さんのことは、君に任せる」
——それが、夫のいつもの態度だった。

弟に連絡しようか。
いや、弟は隣県に住んでいる……
「姉さんが、近くにいるんだから」
——それで、終わりだった。

———

結局、考えるまでも無く、自分しかいなかった。

久美子は、シフト表を頭の中で思い出す。
誰か、代わりに閉店まで頼めないか。
でも、今日のメンバーで、店長の代わりを任せられる人はいなかった。

——私が、抜けたら店が回らない。

でも。
——私が、行かなかったら施設の方や母が困る。

二つの綱で、両手を引っ張られているようだった。

———

ふと、頭の隅にひとつの考えが浮かんだ。

——いっそ、辞めてしまおうか。

仕事を辞めれば……
こんな、板挟みからは解放される。
母のそばにいられる。

そう、思った瞬間、

——いや。

久美子は首を振った。
辞めたら収入が。
これからの生活が。

考えが、まとまらなかった。
ぐるぐると、同じところを回っていた。

———

バックヤードのドアの向こうから、パートさんの声が聞こえた。

「店長、ヘルプお願いできますかー」

「……はい、今、行きます」

久美子は、立ち上がった。

エプロンを整えた。
ひとつ息を吐き、売り場に戻った。

「お待たせしました」

久美子は、笑顔でレジに入った。

———

その笑顔の裏では……

——もう、限界かも。

そんな言葉が、誰にも気づかれないままに、胸の底に沈んでいった。

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1. 自分の時間
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その日、久美子が、母を連れて家に帰ったのは、夜の7時を過ぎていた。

デイサービスに迎えに行き。
そのまま、母を車に乗せて。
スーパーで買い物をして。

———

「ただいま」

声をかけたが、返事はなかった。
リビングでは、夫がソファーに座ってテレビを見ていた。

「ああ、おかえり」
夫は、画面を見たまま言った。
「お義母さん、どうだった」

「……うん。ちょっと、施設でトラブルがあって。早めに、迎えに行ったの」

「そうか。大変だな」

それだけだった。
夫は、また、テレビに視線を戻した。

———

久美子は、母を椅子に座らせた。

「お母さん、ちょっと待っててね。すぐ、ごはんにするから」

母は、ぼんやりと頷いた。

最近、母は、言葉が少なくなっていた。
久美子のことは、まだ、わかる。
でも、時々、「あなた、どなた?」と、聞くことがあった。

———

台所に立って、夕飯の支度を始めた。

母の分は、刻んでやわらかく。
夫の分は、普通に。
自分の分は……あとで適当に。

手を動かしながら、頭の中では、明日のシフトのことを考えていた。

明日は早番。朝、母をデイサービスに送ってから、店に行く。間に合うかな……

———

夕食を、母に食べさせながら、自分も立ったまま、少しだけ口にした。

夫は先に食べ終え、また、ソファーに戻っていた。

———

母が寝たのは、夜の10時だった。
ようやく、一日が終わった。

久美子は、リビングのソファーに腰を下ろした。
夫は、もう、寝室に引き上げていた。

———

一人になった。

テレビも、消えていた。
家の中は、静かだった。

久美子は、しばらく、ぼんやりと座っていた。

——やっと、私の時間。

でも、何をすればいいのか、わからなかった。

———

ふと、棚の上の、写真立てが目に入った。

去年の紅葉の写真だった。
独立した娘が、帰省した時に、近くの公園で撮ったものだった。

赤く色づいたもみじ。
その下で、笑っている娘と私。

———

——そういえば。

昔から、紅葉が好きだった。
若い頃は、毎年、秋になると、あちこちに見に行った。

子育てが一段落して。娘も独立して。

——これからは、また、ゆっくり、紅葉を見に行けるかな。

母の介護が始まったのは、そう、思っていた矢先だった。

———

——「いつか、時間ができたら」。

そう、思っていた。

でも、その「いつか」は来なかった。
むしろ、自分の時間は、前よりもなくなった。

———

久美子は、写真立てを見つめた。
写真の中の私は笑っていた。

——あの頃は、楽しかったな。

そんなことを、思っている自分に気づいて、久美子は寂しくなった。

———

時計は、11時を回っていた。

——寝なきゃ。

明日も早い。
久美子は、立ち上がって電気を消した。
紅葉の写真は、暗闇の中で見えなくなった。


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2. 紅葉の公園
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その週の金曜日。
久美子はシフト勤務で、今週も平日が休みだった。

久美子は、母を車椅子に乗せて、近くの公園に出かけた。

———

デイサービスのない、一日、母と過ごす日だった。

家にこもっていると、母も自分も滅入る。

——せめて、紅葉でも。

そう思って、車椅子を押してきた。

———

公園の、もみじは、ちょうど見頃だった。

赤や、黄色やオレンジ。
去年、娘と来た時と同じ色だった。

「お母さん、きれいねえ」

久美子は、車椅子の母に声をかけた。

母は、ぼんやりと、上を見上げていた。
わかっているのか、いないのか。
それでも、その横顔は、少し穏やかに見えた。

———

園内を、ゆっくり進んだ。
紅葉が一番、きれいな場所は、少し奥まった小高いところだった。

そこへ続く道に、差し掛かった時だった。

——あ。

道が、舗装されていなかった。
砂利道になっていた。

車椅子の前輪が、砂利に取られ、動かなくなった。

———

久美子は、力を込めて車椅子を押した。

でも、前輪が砂利にめり込んで進まない。
後ろに、引いてもうまくいかない。

——どうしよう。

ここで、引き返すしかないのか…
せっかく、一番きれいな場所まであと少しなのに。

額に汗がにじんだ。

———

「お手伝い、しましょうか」

後ろから声に気付き、振り返ると、一人の男性が立っていた。

五十代くらいだろうか。
穏やかな、表情の人だった。
チョコ色の革のリュックを背負っていた。

———

「あ、いえ、その……すみません」

久美子は、戸惑った。

「砂利で前輪が動きませんか?大変ですね」

男性は、そう言って、車椅子の前の方に回った。

「後ろから、押してください。私が前を少し、持ち上げます」

「……はい。すみません」

———

男性は、車椅子の前輪を両手で軽く持ち上げた。

「では、せーので。せーの」

久美子が後ろから押すと、車椅子は、すっと、砂利を越えた。

小高い場所まで、二人で車椅子を運んだ。

———

「ありがとうございます。本当に助かりました」

久美子は、深く頭を下げた。

「いえいえ。お役に立てて、よかったです」

男性は、にこやかに言った。それから、車椅子の母に目を向けて、軽く会釈した。

「紅葉が見頃ですね」

母は男性を見上げて、少しだけ微笑んだ、ように見えた。

———

久美子は、その様子に少し驚いた。

最近、母が笑うことは、ほとんどなかったから。

———

小高い場所からは、公園の紅葉が一望できた。

赤や、黄色の葉が風に揺れていた。

空は、薄い雲に覆われていた。
晴れては、いなかった。

「今日は曇りですが」

男性は紅葉を見ながら言った。

「こういう日の紅葉もいいものですね」

———

久美子は、その言葉に顔を上げた。

——曇りの日の紅葉。

晴れた日の方が、紅葉はきれいだと、思っていた。でも、言われてみれば。

薄曇りの、やわらかな光の下で。
赤や黄色が、しっとりと、落ち着いて見えた。

「……そうですね」

久美子は答えた。

———

「では、私はこれで」

男性は、軽く頭を下げた。

チョコ色の革のリュックが、小さくなっていった。

———

久美子は、しばらく、その後ろ姿を見送った。

——親切な人だったな。

名前も聞かなかった。
どこの、誰かもわからない。

———

母は、まだ、紅葉を見上げていた。

「お母さん、きれいねえ」

久美子は、もう一度、言った。

今度は、さっきより、少しだけ、心から、そう言えた気がした。


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3. 名刺
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それから、数日が経った日の夕方だった。

久美子は、普段通り、店のレジに立っていた。

———

夕方の混み合う時間が過ぎ、店内は落ち着いていた。

一人の男性が、レジに近づいてきた。

リップクリームを手に持っている。

「いらっしゃいませ」

久美子は、いつものように声をかけた。

———

商品を受け取って、バーコードを通そうとした、その時。

——あ。

久美子は、その顔に見覚えがあることに気づいた。

穏やかな表情。
少し、ふっくらとした、優しい目元。

——あの公園の。

———

向こうも、久美子の顔を見て表情をゆるめた。

「あ。先日の」

「はい。先日は母とお世話になりました」

久美子は、思わず、頭を下げた。

「いえいえ。あの後も、お母様と紅葉を楽しまれましたか」

「はい、おかげさまで」

———

男性は店内を見回した。

「こちらで、お勤めだったんですね」

「ええ。この店の、店長をしております」

「そうでしたか」

男性は、穏やかに微笑んだ。

———

久美子は、聞いてみたくなった。

——どうして、だろう。

普段は、客にこんなことを聞いたりはしない。
でも、この人には、なぜか聞いてみたかった。

「あの……お仕事は、この近くですか」

———

「ええ」

男性は、頷いた。

「商店街の路地を、少し、入ったところで。小さな相談室をやっています」

「相談室……」

「ええ。よろしければ」

男性は、チョコ色の革の名刺入れから、名刺を取り出した。

そして、両手で久美子に差し出した。

———

久美子は、その名刺を受け取った。

『ウェルビーイング・ナビゲーター 後藤 学』
『G-Mate』

———

「ウェルビーイング……?」

聞き慣れない言葉だった。

「ええ。少し、わかりにくい肩書きですよね」

後藤と名乗った男性は、少し、照れたように、言った。

「キャリアのこと、心のこと、今とこれからの暮らしのこと。いろいろな、お話を聞かせていただく。そんな、仕事です」

———

久美子は名刺を見つめた。

頭の中で、いくつかのことが、ゆっくりと、繋がっていくような気がした。

「もし、よろしければ」

後藤は、静かに言った。

「お時間のある時にでも。どんなお話でも、伺いますので」

———

「……ありがとうございます」

久美子は、名刺を両手で持ったまま、頭を下げた。

「では、これで」

後藤は、リップクリームを受け取って、軽く、会釈した。

そして、店を出ていった。

———

久美子は、しばらく、その名刺を見つめたあと、エプロンのポケットに、そっと、しまった。

——どんなお話でも、伺いますので。

後藤の言葉が、胸の奥に残っていた。

ずっと、誰にも、言えなかったことが。
ほんの少し、揺れた気がした。


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4. 安全な港
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名刺をもらってから、一週間が過ぎていた。

久美子は、その名刺を何度も見ては、しまった。

———

『ウェルビーイング・ナビゲーター 後藤 学』

その名刺を、見るたびに思った。

——こんなこと、相談していいのだろうか。

仕事の悩みでもない。
病気の相談でもない。
ただ、母の介護と仕事の間で、すり減っている。
それだけのことを、わざわざ、人に話していいのか。

———

この一週間も、いろいろなことがあった。

母が、夜中に起き出して、家の中を歩き回った。
久美子は、ほとんど眠れなかった。

夫は、寝息を立てていた。
「気づかなかった」と、朝、言われた。

職場でも、突発的な早退が、また、一度あった。
お店の仲間に、頭を下げて代わってもらった。

———

——もう、限界かもしれない。

何度もそう思った。

そのたびに、ポケットの名刺を見つめ直す。

——どんなお話でも、伺いますので。

あの言葉を思い出す。

———

平日休みの日だった。

その日も、母をいつものように、デイサービスに送り出した。

家に戻って、一人になった。

———

久美子は、しばらく迷った。

それから、思い切って、上着を羽織った。

名刺の住所を頼りに、商店街へ向かった。

———

商店街を歩いていくと、路地の角に、煉瓦色の壁の小さな建物があった。

『G-Mate』

扉の横に、真鍮(しんちゅう)の錨(いかり)が、静かに光っていた。

———

久美子は、しばらく、その扉の前で立ち止まった。

——本当に、入っていいのだろうか。

胸が、少しざわついた。

でも。
もう、一人で抱えるのは限界だった。

久美子は、ひとつ深呼吸をして、そっと、扉を押した。

———

カランカランと、扉の上のベルが鳴った。

「いらっしゃいませ」

奥から、穏やかな声が聞こえた。

後藤だった。

久美子の顔を見ると、後藤は、表情をゆるめた。

「ああ。先日の」

「……はい。あの、突然すみません」

久美子は、頭を下げた。

「清水と申します。先日、いただいた名刺を見て……」

———

「いえ。ようこそ」

後藤は、穏やかに言った。

「どうぞ、こちらへ」

後藤は、テーブル席を勧めた。
チョコ色の革のペンケースが、テーブルの脇に置かれていた。

———

久美子は、椅子に座り、相談所内を見回した。

煉瓦色の壁、木のテーブル、小さな本棚。
派手なものは、何もなかった。
でも、不思議と心が落ち着いた。

———

「コーヒー、紅茶、お茶、どれが、お好きですか?」

「……コーヒーを、お願いします」

「昨夜、あまり、眠れなくて」

「そうでしたか」

後藤は、それ以上は聞かず、ただ、頷いた。
そして、カウンターに戻り、ゆっくりとコーヒーを淹れ始めた。

———

その、コーヒーを淹れる音を聞いていると…

久美子は肩の力が、少しだけ抜けるのを感じた。

——久しぶりだ。

誰かに、何かをしてもらうのは。
いつも、自分が、母の世話を、家族の世話を、店の切り盛りをしていた。

こうして、ただ、座って、誰かが淹れてくれるコーヒーを待つ。
そんな時間は、本当に久しぶりだった。

———

「お待たせしました」

後藤は、コーヒーをテーブルに置いた。
それから、久美子の向かいに静かに座った。

「今日はどのような、ご相談でしょうか。どんな、お話でもどこからでも」

———

久美子は、しばらく、コーヒーカップを見つめていた。

——どこから、話せば。

「……母の、介護をしていて」

ゆっくりと、口を開いた。

「認知症が、少しずつ進んでいて。今は、同居で、デイサービスにも通っています」

「ええ」

「私は、ドラッグストアの店長で。仕事も休めなくて。でも、母のことも放っておけなくて」

———

そこまで話して、久美子は言葉に詰まった。

「……すみません。こんな話」

「いえ」

後藤は、静かに首を横に振った。

「どうぞ、ゆっくり、続けてください」

———

久美子は、コーヒーカップを両手で包んだ。
温かさが、手のひらに、じんわりと伝わってきた。

そして、ゆっくりと、また、話し始めた。


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5. キャリア天気図
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久美子は、ひとしきり話した。

母のこと。仕事のこと。夫のこと。弟のこと。
誰にも言えずに、一人で抱えてきたこと。

後藤は、急かさなかった。
ただ、頷きながら聞いていた。

———

「……すみません。気づいたら、こんなに話してしまって」

「いえ。よく、話してくださいました」

後藤は、静かに言った。

久美子は、コーヒーを一口飲んだ。
少し、ぬるくなっていた。

それでも、温かさが胸にしみた。

———

「清水さん、もしよろしければ」

後藤は、テーブルの脇から、一枚の紙を取り出した。

「これを、やってみていただきたいんです」

A4の紙だった。
五つの天気の絵が並んでいた。
☀️ 晴れ。☁️ 曇り。☔ 雨。🌀 嵐。⛄ 雪。

「キャリア天気図、と呼んでいます」

「キャリア天気図……」

久美子は思い出した。

——公園で、この人が言っていた。

「今日は曇りですが、こういう日の紅葉もいい」と。
天気の話は、このことと関係あるのかな。

———

「介護とお仕事の両立で、悩まれている方向けの、チェックリストがあります。当てはまる項目に、チェックを入れていただけますか」

後藤は、シルバーのボールペンを久美子に差し出した。

———

晴れの項目を見た。

『ケアマネジャーや外部の介護サービスを適切に頼り、自分一人で抱え込まない体制ができている』

—— 一人で、抱えている。

チェックは入れられなかった。

『介護があっても、自分のキャリアや人生の楽しみを諦めずに済んでいる』

——諦めずに済んでいる。

これも、入れられなかった。

晴れの項目には、一つもチェックがつかなかった。

———

曇りの項目を見た。

『介護にかかるお金がどれくらいになるか見当がつかず、漠然とした不安がある』

——お金のことも、不安だ。

チェックを入れた。

『会社に介護をしていると伝えると、評価に響くのではないかと躊躇している』

——そうだ。店長だからなおさら。

チェックを入れた。

曇りは、二つだった。

———

雨の項目を見た。

『睡眠不足や肉体的な疲労が蓄積し、本業のパフォーマンスが明らかに落ちている』

——昨夜も、眠れなかった。

チェック。

『自分のための時間が全くなくなり、常に時間に追われている』

——私の時間。

紅葉の写真が頭をよぎった。
チェック。

『介護をしない兄弟や、状況を理解してくれない職場に対して、イライラや不満が募っている』

——弟。夫。

チェック。

雨は三つだった。

———

そして、嵐の項目を見た。

『もう会社を辞めて、介護に専念するしかない(介護離職)と本気で思い詰めている』

——辞めて、しまおうか。

あの日、バックヤードで、思ったことだった。

ペンが、止まった。

しばらく、その項目を見つめた。
それから、ゆっくり、チェックを入れた。

———

『職場からの理解が全く得られず、仕事か、親かの二者択一を迫られていると感じている』

——二つの綱に、引っ張られている。

チェック。

『誰にもSOSを出すことができず、完全に社会から孤立してパニック状態に陥っている』

——誰にも言えなかった。

ペンが、また止まった。

夫にも、弟にも、職場にも。
ずっと、一人だった。

久美子は、その項目にもチェックを入れた。

———

嵐は三つだった。

雪の項目も見た。

『介護があるから、もう出世も新しい挑戦も無理だと、キャリアに対する希望を捨てている』

——少し、わかる気もする。

でも、まだ、そこまでは。
迷った末、チェックは入れなかった。

雪の項目には、該当はなかった。

ボールペンを置いた。

———

「清水さん、いかがでしたか」

後藤は、静かに聞いた。

久美子は、紙を見つめた。

晴れは、ゼロ。
曇りが、二つ。
雨が、三つ。
そして、嵐が、三つ。

「……雨と嵐が多いです」

声が、少し、震えた。

———

「では、最後に。今、ご自身の中で、本当の天気は……ご自身の実感として」

久美子は、しばらく、答えられなかった。

紙の上の、嵐の、三つのチェックを見つめた。

「……嵐、だと、思います」

そう、口に出した瞬間。
ふいに、目の奥が、熱くなった。

———

——ああ、私、嵐の中にいたんだ。

ずっと、認めたくなかった。
大丈夫だ、まだやれる、と。
自分に、言い聞かせてきた。

でも、こうして、紙の上に、並んだチェックを見ると……もう、ごまかせなかった。

———

「……すみません」

久美子は、慌てて、目元を押さえた。

「清水さん」

後藤は、静かに声をかけた。

「どうか、その天気を責めないでください」

———

久美子は、顔を上げた。

「介護というのは、ある日、突然、誰にでも、やってくる嵐のようなものです」

後藤は、穏やかに続けた。

「準備が、できていなくて当然です。疲れてしまうのも。誰かに優しくできなくなるのも。清水さんが、弱いからではありません」

———

久美子は、コーヒーカップを両手で包んだ。
もう、すっかり冷めていた。

でも、その冷たさが、今はなぜか心地よかった。

———

「天気に、良いも悪いもないんです」

後藤は言った。

「嵐の日も、清水さんの航海の一部です」

久美子は、その言葉を黙って聞いていた。

窓の外、みなと町の空は、薄い雲に覆われていた。

晴れては、いなかった。


(前編・了)


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■ 清水久美子さんが使ったチェックシート
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清水久美子さんが今回使ったのは「キャリア天気図チェックシート(介護と仕事の両立編)」です。
あなたの今の天気は、どうでしょうか?

▼【無料診断 No.11】介護と仕事の両立の悩みを可視化する「キャリア天気図」チェックリスト〜介護と仕事の両立編〜

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■ 次回予告
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【安全な港の物語 第7話(後編)】
私の天気はいつ変わる?
〜56歳・清水久美子、母も私も〜

「もう、辞めるしかないのかもしれない」——
母の介護と店長の仕事の間で、一人、嵐に耐えてきた久美子。
誰にもSOSを出せなかった彼女が、自分のコンパスをどう見つけ、この嵐とどう向き合っていくのか。

第7話・後編の公開日は、7月7日(火)の予定です。
お楽しみに。


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■ G-Mateからの一言
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「嵐、だと、思います」

久美子さんは、ご自分の天気を、そう口にされました。そして、その瞬間、涙ぐまれました。

介護というのは、ある日突然、誰にでもやってくる予期せぬ嵐です。準備ができていなくて、焦るのは当然です。疲れて、イライラしてしまう自分を、責める必要はありません。

久美子さんは、長い間、一人で抱えてきました。
夫にも、弟にも、職場にも、言えなかった。
「自分が頑張らなければ」と、たった一人で嵐に耐えてきました。

そんな久美子さんが、初めて、誰かにその嵐の状態を話しました。とても大きな一歩だと思います。

もし、あなたの天気が、今、雨や嵐だとしても…

どうか、一人で抱え込んで、「介護離職」という決断を急がないでください。

私は、損害保険会社で、長年、多くの方の「人生の有事」に接してきました。介護離職は、その後のキャリアだけでなく、経済的にも、そして社会的な孤立という意味でも、さらに大きな嵐を呼ぶことがあります。

一人で、決めないでください。
頼れる制度があります。頼れる人がいます。
そして、こうして、話せる場所もあります。

孤独を感じる時は、誰にでもあります。
そして、どんな天気も、長くは続きません。

天気に良いも悪いもありません。
晴れの日も、曇りの日も、雨の日も、嵐の日も、雪の日も、すべてあなたの航海の一部です。

どんな天気の日も、私は「安全な港」として、お待ちしています。


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■ 著者プロフィール
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ウェルビーイング・ナビゲーター
後藤 学(G-Mate)
茨城県日立市出身 千葉県柏市在住

損保業界30年。「キャリア・メンタル・安心安全」の三本柱で、誰もが自分らしい幸せを実現できるよう、伴走しています。

《主な保有資格》
2級キャリアコンサルティング技能士/国家資格キャリアコンサルタント/プロティアン認定ファシリテーター/メンタルヘルス・マネジメント検定II種/2級ファイナンシャル・プランニング技能士/個人情報保護士/防災士 ほか

《所属団体》
ウェルビーイング学会/プロティアン・キャリア協会/日本産業カウンセラー協会/日本ファイナンシャル・プランナーズ協会

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「キャリア天気図」はG-Mateのオリジナル診断ツールです。個人的な自己分析でのご利用やSNSでのシェアは大歓迎です。一方で、他の専門家の方による有料サービス等での無断使用や、コンテンツの無断転載・改変はご遠慮ください。企業研修等でのご活用をご検討の方は、公式LINEよりお気軽にお問い合わせください。

ウェルビーイング・ナビゲーター
G-Mate 後藤 学

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