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【安全な港の物語 第4話(前編)】孤独な男〜45歳・石川雅人、誰にも話せない〜

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■ このシリーズについて
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ウェルビーイング・ナビゲーター G-Mate(後藤 学)が考える「ライフキャリア航海モデル」をもとにした、短編小説シリーズ「安全な港の物語」です。

登場人物は架空ですが、老若男女、多くの方が抱えるリアルな悩みをベースに描いています。

物語の登場人物は…
今のあなた自身かもしれません。
過去や未来のあなたかもしれません。
あるいは、あなたの大切な人かもしれません。
みんな、様々な天気の中で生きています。

【用語のミニ解説】
・G-Mate=「人生の相棒(Mate)」でありたいという想いを込めた相談室
・キャリア天気図=心とキャリアの状態を5つの天気で可視化するツール
・コンパス=自分の本当の価値観
・装備(リュックの中身)=今までの経験や知識、人間関係、資産など
・航海図=これからの人生計画
・安全な港=安心して立ち寄れる相談場所

▼ ライフキャリア航海モデルとキャリア天気図についてさらに知りたい方はこちら

▼過去の1話完結「安全な港の物語」シリーズ


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プロローグ
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11月の夜、22時を過ぎていた。

石川は、社長室で一人だった。

机の上に、半期決算の資料が広げられていた。
資料の横には一通の白い封筒。

売上、前年比マイナス8パーセント。
営業利益、前年の半分以下。
来年3月の本決算の見通し——赤字。

——4ヶ月で、何ができるか…

石川は、ペンを握ったまま、しばらく動かなかった。

———

社員全員が帰った後だった。

窓の外、自社の工場の明かりは、もう消えていた。
代わりに、商店街の方向に、街灯のオレンジ色の光が、点々と灯っていた。

ガラス越しに、自分の顔が、薄く映っていた。

——疲れた顔だ。

———

机の引き出しを開けて、家族の写真を、ふと、見た。

去年の夏、家族旅行で撮った写真だった。
妻、高校生の長男、中学生の娘。
皆、笑っていた。

その時の自分も、笑っていた。
今と、同じ顔だとは、思えなかった。

石川は、写真を、そっと引き出しに戻した。

———

椅子の背に、深く、もたれた。

社長室の天井を、しばらく見上げていた。

何の音もしなかった。
ただ、壁の時計の、秒針の音だけが、聞こえていた。

——誰にも、相談できない。

それから、また、ひとりでの長い沈黙が、続いた。


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1. 半期決算の数字
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それは、数日前の昼間のことだった。

社長室のドアが、ノックされた。

「失礼します」

経理部長の佐々木が、入ってきた。

佐々木は50代半ばの男で、先代の頃から、この会社の数字を、ずっと見続けている。
父——先代社長と一緒に、何度も危機を乗り越えてきた、頼りになる男だった。

「社長、上半期の数字が、まとまりました」

佐々木は、一枚の資料を、机の上にそっと置いた。

———

石川は、その資料に、視線を落とした。

売上、前年比マイナス8パーセント。
営業利益、前年の半分以下。
来年3月の本決算の見通し——赤字。

数字は、残酷だった。

原材料費の高騰、主要取引先からの発注減、新興メーカーとの価格競争——
すべてが、少しずつ、重なっていた。
一つひとつは、対応できる。
でも、それが、四方から同時に押し寄せていた。

——どこから、手をつければいいのか。

石川は、しばらく、その数字を見続けた。

———

「社長」

佐々木が、静かに言った。

「本決算の見通しを、どうご覧になりますか」

石川は、顔を上げた。

佐々木の目に、心配の色が、はっきりと見えた。
先代の頃から会社を守ってきた男の、本気の心配だった。

「……厳しいな」

それだけ、答えた。

「……はい」

佐々木も、それ以上は聞かなかった。

経営者と、経理部長。
互いに、本音は、口にしなかった。
でも、互いに、わかっていた。

「ご苦労さまでした。ありがとう」

「失礼します」

佐々木は、深く一礼して、社長室を出ていった。

———

ドアが閉まると、社長室は、また、静かになった。

石川は、机の上の資料をもう一度、見つめた。
それから、ゆっくり、机の表面を、手のひらでなぞった。

この机は、先代——父から、受け継いだものだった。
父が、40年近く、この机で仕事をしていた。
父の時代にも、危機は何度もあった。

——父なら、どうしただろう。

そう、思った。

でも、父は、もう、この会社にはいない。
今、ここで、決めなければならないのは、自分だけだった。

———

石川は、椅子の背にもたれた。

窓の外、晩秋の空が薄い青色をしていた。

——これだけ、じゃない気がする。

ふと、そう、思った。

何の根拠もなかった。
ただ、ただ、感じる、嫌な予感だった。

——まだ、何か、起こる。

その予感が、その夜、現実になることを、石川は、まだ知らなかった。


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2. 退職届
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その日の、夕方のことだった。

11月の早い日暮れが、社長室の窓を、薄く染めていた。

17時を過ぎたばかりだった。

「社長、少し、お時間、よろしいでしょうか」

ドアの向こうから、声がした。

山本専務だった。

———

山本は、先代——父の頃から、この会社にいた。
父と一緒に、何度もの危機を、乗り越えてきた。
石川より、10歳、年上だった。

石川が、まだ若かった頃、父と山本が、社長室で話し込んでいるのを何度も見た。
父が引退した後、山本は、新しい社長——石川を、ずっと、支えてくれた。

「頼れる兄のような専務」——
石川は心の中で、ずっと、そう思っていた。

「どうぞ」

石川は応えた。

———

山本は、社長室に入り、ドアを静かに閉めた。
そして、机の前に立った。

何も、言わなかった。

石川は、顔を上げて、山本を見た。

山本は、白い封筒を、手に持っていた。

——あ。

石川は、その封筒にすぐ気づいた。

「社長」

山本は、ゆっくり口を開いた。

「実は、半年ほど前から、ずっと、悩んでおりました」

「ええ」

石川は、できるだけ穏やかに応えた。

「母が要介護4になりまして。父も足が悪く、二人だけでは、もう、無理な状況です」

「ええ」

「妻とずっと話し合ってきました。でも、どうしても、私が実家に戻らないと——」

山本は、そこで、一度、言葉を切った。

「申し訳ありません」

そう言って、山本は、深く頭を下げた。

そして、白い封筒を机の上に、そっと差し出した。

———

石川は、しばらく黙っていた。

机の上の、白い封筒を見つめた。

引き留めたい——
でも、引き留められない。
山本の家族の事情なのに、自分が、止められるはずがなかった。

「お父様、お母様の具合は」

石川は、ようやく口を開いた。

「ありがとうございます。なんとか、まだ、しっかりはしておりますが」

「そうですか」

「半年、悩みました。本当は、最後までお役に立ちたかったのですが」

山本の声が、わずかに震えていた。

石川は目を伏せた。

「……いえ」

それだけ、答えた。

「ご家族を、大切に、なさってください」

「ありがとうございます」

山本は、もう一度、深く頭を下げた。

———

「引き継ぎは、3月末まで、しっかりやらせていただきます」

「ええ。お願いします」

「失礼します」

山本は、社長室を出ていった。

ドアが、静かに閉まった。

———

石川は、机の上の、白い封筒を見つめた。

『退職願』

その三文字が、夕暮れの光の中で、薄く見えた。

窓の外、晩秋の夕日が、ゆっくり、商店街の向こうに、沈んでいくところだった。

社員たちが、家路につく時間だった。

石川は、椅子の背に深くもたれた。

何の音もしなかった。
ただ、壁の時計の秒針の音だけが、聞こえていた。


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3. 誰にも話せない
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その夜、家に帰ったのは、22時を回っていた。

妻が、リビングでテレビを見ながら、待っていてくれた。

「おかえりなさい。お疲れさま」

「ただいま」

「最近、遅いね。大丈夫?」

「ああ、大丈夫」

石川は、ネクタイを緩めながら、ソファーに座った。

妻は、温め直した夕食を、テーブルに並べた。

「会社、何かあった?」

「いや、別に」

「そう」

妻は、それ以上は、聞かなかった。

そして、妻はいつもと変わらない様子で楽しそうに今日の出来事を話した。
息子の学校のこと。娘の塾のこと。近所のスーパーで、トマトと卵が安かったこと。

石川は、頷きながら聞いていた。

——話せない。

業績悪化のことも、山本専務のことも——
妻に、心配をかけたくなかった。
妻は、優しすぎる。

———

数日後の昼、石川は、社員食堂の前で立ち止まった。

社員たちの姿が、見えた。ランチの時間だった。

若い社員たちが、テーブルを囲んで笑っていた。
ベテランの社員も、新入社員に、何かを冗談混じりに教えていた。

——皆、笑っている。

石川は、しばらく、その光景を見ていた。

——彼らの生活を、俺が背負っている。

そう、思った。

業績悪化のことを、社員たちには、まだ、知らせていなかった。
不安にさせたくなかった。
社長として、自分が、なんとかしなければ——
それが、石川の信念だった。

——話せない。

社員食堂の笑い声が止むことはなかった。

———

その週、業界団体の懇親会があった。

ホテルの宴会場で、同業の社長たちが、グラスを手に談笑していた。

「石川さん、最近どうですか」

同業のベテラン社長が、声をかけてきた。

「おかげさまで、なんとか、やっております」

石川は、笑顔で答えた。

「うちも、なんとかやってます。でも最近厳しいですね。原材料費と人件費が、ねえ」

「ええ、本当に」

「でも、石川さんは、まだ若くて、体力があって羨ましいですね」

「いえ、そんな」

石川は、笑顔を崩さなかった。

——話せない。

同業者はライバルでもあった。
弱みを見せたら、噂がすぐに広がる。
取引先にも、伝わる。
銀行にも、伝わるかもしれない。

社長になった時に自分に課したルールだった。
弱音は、絶対に吐かない。弱みは、絶対に見せない。

———

週末、石川は両親を訪ねた。

父は、引退してから、母と二人で郊外の家に住んでいた。

「おう、雅人か」

父は、リビングのソファーで新聞を読んでいた。

「会社は、どうだ」

父は、いつもの問いを、口にした。

「なんとか、社員と一緒にがんばってるよ」

石川は、いつもの答えを、口にした。

父は、頷いた。それだけだった。

———

その後、母が淹れてくれたお茶を、石川はゆっくり飲んだ。

父は、また、新聞に視線を戻していた。

——父さんに、相談したい。

そう、思った。

業績悪化のこと。山本専務のこと。
父なら、答えを、知っているかもしれない。
父は、40年、この会社を、守り続けてきた。

でも——。

石川は、父の横顔を見た。

父の髪は、もう、すっかり、白くなっていた。
背中も、少し丸くなっていた。

——心配をかけられない。

父は、もう引退した。
父の引退後の人生は、安らかであるべきだった。
その安らぎを、壊してはいけない…

1時間ほど、母とたわいもない会話をした。

「そろそろ、帰るよ」

石川は立ち上がった。

「ああ、また来いよ」

父と母は笑顔で軽く、手を振った。

———

家に帰る車の中で、石川はハンドルを強く握った。

——話せない。

妻にも、社員にも、同業者にも、父にも——
誰にも、話せない。

11月の夕方の道路に、街灯が点々と灯り始めていた。

石川は、赤信号の前で車を止めた。

何の音もしなかった。
ただ、車のエンジンの低い音だけが、聞こえていた。


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4. G-Mateを見つける
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11月のある夜、今日も22時を過ぎていた。

石川は、今日も社長室に一人だった。

机の上には、半期決算の資料と、白い封筒——山本の退職届が並んでいた。

長い沈黙の後、何の意図もなく、石川はスマホを手に取った。

SNSのアプリを、開いた。
ニュースのアプリを、開いた。

どれも、頭に入ってこなかった。

———

ふと、検索バーに、指が止まった。

——何を調べようか

しばらく考えてから、ゆっくり打ち込んだ。

「経営者 孤独」

検索結果が画面に並んだ。

経営者の孤独について書かれた、心理学の記事。
著名な経営者のインタビュー。
ビジネス書の紹介。

——どれも、違う。

石川は、別のキーワードを試してみた。

「中小企業 経営者 相談」
「社長 孤独」

それでも、心に響くものはなかった。

———

その時、検索結果の少し下に、一つのnote記事が目に留まった。

『二代目経営者、ある相談室を訪ねた話』

タイトルだけで、何か引っかかった。

石川は、その記事を開いた。

書いていたのは、Aさんと名乗る、製造業の経営者だった。
年齢は40代、二代目、社員規模も、石川の会社と近かった。

——同じだ。

石川は、画面をスクロールしていった。

———

『業績が、思うように伸びない。家族にも、社員にも、本音は話せない。同業者には、絶対に弱みを見せられない。父——先代も、もう引退している。誰にも相談できなかった』

——同じだ。全く同じだ。

石川は息を止めた。

——同じことを、感じている人がいる。

『そんな時、ふとした検索で、G-Mateという相談室を見つけた』

『場所は、みなと町。商店街の路地の奥。ウェルビーイング・ナビゲーター、後藤さんという方が、一人で迎えてくれた』

『初回の相談は、無料で30分。ただ、話を聞いてもらった。アドバイスは、ほとんどなかった。でも、不思議と心が軽くなった』

『「天気に良いも悪いもない」——後藤さんの、この言葉が忘れられない』

———

石川は、しばらく、その記事を見つめていた。

「天気に良いも悪いもない」——
どういう意味だろう。

そして、記事の最後に、G-Mateのリンクが貼られていた。

石川は、そのリンクを開いた。

『G-Mate』

シンプルなページだった。
『ライフキャリア航海モデル』『キャリア天気図』——初めて見る言葉が、いくつか並んでいた。

ページの下に、所在地が書かれていた。

——みなと町。

石川は、その地名を見つめた。

会社からは、電車で30分ほどの距離だった。
通勤の延長線上にあって、行こうと思えば、行ける。

——みなと町なら誰にも、見られない。

———

石川は、しばらく、その地名を見つめていた。

行ってみようか——

——いや、明日、考えよう。

スマホを机の上に置いた。

窓の外、11月の夜空に月は見えなかった。
雲が、薄く、空を覆っていた。

何の音もしなかった。
ただ、壁の時計の秒針の音だけが、聞こえていた。

——海がないのに…みなと町。

その地名が、なぜか、心の中で、繰り返されていた。


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5. キャリア天気図
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数日後の土曜日、石川は、みなと町に向かった。

ジャケットを羽織り、ネクタイは、しなかった。
妻には、「ちょっと、用事がある」とだけ伝えた。

———

11月の土曜日の昼間、商店街は地元の人々で、賑わっていた。
八百屋、肉屋、惣菜店、古い喫茶店。
どこか、懐かしい空気が流れていた。

——海はないのに、みなと町。

歩きながら、また、その地名を心の中で繰り返した。

商店街を、ゆっくり、歩いていった。
路地の角に、煉瓦色の壁の小さな相談室があった。

『G-Mate』

扉の横に、真鍮(しんちゅう)の錨(いかり)が、静かに光っていた。

石川は、しばらく、その錨を見つめた。

——本当に、ここでいいのか。

———

扉を押した。

カランカランと、扉の上のベルが鳴った。

「いらっしゃいませ」

カウンターの向こうから、穏やかな声が聞こえた。

その人は、深く、頭を下げた。

「後藤 学と申します。ウェルビーイング・ナビゲーターとして、誰もが自分らしい幸せを実現できるよう、伴走しています。今日はお越しいただき、ありがとうございます」

石川は、頭を下げ返した。

「石川と申します」

「どうぞ、こちらへ」

後藤は、テーブル席を勧めた。
チョコ色の革のペンケースが、テーブルの脇に置かれていた。

———

「コーヒー、紅茶、お茶、どれがお好きですか?」

「……コーヒーで」

「はい」

後藤は、カウンターに戻り、ゆっくり、コーヒーを淹れた。

その間、石川は、相談所の中を見渡した。

煉瓦色の壁、木のテーブル、小さな本棚。
派手なものは、何もなかった。
でも、不思議と、心が、落ち着いた。

——本当に、ここでいいのか。

そう思いながら、それでも、椅子から、立ち上がろうとは、思わなかった。

———

「お待たせしました」

後藤は、コーヒーをテーブルに置いた。
それから、石川の向かいに、静かに座った。

「今日は、どのようなご相談でしょうか。どんなお話でも、どこからでも」

後藤は、静かに、聞いた。

石川は、しばらく、コーヒーカップを見つめていた。

——どこから、話すか。

「……経営者です。製造業をやっています。先代から、引き継いで十数年です」

「ええ」

「今、業績が芳しくなくて。来年3月の決算が赤字になりそうで」

「ええ」

「あと、信頼していた専務が、辞めることになって。親の介護で。仕方ないんですが」

石川は、そこまで話して、また、コーヒーカップに視線を落とした。

後藤は急かさなかった。
ただ、頷きながら聞いていた。

「妻にも、社員にも、同業者にも、父にも——誰にも、話せていません」

そう、口に出した。

自分の口から出た言葉に、石川は、自分でも少し驚いた。

———

しばらく、沈黙が、続いた。

「石川さん、もしよろしければ」

後藤は、テーブルの脇から、一枚の紙を取り出した。

「これを、やってみていただきたいんです」

それは、A4の紙だった。
五つの天気の絵が、上に並んでいた。
☀️ 晴れ。☁️ 曇り。☔ 雨。🌀 嵐。⛄ 雪。

「キャリア天気図、と呼んでいます」

「キャリア天気図……」

「経営者向けのチェックリストもありまして。当てはまる項目に、チェックを入れていただけますか」

後藤は、シルバーのボールペンを、石川に差し出した。

———

石川は、ボールペンを受け取った。

晴れの項目を見た。

『自分のビジョンや理念に共感してくれる、良い顧客や取引先に恵まれている』
『資金繰りや売上に過度な不安がなく、事業が順調に回っている実感がある』

——どれも、違う。

『信頼できる従業員や外注パートナーがおり、仕事を安心して任せられている』

ペンが、止まった。

——これは……。

社員食堂の、笑い声が頭の中に蘇った。
若い社員たち、ベテランの社員、新入社員。
皆、いい人たちだった。

しばらく、考えた。

そして、ゆっくり、その項目にチェックを入れた。

晴れは、それ一つだけだった。

———

曇りの項目を見た。

『経営の悩みや本音を、利害関係なく相談できる相手がいない』

——そうだ。

迷わず、チェックを入れた。

『雑務や目の前の業務に追われ、本来やるべき経営戦略を考える時間がとれない』

——これも。

チェックを入れた。

曇りは、二つだった。

———

雨の項目を見た。

『毎月の支払いや資金繰りのプレッシャーで、常に胃が痛い』
チェック。

『採用が上手くいかない、または育てた従業員がすぐに辞めてしまい徒労感がある』

——徒労感。

その言葉に、ペンが少し止まった。
山本の顔が浮かんだ。
「徒労感」は確かにある。
チェックを入れた。

『睡眠時間が削られ、常に慢性的な疲労感とイライラを抱えている』
チェック。

雨は、三つだった。

———

嵐の項目を見た。

『大口取引先の倒産や契約打ち切りなどにより、事業存続に関わる深刻な危機にある』

——深刻な危機…

しばらく、見つめた。
チェックを入れた。

『これらの深刻な状況を家族にも打ち明けられず、一人で極限状態に耐えている』

——それも。

迷わず、チェックを入れた。

嵐は、二つだった。

———

雪の項目も見た。
どれも、該当はなかった。

ペンを置いた。

———

「石川さん、いかがでしたか」

後藤は、静かに聞いた。

「……雨が、一番、多かったです」

「ええ」

「次に、曇りと、嵐が、それぞれ二つと、晴れが一つ」

「そうですね」

後藤は、しばらく紙を見ていた。

それから、ゆっくり顔を上げた。

「では、最後に。今、ご自身の中で、本当の天気は……ご自身の実感として」

石川は、コーヒーカップを見つめた。

しばらく、何も言えなかった。
コーヒーは、もう、半分以上減っていた。

「……数では、雨です」

そう、口に出した。

それから、また、しばらく沈黙が続いた。

「でも、実感は……」

石川は、コーヒーカップから視線を上げた。

「……嵐、です」

———

「その感覚、とても大切だと思います」

後藤は、深く頷いた。

石川は、しばらく何も言えなかった。

「誰かに、こんなことを、話したのは……初めてです」

そう、口に出した。

——初めて。

自分の言葉に、自分でも驚いていた。

———

店の外では、11月の昼下がりの陽射しが、商店街を、薄く、照らしていた。

店内には、コーヒーの香りが、ゆっくり、漂っていた。

ただ、それだけだった。

でも、石川は、なぜか、椅子から立ち上がろうとは思わなかった。


(前編・了)


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■ 石川雅人さんが使ったチェックシート
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石川雅人さんが今回使ったのは「キャリア天気図チェックシート(経営者・個人事業主・フリーランス編)」です。
あなたの今の天気は、どうでしょうか?

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■ 次回予告
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【安全な港の物語 第4話(後編)】孤独な男〜45歳・石川雅人、再出港〜

「数では雨、実感は嵐」——
業績悪化と、頼れる兄のような専務の退職。
「誰にも話せない」と背負ってきた45歳の経営者が、自分のコンパスをどう見つけ、新しい航海を描いていくのか。

第4話・後編の公開日は、6月2日(火)の予定です。
お楽しみに。

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■ G-Mateからの一言
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「誰にも、話せない」

社員に弱音は吐けない。家族に心配をかけたくない。同業者には弱みを見せられない。引退した親には、もう、安らかでいてほしい——。

すべてを背負って、一人で歩み続けるトップの孤独。
それは、優しさから生まれる孤独でもあります。

そして、優しい人ほど、その鎧を、簡単には脱げません。

石川さんも、そうでした。
誰にも話せない日々を、長く、長く、続けてきました。

そんなある日、ふとした検索で、見知らぬ町にある相談室を見つけ、土曜日の昼間に、訪ねてみました。
そして、初めて、誰かに、本音を口にしました。

「……嵐、です」
「誰かに、こんなことを、話したのは……初めてです」

派手な解決はありません。
ただ、自分の天気を、自分の言葉で、口に出した——
それだけのことです。

でも、その「だけ」が、新しい航海の始まりになると私は信じています。

孤独を感じる時は、誰にでもあります。
社長でも、社員でも、夫でも、妻でも、親でも、子でも、独身でも——
立場や境遇に関わらず、人は、孤独を感じる時があります。

でも、どんな天気も、長くは続きません。
晴れも、曇りも、雨も、嵐も、雪も——
居場所を少し変えるだけで、違う天気に、自分から、動いていけます。

また、天気に良いも悪いもありません。
晴れの日も、曇りの日も、雨の日も、嵐の日も、雪の日も、すべてあなたの航海の一部です。

どんな天気の日も、私は「安全な港」として、お待ちしています。


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■ 著者プロフィール
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ウェルビーイング・ナビゲーター
後藤 学(G-Mate)
茨城県日立市出身 千葉県柏市在住

損保業界30年。「キャリア・メンタル・安心安全」の三本柱で、誰もが自分らしい幸せを実現できるよう、伴走しています。

《主な保有資格》
2級キャリアコンサルティング技能士/国家資格キャリアコンサルタント/プロティアン認定ファシリテーター/メンタルヘルス・マネジメント検定II種/2級ファイナンシャル・プランニング技能士/個人情報保護士/防災士 ほか

《所属団体》
ウェルビーイング学会/プロティアン・キャリア協会/日本産業カウンセラー協会/日本ファイナンシャル・プランナーズ協会

▼ 詳しい自己紹介はこちら

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■ 安全な港(G-Mate)に立ち寄る
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【「キャリア天気図」のご利用について】

「キャリア天気図」はG-Mateのオリジナル診断ツールです。個人的な自己分析でのご利用やSNSでのシェアは大歓迎です。一方で、他の専門家の方による有料サービス等での無断使用や、コンテンツの無断転載・改変はご遠慮ください。企業研修等でのご活用をご検討の方は、公式LINEよりお気軽にお問い合わせください。

ウェルビーイング・ナビゲーター
G-Mate 後藤 学

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