見出し画像

50台から考える、「『網』を捨てる」という生き方

これまで私は、50台を迎えるにあたって「変わること」「変わり続けること」について書いてきました。

年齢を重ねるほど、人は経験や肩書き、積み上げてきた役割によって、自分という存在を説明するようになります。一方で、それらはいつか失われたり、終わったりするものでもあります。

今週は、「網を捨てる」という印象的な言葉を手がかりに、自分が何に自分を結びつけて生きているのか、そして50台のいま、何と距離を取りうるのかについて考えてみたいと思います。


網を捨てて

聖書を読んでいると、「なんで?」と思う箇所に出会うことがそこかしこにあります。福音書の中でも特に短い『マルコによる福音書』は、淡々と、唐突に、また、いろいろなことが「分かっている」前提で端折って書かれているようにも思えます。

イエスは、ガリラヤ湖のほとりを通っていたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「私に付いて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。すると彼らは、父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後に付いて行った。

『マルコによる福音書』第1章16節〜20節(聖書協会共同訳)

ここに書いた箇所はその、最たるものかもしれません。

「網を捨てて」とか、「父(ゼベダイ)を雇い人たちと一緒に舟に残して」とか、この箇所は特に、「なんでそうなるの?」と思いたくなる箇所でしょう。なにしろ、人がひとり通りかかったらいきなり仕事ごと人生を捨てた人が何人も現れたわけですから。現代の感覚で読むと、なかなか迷惑ではあり、そこが気にはなりますが、そういうことに目を向けさせたいわけではないことも明らかです。ですから、ひとりの信徒に過ぎない私がこの箇所を読むときは、「正直よく分からないけど、なんかあったんだろうなあ」と思いながら読みます。

ちなみに、10月5日のnoteに、こんなことを書いていました。

冷静になって読んでみると、「見知らぬ人から声をかけられた若い男性が次々と衆目の中で行方不明」になった事件にも読めます。

『呼ばれた「瞬間」をめぐって』

そのような考え方で調べていくと、この4人の漁師がもともと洗礼者ヨハネの弟子であったこと、イエスが初見だったわけではないこと、ライフスタイルとして学びや奉仕のために漁師の仕事を休むということが以前にもあったことなどを解説している説教がありました。

『呼ばれた「瞬間」をめぐって』

なにしろ現代の私たちは、古代ユダヤを知らないのです。安易に現代の感覚で読んではならないということを、改めて思い知らされます。

『呼ばれた「瞬間」をめぐって』

それはそれとして、「網を捨てる」ということは、いくら「人間をとる漁師にしよう」と言われたからといって、これまでの自分のキャリアを捨てることになりますから、なかなかできることではないように思います。

noteでの私の自己紹介にもある通り、いまの私はセキュリティエンジニアとして仕事をしています。

セキュリティエンジニア。剣道三段。プロテスタントのクリスチャン。Mastodon.Tokyo管理人。

https://note.com/h12o

そして実際、セキュリティエンジニアとしての感度を保つ目的で、『30secインテリジェンス・レビュー』を毎週作成しています。

しかし、いつかはやめるときが来ます。自分でやめる決断をするかもしれませんし、私が死ぬときかもしれません。その前にnoteが終わるかもしれません。セキュリティエンジニアである自分というのは、はかないものだと思います。

そのようなはかないものに、自分のidentificationを置くことの危うさを感じているとしたら、イエスの弟子たちが網を捨ててイエスに従った理由もどこかで分かるのではないでしょうか。そして実際、私は共感できるのです。

そういえば、B'zの30年以上前の曲に『孤独のRunaway』という曲があります。

オリジナルは松本孝弘が安宅美春に提供したインストゥルメンタルで、それをB'zがセルフカバーしたときに歌詞がついたのだそう(これを書いていて初めて知りました……)。いまやその歌詞のあるセルフカバーのほうがすっかり有名になってしまっていると思いますが、

もしもあなたの心が
身軽なものなら

B'z『孤独のRunaway』

心が身軽かどうか、というのは人によって違いがありそうですね。

今週の予定

note

書き溜めました。

仕事

大変ですが、なんとか。

AirTag

AirTagの導入がスタートしました。

今週のテーマは「『網』を捨てて──変わる50台を目指して」

これまで何度か、「変わること」や「変わり続けること」について書いてきました。

50台という年齢は、積み上げてきた経験や肩書きが増える一方で、それらに自分を縛られやすくなる時期でもあります。聖書に描かれた「網を捨てて従う」という姿は、単なる美談ではなく、自分のidentificationをどこに置くのか、またはどこにも置かないのか、という根源的な問いを突きつけているのかもしれません。

今週は、これまで握りしめてきた「網」と距離を取りながら、50代の私のあり方について、いま一度考えてみます。

いいなと思ったら応援しよう!