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一緒にお茶を飲んでみたい〈5〉

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 「おい、ぶー」
 紘人から呼び止められたのは、父の命日を翌日に控えた金曜日のことだった。下校しようと、しのぶが校舎を出たとき、ふてぶてしい声が背後から聞こえてきた。

 しのぶもずっと紘人に話しかけようとしていたが、機会を逃したままになっていた。やっと話ができる。そんな安堵感を隠しつつ無言で振り返ると、紘人がむくれた顔でしのぶを見ていた。不愛想な表情のまま、紘人が口を開く。
「明日の《旅行》の間くらいは、オレのこと無視すんなよ」
「え?」
「オレのこと、嫌いでもなんでもいいけどさ、《旅行》の間だけは我慢してくれ。そうじゃないと、死んだ父さんも心配するだろ。……オレが言いたいのはそれだけだから」
 そう言って、紘人はしのぶの横を早歩きで通り過ぎた。

 紘人はいつも通り、皆で毎年恒例の《旅行》に行くと思っている。
 しのぶは紘人の後を追うように走り出した。
 話が伝わっていないということは、綿引との話し合いがうまくいかなかったのだろう。余計な口出しはしないほうがいいのかもしれない。でも、放ってもおけなかった。

 校門の近くまで来たところで、やっと紘人に追いつく。
 しのぶが声をかけようとすると、紘人の前に見知らぬ男が立ち塞がった。
 二人の視線が絡み合う。
 男が「紘人君  」と口にした次の瞬間、紘人はその男を、有無も言わさず殴りつけた。

 突然のことに下校中の生徒たちも、わっと声を上げる。
 殴られた男は、どしんと尻餅をついた。紘人は情けない格好になった男を更に殴りつけようと、固く握った拳を振り上げる。
「ヒロッ! だめっ!」
 しのぶは咄嗟とっさに間に入り、振り下ろす寸前の腕にしがみついた。紘人は我に返ったように、しのぶを見る。興奮のせいで強張っていた顔が一瞬、緩んだ。紘人の視線が揺れる。

   もう、どうしたらいいかわからない。

 紘人の目が、そう訴えているように見えた。
 紘人はしのぶの手を振りほどくと、猛スピードで走り去った。しのぶはすぐに追いかけようとしたが、「うぅ……」とうめく声に足が止まる。
 振り返ると、殴られた男の口からは、血が流れていた。

「大丈夫ですかっ!」
 持っていたポケットティッシュを数枚抜き出し、男に差し出す。男は礼を言うようにうなずくと、受け取ったそれを口元に当てた。
  もしかして、綿引さんですか?」

 紘人が殴りつけたいと思う相手は、一人しかいない。男は目を見開き、
「えぇ、そうです」と言い、
  もしかして、しのぶさんですか?」と訊ねてきた。しのぶが「はい」と答える。
「あぁ……はじめまして」
 綿引は尻餅をついたまま、挨拶した。

 さすがにこのままでは不格好だと思ったのだろう、いてて、と言いながら、綿引は重そうに体を起こした。腰をさすって立ち上がると、いやぁ、と声を洩らし、恥ずかしそうに頭を掻いた。

「とんだところを見られちゃって  
 下校中の生徒が、ちらちら視線を送ってくる。
 怪我をした中年過ぎの男と女子高生の組み合わせは、はたから見ると妙にいかがわしい。
  あの、場所を移しませんか。あたし、綿引さんと話がしたいです」
 綿引は、「はい」と答えると、傷に響いたのか、いてて、とつぶやき、切れた口元をティッシュで押さえた。

◇◇◇

 しのぶは綿引と、駅前のハンバーガー屋に入った。
 先に客席のある二階に上がり、席を確保する。荷物を置いて注文に向かおうとする綿引を、しのぶは呼び止めた。

「あのっ、あたしが買いに行きますから、綿引さんはここにいてください」
「いや、でも  
「その顔でレジに並ぶのは……まだ血が……」
 レジにいる店員さんもぎょっとするだろう。

「あ、そうですね。じゃあ、お願いします。私はフィッシュバーガーのセットで、飲み物はコーヒーにしてください。会計はこれで……」
 財布から二千円を渡されたが、しのぶはそのうちの一枚を返した。
「セットなら、二千円もかかりませんから」
「いえ、しのぶさんの分も一緒に  
 しのぶは表情を硬くする。

「母は綿引さんのこと、いい人だって話してましたけど、あたしは綿引さんとは初対面です。どんな人かわからないのに、奢っていただくのは抵抗があります」
「……そうですか。すみません」
 綿引は頭を下げた。てっぺんの髪が、少し薄くなっている。紘人が、あんな年寄りと  と苦々しく言い捨てるのもわかる気がした。いくら義理とはいえ、《父》と呼ぶには年齢がいき過ぎている。

 しのぶがレジで注文と会計を済ませて戻ってくると、綿引は少し緊張した面持ちで、しのぶを迎えた。

  あ、ありがとうございます」
 綿引は少々小太りではあるが、その丸みが本人の顔の造作にも合っている。髪型はきちんと整っており、薄いからといって不潔なわけではない。年齢以外にこれといった欠点はなさそうだった。そうでなければ、しのぶも話をする気にはならなかっただろう。

「それじゃあ、食べましょうか」 
 しのぶは、ポテトとウーロン茶だけにした。走り去っていった紘人を思うと、大口を開けてハンバーガーにかぶりつく気になれなかったのだ。綿引は、「いただきます」と言い、フィッシュバーガーにかぶりつこうとして、「いてて」と口を押さえた。

「大丈夫ですか?」
「はい。……私、あまり人から殴られたことがないんです。子どもの頃は多少、そんなこともあったんでしょうけど、覚えがない。両親もあの時代にはめずらしく、殴らない人でしたから」
「じゃあ、今日が初めてみたいなものですか?」
「そうですね。でも、紘人君になら何度殴られたって平気ですよ」
 さわやかに言い放つ。それがやたらと健気に見えた。

「……元々、ヒロは好んで人を殴るような人間じゃないんです。今は金髪ですけど、少し前までは優等生だと思われるようなおとなしいタイプでした。変わってしまったのは、綿引さんが現れてからです」
 つい、責めるような口調になってしまう。

「ヒロは、天地がひっくり返ったみたいに変わってしまった。  変わったと周りに思わせようと必死でした。ヒロは、朋絵ちゃんが再婚するくらいなら、父親が死んだ場所でオレも死んでやる、なんて言ってます。そこまで嫌われても、綿引さんは朋絵ちゃんと結婚したいんですか?」

「はい。結婚したいです」
 即答だった。迷いのなさに、しのぶは面食らう。紘人が放ったひと言に、少しくらいはひるむだろうと思っていた。

 綿引は手に持っていたフィッシュバーガーをトレイに置き、まっすぐな目でしのぶを見る。

「身勝手に聞こえるでしょうけど、私は私の人生を生きています。紘人君のために、自分の想いを諦めることはできません。それに、殴られたり脅されたくらいで、尻尾巻いて逃げる男なんて嫌でしょう? しつこく食い下がって、殴られても蹴られても、お母さんと結婚させてくれって訴えるくらいじゃないと、結婚相手として安心できないと思いませんか」
 確かにそうかもしれないと思ったが、しのぶは黙っていた。

「私は、紘人君に嫌われてるんじゃなくて、試されてるんだと思ってます。紘人君に《父親》と呼んでほしいわけじゃない。そりゃあ、父親と思ってくれる日が来たら、飛び上がって喜びます。でも、紘人君にはしぶしぶでもいい、結婚を認めてもらえるだけで充分です」
「でも、このままずっとヒロが認めなかったらどうするんです?」
「そこは、根比べですね。紘人君と話をするために、ここ数日は毎日家に通い詰めていたんです。でも、部屋から出てきてくれませんでした。ドア越しに話そうとしたら、大きな音で音楽をかけるんです」
 紘人のやりそうなことだとしのぶは思う。
「それで待ち伏せしてみたら、殴られちゃいました。でも、平気です。根比べなら、負ける気がしません。これでも、長年、会社を経営してきましたから」 
 綿引は、再びバーガーを手にし、大きく口を開けて頬張ろうとして、また「いてて」と言った。

「……失礼ですけど、綿引さんは結婚されてたこと、あるんですか?」
 しのぶの質問に綿引は首を振る。
「この年ですからね、一度くらい結婚しかけたことはありましたけど、相手が別の人を見つけてしまって、それっきり縁遠くなってしまいました。だからこの年になって結婚したいと思う日が来るなんて、本当に思いがけないことでした。年を取って足腰が立たなくなったら、施設に入ろうと思っていたくらいですからね」
「結婚して、朋絵ちゃんに老後の面倒見てもらおうと思ってるとか?」
「いえいえ、万が一のときは施設に入れてもらいますよ。介護してもらうために結婚を考えているわけではないです」
「じゃあ、結婚にこだわるのはどうしてですか? 無理して結婚しなくても、恋人同士でもいいじゃないですか」
 綿引は、そうですねぇ、と言って少し考えていた。

「私は自宅で、食後にほうじ茶を淹れて飲むんですけど  
《しま藤や》でお客さんに出すお茶もほうじ茶なので、しのぶもよく淹れる。
「朋絵さんと一緒にお茶を飲んだとき、ふたりの関係が《恋人》か《夫婦》かで、同じお茶でも味が変わるような気がするんです。思い込みかもしれませんけどね」
「お茶の《味》そのものじゃななくて、《味わい》のほうの《味》ですか?」
 綿引は嬉しそうにうなずく。

「ええ、ええ、そうです。《味わい》です。わかっていただけますか?」
「はい。なんとなくですけど」
「いやぁ、しのぶさんはすごいなぁ。打てば響くっていうか  。そうなんです。味わいなんです」
 あまりに感心するので、しのぶは照れくさくなった。

「私はね、好きな人と《夫婦》になってみたいんです。夫婦になって、一緒にお茶を飲んでみたい。あ、もちろん、私が淹れますよ。いつも朋絵さんには、コーヒーを淹れてもらってますからね。こういう言い方はおこがましいかもしれないけれど、お茶は、私が淹れてあげたいんです」

 綿引の丸っこい手が、ほうじ茶の入った湯飲みを、朋絵に差し出す情景が見える気がした。

「いやぁ、美味しかった。こういうものを食べたの久しぶりです」
 綿引は食べ終えたハンバーガーの包み紙を折りたたむと、満足そうに、コーヒーをすすった。

「会社経営者だと、ファストフードなんて食べる機会もないんでしょうね」
 高校生のしのぶが《会社経営者》なるものを想像すると、ゴルフをしたり、懐石や高級なステーキ屋で会食している様子が浮かんでしまう。
 綿引は、いえいえ、と顔の前で手を振った。

「ほら。こういう店って、席を取ってから、自分で注文に行かなきゃいけないでしょう? 私、それが苦手なんです」
「どうしてです?」
「席を立っている間に、誰かに席を取られる気がして嫌なんです。紙に『この席使用中です』とでも書いて置いておけばいいんでしょうけど、それも面倒でしょう?」

 そんな話を始めたタイミングで、隣の席にコートを羽織ったスーツ姿の男性がやってきた。男性は首に巻いていたチャコールグレーのマフラーを取ってテーブルに置くと、注文のために、席を離れた。

「随分昔のことですが、こういう店に一人で来たとき、今の彼みたいに、巻いていたマフラーをテーブルに置いて注文に行ったことがありました。バッグを置いていくのもなんとなく心配で  
 私物を置いて席を離れるのが心配なのは、しのぶにもわかる。

「注文を終えて戻ると、どういうわけか、私のマフラーがダストボックスの上に置いてあったんです。ほら、食べ終えたトレイを置く、あれです」
 綿引は階段の脇にあるダストボックスを指差した。
「床に落とされなかっただけましなんでしょうけど、酷いなぁと思いました。取っておいた席には、若いカップルが座っていちゃいちゃしてましたよ」
 しのぶが顔をしかめる。
「それは、むかつきますね」

「でも、私は彼らが席を奪った瞬間なんて見てないですから、証拠もない。もしかしたら床に落ちていたのを拾って、他の人が置いてくれたのかもしれないし……。周囲を見渡しても満席だったので、レジに戻って、買ったものをテイクアウトにしてもらいました。それ以来、ひとりのときは多少高くても、注文を取りに来てくれる喫茶店に入るようになったんです。それが少し趣味みたいになって、知らない街を歩くと、自然と喫茶店を探すようになりました。朋絵さんのお店を見つけたのも、そういう御縁です。コーヒーだけじゃなくて、焼いてくれるホットケーキが美味しくてびっくりしましたねぇ」

 確かに  、としのぶはうなずく。あそこの店のホットケーキは本当に美味しい。

「今まで、避けてましたけど、こういう若い人向きのお店も悪くないですね。この前、初めて朋絵さんとフードコートに行ったんですけど、いやぁ、好きな人に席をとってもらえるのって、本当にいいものですねー。先に注文して戻ってきたとき、朋絵さんが座って待っててくれるのを見て、なんて幸せなんだろうって、しみじみ嬉しくなりました」

 綿引は顔をほころばせる。この世で一番幸せなのは私です、と言ってはばからないような表情だ。

 しのぶは最初、綿引に《もし朋絵が財産目当てで結婚を考えていたらどうするか》なんて、不躾ぶしつけな質問をぶつけようと考えていた。紘人を苦しめるこの男を、困らせてやろうと思っていたのだ。
 だが、そんなことをしても無駄だとしのぶは悟った。
 きっと綿引ならどんなことも、幸せに変換してしまう気がしたからだ。

   ヒロ。こういう人には敵わないよ。

 しのぶは胸の内で、紘人にそう声をかける。
 もしかしたら朋絵も綿引と話をするうちに、《こういう人には敵わない》と思ったのかもしれない。だから、綿引と再婚する気になったのではないか。

 しのぶがぼんやりそんなことを思っていると、隣の席の人が、ハンバーガーがのったトレイを手にして戻ってきた。彼は、チャコールグレーのマフラーが、きちんと席の番をしてくれたことに、心なしか、ほっとしているように見えた。


第6話につづく

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