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『AEDっていうんだって』第1章

あらすじ

2004年7月、それまで医療従事者にしか許されていなかったAEDの使用が、ついに一般市民にも認められた。
だが、その歴史的な変化の陰には、一通の小さな手紙があった――「AEDを、使わせてください。お医者さんじゃないぼくにも」。
それは、ある冬の日、雪の帰り道で少女が口にした「AEDっていうんだって」という言葉から始まった。
命を救いたいと願った少年の想いは、時を越えて医療の扉を開いたのだ。
これは、誰にも知られなかったふたりの物語と、ひとつの願いが日本を変えた、静かで確かな軌跡の記録である。


「AEDっていうんだって」

唐突に、彼女が言った。

あれから、どれくらい経っただろうか。
彼女のその声が、今でも耳の奥に残っている。

そして今日――
夢みたいに遠かった“その日”が、ついにやってきたのだ。


1999年 冬


彼女を初めて見たあの日、5年3組と4組の合同体育で、ドッジボールをしていた。

クラスの半分がグラウンドに出て、もう半分は日陰で体育座りの姿勢で見学していた。
その中に、ひとりだけ立っている女の子がいた。

座らず、しゃがまず、木陰にも入らず、ただ静かに立っていた。
まるで、自分が存在していないかのように。

「誰、あの子?」

「……転校生。4組に来た子だよ」

「なんで座らないの?」

「体育はいつも立って見学してるって。理由は知らない」

理由は知らなくても、気になるのには充分だった。
運動しない。走らない。笑わない。
でも、目だけが妙に強くて、やけにきれいだった。

昼休み、4組の教室をのぞきに行ったり、
すれ違いざまに名前を呼んでみたり、
机にそっと消しゴムを置いて「はい、落とし物」と言ってみたり。

今思えば、全部ちょっかいだった。
だけど、理由はきっと、それだけじゃない。

何かを抱えてるように見えた。
でもそれを「抱えてる」って自覚すらしていないような、ふしぎな透明さがあった。

ある日、聞いてみた。

「ねえ、なんでいつも運動しないの?」

彼女は黒板の方を見たまま、何も言わなかった。

その沈黙が、むしろ答えだったような気がした。

それでも僕は、毎日のように3階の廊下をズカズカ歩いて、
給食の白衣をひらひらさせながら彼女の教室へ向かった。

「おーい、お嬢様。今日もご静養中ですか〜?」

ガラッ、と教室の戸を開ける。

彼女は振り返らない。
窓際のいちばん後ろの席。
いつもそこにいて、体育も、休み時間も、運動場には出てこない。

「ひとりで校庭見てるとさ、“人間ってなんで走るんだろう”って哲学しちゃわない?」

「……うるさいな」

「もっと優しいツッコミくれてもいいじゃん?」

「別に、あなたに優しくする理由なんてないし」

ピシャリと切られた。でも、慣れている。
こっちが勝手に来て、勝手に喋ってるだけだし。

でもそれでも。
なんとなく、ここに来たくなる理由は……あった。

「……なんで走らないの? 昼休みとか。体育とかも」

僕が真面目な声で聞くと、彼女は少しだけためらってから答えた。

「心臓が、ちょっと悪いの。無理はしないようにって、お医者さんに言われてる」

心臓。
それは、思ったよりずっと静かな言葉だった。

彼女は視線を校庭から外さず、ぽつりと言った。

「動かしすぎたら……心臓がけいれんしちゃうかもしれないんだって」

その瞬間、ガーンって音がするくらい、頭を殴られたような気がした。

“走らない理由”が、“笑わない理由”と重なって見えた気がした。




この時期に雪が降るのは、東京じゃ珍しい。
それでもその日は、朝から白い粒がちらちらと舞っていた。

手袋もせずにランドセルを背負ったまま、僕は彼女と並んで歩いていた。
……といっても、2メートルは離れていた。
その距離を縮めようとすると、彼女はすっと一歩離れていく。
……たぶん、雪のせいじゃない。

「AEDっていうんだって」

突然、彼女が言った。

「え、なにそれ。A・B・C? なんかの呪文?」

「ちがうよ、えーいーでぃー。機械の名前」

「どんな?」

「わたしの心臓、助けてくれる機械」

雪の音なんて、きっと聞こえないはずなのに、
世界がぎゅっと静かになった気がした。

「……どういう意味?」

「正式名称はね、“自動体外式除細動器”。私の心臓、心室細動っていう変なリズムになっちゃうかもしれないんだ。そのとき、AEDで電気ショックをかけると、戻せるかもしれないって」

「……お医者さんの道具?」

彼女は、かすかにうなずいた。

「うん。日本では、まだ、お医者さんしか使えないんだって」

その言葉に、僕は言い返すように言った。

「……じゃあ、僕が医者になる」

それは、覚悟とか決意とかじゃなかった。
気づいたら出ていた。ごく自然に。
ただ――どうしても、彼女を死なせたくなかった。

彼女は、ふっと笑って、少しだけ首をかしげた。

「……ありがと」

その顔はたしかに笑っていたけれど、
同時に、“諦め”の色もあった。


次の日。

放課後の校庭。
昨日降った雪がまだ、白くところどころ残っていた。
踏めばシャリッと音が鳴りそうな、それくらいの固さ。

ぼくはランドセルを背負ったまま、彼女の隣に立っていた。
一言も喋らないまま、しばらく同じ場所にいた。
校庭ではサッカーをしてる男子が騒いでいて、向こうの空では飛行機が音もなく横切っていた。

「ねえ、急なんだけど……わたし、引っ越すことになったの」

彼女の声は、ふわっとしていた。
まるで、空から雪がまた落ちてきたみたいに。

「……え、うそ。どこに?」

「アメリカ」

その名前が、今まで聞いたどんな言葉よりも遠く感じた。

「……いつ?」

「来週。パパの仕事。向こうの病院で、診てもらえることになったんだって」

彼女は、ぼくの方を見ない。
ずっと、雪の積もった校庭を見つめたまま。

「向こうだとね、AEDがどこにでもあるんだって。
学校にも、駅にも、スーパーにも。
日本じゃ病院にしかないけど……あっちなら、わたし、助かるかもしれないんだって」

「……助かるかもしれないって、どういう……」

「わたしの心臓が、けいれんしても――助けてもらえる可能性が、あるってこと」

そう言いながら、彼女はランドセルの肩ひもをギュッと握った。
雪に光が反射して、まぶしかった。
でも、彼女の目の奥にあったのは、光じゃなかった。

「向こうでちゃんと生きられたら、手紙出すね」

そう言って笑った彼女の顔は、
いちばんきれいで、いちばんさびしかった。

ぼくは言葉が出なかった。
引き止める言葉も、応援する言葉も、何一つ。

足元の雪だけが、ずっと冷たかった。


空はいやに晴れていた。
雲ひとつなくて、風もなくて、冬の朝としてはできすぎなくらいだった。

彼女が乗る飛行機の時間は、午前十時。
ぼくの家から空港までは、電車で一時間ちょっと。
だけど、親には言えなかった。学校を休む理由も、うまく作れなかった。

結局ぼくは、その日もいつも通りランドセルを背負って、登校した。

彼女の席は、もう空っぽだった。
机の上にはなにもなくて、椅子は少しだけ机から離れていた。
まるで誰かがそこに座っていたあとみたいに。

授業中、先生の声がまったく頭に入ってこなかった。
時計ばかり見ていた。
9時38分。9時52分。9時59分。

10時。

ああ、もう今、彼女は飛行機に乗ったんだ。
日本じゃない、アメリカへ行くんだ。

**“心臓が止まっても、助かるかもしれない場所”**へ。

ぼくは鉛筆を握ったまま、じっとしていた。
心臓の音が、耳の奥でドクンドクンと鳴っていた。

**

昼休み。
校庭に出て、彼女がいつも見ていたベンチにひとりで座った。

誰も気にしない。誰も知らない。
でもぼくだけは、知ってる。

彼女が最後に「さよなら」って言わなかった理由を。
彼女が最後に、ぼくの目をまっすぐ見なかった理由を。

それは――“希望”だけを持っていきたかったからだ。

“じゃあね”じゃなくて、
“またね”って言える未来が、あるかもしれないって思いたかったんだ。

でも、あのときから、ずっと。
ぼくの中で何かが止まったままだった。


あの日から、ぼくは手紙を書き始めた。
テレビで「医療は厚生省、救急は消防庁、法律は内閣府」と言っていたから、とりあえず全部に送った。

「AEDを、使わせてください。
お医者さんじゃないぼくにも。
そうしないと、あの子が死んじゃうかもしれないんです」

子どもが書いた作文みたいな、雑な手紙だったと思う。
名前も住所も、なぐり書きで、切手の貼る位置も曲がっていた。

でも、あのときのぼくには――それが、すべてだった。

彼女の命と、ぼくの願いをつなぐには、それしかなかったんだ。


返事は来なかった。

ポストに入れた封筒のことを、親に知られるのが怖くて、名前は本名じゃなかった。
差出人も「東京 小学生 男子」くらいしか書いていない。
電話番号も書かなかったし、返事が欲しかったわけじゃない――
……と、自分に言い聞かせた。

でも、毎日ポストを覗いた。

空っぽのポストを見て、ランドセルを背負ったまま動けなくなる日もあった。

年が明けた。

2000年。ミレニアムイヤーだと世間は騒いでいたけど、
ぼくのなかでは、あの冬の日から、何も変わらなかった。

そして、時間が流れていく。

ある日、給食を食べながらぼーっとテレビを見ていたら、ニュースが流れた。

「今日、都内で行われた心臓病に関する市民公開講座で――
AED(自動体外式除細動器)について、一般市民による使用の可能性が語られました――」

画面の中では、スーツを着た人たちが真剣な顔で何かを話している。

だけど、そのなかで。
スライドに一瞬だけ、見覚えのある文章が映った。

「AEDを、使わせてください。お医者さんじゃないぼくにも。そうしないと、あの子が死んじゃうかもしれないんです」

スライドに映った文字が、ぼくの心臓を撃ち抜いた。

あの雑な文字が、あの拙い言葉が。
誰かの耳に届いて、今ここで、光を浴びている。

心臓がドクン、と鳴った。
それだけで、なんだか泣きそうになった。

たった一通の、雑な手紙。
名前も知られない、子どもの落書きみたいな願い。

それが、誰かの心を動かしたんだ。

何も変わっていないようで、何かが、どこかで、確かに動き始めていた。

ぼくの知らないところで。
彼女の知らないところで。

**

その日から、ぼくは新聞を読むようになった。
ニュース番組を録画して、AEDという言葉が出るたびにノートに書き写した。
意味のわからない専門用語や法律の言葉を、辞書で調べながら。

**

2000年。
AEDという言葉は、まだ誰の口にもなじんでいなかった。

だけど、確かにこの年。
一つの声が、誰かの心を叩いた。

やがてそれは――“未来の当たり前”を変える、最初のノックになった。

ほんとは、彼女にもすぐに手紙を書こうと思っていた。
でも、なんとなく書けなかった。
先に国からの返事が来たら、少しはカッコつく気がしたのかもしれない。

「AEDを、一般の人にも使わせてください」――そんな願いが、ちゃんと誰かに届いたって、証明できたら。

だけど、待っているうちに、だんだん怖くなってきた。
返事は来ないかもしれない。
彼女にも、もう二度と会えないかもしれない。

それなら、今、書こう。
まだ何も変えられていないけれど、
僕は、君の言葉を、まだちゃんと覚えてるよって。

あのときの「AEDっていうんだって」を、
ちゃんと受け取ったよって。



第2章へ続く


第3章


最終章


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