恋愛小説【第18話】あの日、何も持ってなかったけど(未来の輪郭)
【第4章】見据えるもの
あの日、届かなかった想いを、
僕はまだ胸の奥で握りしめている。
手を伸ばしても届かないなら、
今度は、自分の足で近づけばいい。
悔しさも、焦りも、
いつかは誰かを支える力になると信じて。
失った痛みの向こうに、
新しい光が、確かに見えていた。
📖前回のお話(第17話)
陽翔と菜桜の距離がわずかにぎこちなくなり始める。
陽翔は“これ以上特別にしたくない”という想いから菜桜を避け、
菜桜は“なんとなく避けられている”と感じて胸を痛める。
それでも、ふたりは気づけば互いに手を差し伸べる。
菜桜のパウンドケーキの小さな優しさも、
陽翔の授業中のふとした助けも、
その距離をごまかすように、そっと心を揺らした。
そして——
菜桜が何気なく口にした
「IT得意だよね。向いてると思う」
という言葉が、陽翔の未来へと静かに火を灯す。
【第18話】未来の輪郭
✨形を帯びた光
帰りの電車は、夕方のざわめきを少しだけ含んだ空気が流れていた。
ドアにもたれかかりながら、陽翔はふいに授業中の菜桜との会話を思い出す。
──「西岡くん、ITとか得意だよね。向いてるって思ったよ。」
たった一言。
だけど、胸の奥がじわっと温かくなったあの感覚は、まだ消えない。
(向いてる…、か)
親に言われるまま進学するんだろうと思っていた進路。
“なんとなく”の未来しかなかったはずなのに──
菜桜の言葉だけが、そこに初めて“光の形”を描いた。
電車が揺れた拍子に、天井の吊り広告が目に入る。
IT企業の採用ポスター。
気になって、スマホで求人サイトを開いた。
(へー…結構、給料もいいんだな…)
必要なスキル、働き方、会社の種類。
読み進めるほど知らない世界が広がっていく。
(なんか…ちょっと楽しそうかも)
そんな気持ちは初めてだった。
最寄り駅に着くと、そこにもIT関連の広告が貼ってあった。
(なんだっけ…こういうの…カラーなんとか…効果…)
その広告の前で立ち止まったまま、スマホで検索をかけた。
「あぁ、カラーバス効果だ。」
意識したものほど、やたら目に入ってくる心理現象。
まさに今の陽翔だった。
(気になるってことは、嫌いじゃないのかな…俺にできんのかな…)
輪郭が見え始めた未来に気づいた瞬間、菜桜の顔がふっと浮かび、少しだけ頬が熱くなる。
未来のことを話す時の菜桜は、いつもより眩しく見えた。
あれはきっと、自分の夢に向かって進んでる人だけが持つ光だ。
(…ああいうの、いいよな。芯があって、ちゃんと前見てる感じ)
憧れと、ほんの少しの悔しさと、背中を押されるような感覚が、
陽翔の胸をやわらかく揺らしていった。
帰り道の本屋に吸い寄せられるように入ると、
エンジニア関連の入門書が平積みになっている。
気がつけば、そのうちの一冊を手に取っていた。
学校から帰宅すると、陽翔はリードを持って庭に出た。
コタローは尻尾を大きく振り、陽翔の膝に前足を乗せる。
「わーってるよ。ほら、じっとしてろ。」
首輪にリードをつけながら、小さく息をつく。
散歩道を歩きながら、陽翔はぽつりとつぶやいた。
「……ちょっと言われただけで気になるとか、単純だよな。動機が浅すぎるっての。」
コタローはちらっと陽翔を見上げるが、すぐにズンズンと前へ歩いていく。
「お前はいいよな。悩みなんてなくて。」
その無邪気な背中に、陽翔はふっと笑みをこぼした。
散歩から戻ると、家の中には夕飯の匂いが漂っていた。
家族と軽く会話を交わしながら食卓につき、
陽翔はどこか上の空で一日の出来事を反芻していた。
夕食を終え、自分の部屋へ戻る。
ドアを閉めた瞬間、静けさが降りてきて、
陽翔は買ってきた本にそっと手を伸ばした。
専門用語。仕組み。プログラミングの例。
読み慣れない言葉に少しだけ眉をひそめた。
「安直かな…好きな人に言われたぐらいで…」
口に出してみたものの、
その感情が“悪い”ものではないことは、陽翔自身が一番わかっていた。
本を静かに閉じて、机の端に置く。
いつもの癖でPCをつけ、ゲームを起動した。
けれど、さっきからずっと胸の奥でざわざわと動いているものは、
どうしても消えなかった。
🚪不意の訪問者
「ひろー、ちょっといいか?」
ノックと同時に声がして、陽翔は画面を向いたまま返事をした。
「どうぞー」
入ってきたのは兄の悠翔だった。
片手にはノートPCを抱えている。
「PC固まっちゃってさ。ちょっと見てほしいんだけど。」
「単純に重いんじゃねーの?」
「…と思ってデータ削除してたら、固まっちまってさ。」
「ふーん」
陽翔が椅子をくるっと回し、兄のPCに手を伸ばす。
兄の話を聞き流すようにしながらも、陽翔の指先は迷いなく動く。
悠翔は手持ち無沙汰に部屋を見回し──
机の端に置かれたエンジニア関連の本に目が止まった。
「…ひろ、お前エンジニアになりたいの?」
不意に落ちた言葉に、陽翔は顔を上げる。
「あぁ、それ?
今日、友達に向いてるって言われたんだ。
どんなもんかと思って、買ってみただけ。
本当になりたいかどうかは…わかんないよ。」
言いながらも視線は画面に戻り、手は止まらない。
悠翔はその横顔を見つめ、本をパラパラと捲りながら短く言った。
「いいんじゃない?」
「……え?」
陽翔の手が止まり、ゆっくりと兄を見る。
「お前、進学したくないんだろ?やりたいこと、やれば?」
悠翔の声には、責める色も急かす色もない。
ただ、まっすぐで穏やかだった。
「でも、親父達が…」
陽翔は視線を落として、キーボードを軽く叩きながら呟く。
「まぁ、反対するだろうな。『高卒なんて』って。」
悠翔は本をパタンと閉じ、静かに机に置いた。
「でもさ、親父達の願いは——俺が叶えるよ。」
「……は?」
陽翔は怪訝そうに眉を寄せる。
「そんな顔すんなって。」
悠翔は、乾いたような、でも優しい笑いを零した。
「別に犠牲になるわけじゃねーよ。たまたま俺の目指す道が、親父達の”正解”の延長線上にあるってだけだ。」
ほんの一瞬、悠翔の目が柔らかく細められる。
「だから、ハードルは下がるよ。
あとはお前が、本気でやりたいと言えば、親父も折れるさ。」
その言葉が、陽翔の胸に静かに落ちる。
喉の奥がきゅっと締まって、うまく言葉が出ない。
「…でも、まだ…本気で説得できるほど、やりたいわけじゃ…」
声はかすれて、小さく揺れていた。
🔀複数の正解
「そうか?」
再び本を手に取り、表紙をまじまじと見つめた。
「本を買うって、結構本気度高いと思うぜ?
今の時代、ネットで調べればいくらでも出てくるし。」
そう言いながら、本を陽翔に手渡す。
「ヒロはIT得意なんだしさ。向いてるんじゃね?」
陽翔は本を受け取りながら、わずかに眉を寄せた。
「……別に、普通だよ。皆に言われるほど得意じゃない…」
「いや、得意だろ。」
悠翔が顎でノートPCを指す。
「こんな話ししてる間に、それ、直ったんだろ?」
「…え?あぁ、直った。」
「だよな。さっきから手、止まってる。
お前の普通は、俺の普通じゃない。」
悠翔はふっと鼻で笑う。
陽翔はノートPCを閉じ、兄に渡した。
「あんがと。」
悠翔はそれを軽く受け取り、くるりと背を向ける。
ドアノブに手をかけたところで、ふいに動きを止めた。
ゆっくり振り返り、陽翔に向けて言う。
「進学したくない、も ちょっと気になる、も——
どっちも立派な動機だよ。
俺はやってみて違うと思ったら、別の道を探せばいいと思う。」
悠翔の声は、責めでも指示でもなく、ただ淡々としていた。
「”正解”を最初から引き当てる奴なんて、多くないよ。
……回り道する生き方でも胸張って言えるなら、それで十分じゃないか?
親父の生き方が、親父にとっての正解だっただけだ。
ただ、お前にも”そうであって欲しい”だけなんだよ。」
悠翔はそう言って、ニカッと笑った。
あまりに自然で、あまりにまっすぐな笑顔に、
陽翔は黙って兄を見つめる。
「なんだ、そんなに見つめて。兄貴が眩しく見えたか?」
悠翔がははっと笑う。
その軽さが、逆に胸に沁みた。
「ありがとう…」
その声に反応したように、悠翔は陽翔の方へ身体を少し向け直した。
陽翔は机の上の本を横目で見ながら、ゆっくりと言葉を落としていく。
「…俺さ、ちょっと悲観的だったんだ。兄貴がすげーから。
でも、最近比べる必要はないって、思えるようになって…」
悠翔は「うん」とだけ言い、続きを静かに待った。
「でも、誰かに”自信を持って言えること”って何もなくて。
……でも今日、ひとつ見つけた。…ありがと。」
ふっと笑った陽翔の顔には、幼い頃の面影が残っていた。
悠翔はその笑顔を見て、やわらかく微笑む。
「…お前はそうやって笑ってればいいんだよ。
親父達も、お前の幸せを願ってる。
”いい会社に就職すること”が幸せだと親父は思ってるけど…
本質はそこじゃない。お前が笑ってる未来。それだけだよ」
悠翔は再びドアノブに手をかける。
「それが伝われば、きっと折れるさ。
ただ——そのためにも、成績は落とすなよ。じゃあな。」
「…うん。あんがと。」
陽翔が声をかけると、悠翔はひょいと手を上げて部屋を出ていった。
🌙”あるもの”を数えた夜
ドアが閉まる音がして、陽翔はふぅ、と息をついた。
(あぁ……そうか。俺、恵まれてるんだ)
両親がいて、兄もいる。
いつも味方でいてくれる祖母がいて。
愚痴を聞いてくれるコタローもいる。
憧れの人。
そして気の置けない友達。
あたたかい部屋。
不自由のない暮らし。
”無いものを数えるより、あるものを数える”
菜桜の言葉が、また静かに胸に染み込んでいく。
「なんだ…俺、いっぱい持ってんじゃん。」
陽翔は小さく笑った。
そして、マウスではなく教科書を手に取る。
苦手な英語のページ。
「エンジニアには、必要…だよな…」
その夜、陽翔は深夜まで勉強を続けた。
ページをめくる手も、いつもより軽かった。
眠りにつくころ──
胸の奥で、あたたかい何かが静かに灯っていた。
いつもより、ずっと心地よい眠りだった。

🧑🤝🧑登場人物紹介
🧁 長谷川 菜桜(なお):パティシエ志望の高校2年生。お菓子作りが得意。夢はフランスに行くこと。
🏐西岡 陽翔(ひろと):バレー部。恋に不器用で、ちょっと奥手。友達は多く社交的。
📚 西岡 悠翔(ゆうと):大学2年生。穏やかで成績も優秀。陽翔が密かに憧れる兄。
▼陽翔の支えとなった菜桜の言葉
▼進路への迷い・コタロー初登場🐕️
