独断と偏見で日本の薬学の歴史における重要人物ベスト9をまとめてみた
神聖ローマ皇帝でありシチリア国王でもあったフリードリヒ2世(フェデリコ2世)が1240年頃に発布した勅令は、世界の医薬分業の歴史において最大の転換点となった法典です。
これは彼がシチリア王国で制定した包括的な法典『メルフィ憲章(リベル・アウグスタリス)』の追加規定(あるいは修正規定)として出されたもので、一般に「医療勅令」などと呼ばれています。
勅令がもたらした「5つの基本原則」
この勅令の画期的な点は、医師と薬剤師の職能を完全に分離し、相互の癒着を防ぐための具体的なルールを法律として明文化したことです。主に以下の5つの厳格な規定(俗に「フリードリヒ2世の5カ条」などとも呼ばれます)が盛り込まれました。
医師と薬剤師の完全な兼業禁止 医師が自ら薬を調合して販売すること、また薬剤師が患者を診察して処方することを厳しく禁じました。
薬局(薬商)の開業許可制 どこでも自由に薬を売れるわけではなく、国が定めた一定の基準を満たした場所にのみ薬局の開設を認めました。
医師と薬剤師の利益相反(癒着)の禁止 医師が特定の薬局と裏で手を結び、患者に高額な薬を売りつけて利益を分け合うような行為(リベート)を禁止しました。
公定薬価の制定 薬の価格を国や地域がコントロールし、薬剤師が暴利をむさぼれないように上限を設けました。
官吏(医療検査官)による法定監査 薬の品質が保たれているか、粗悪な成分が混ざっていないかを定期的に検査する仕組みを作りました。
なぜこの時代に「医薬分業」が必要だったのか?
当時のヨーロッパでは、医師が自ら薬草を調合して患者に与えるのが一般的でした。しかし、これには2つの大きな問題がありました。
経済的な癒着とモラルハザード 医師が薬を売って儲かる仕組みだと、不要な薬や高額な薬を大量に処方するインセンティブが働いてしまいます。
毒殺や医療ミスの防止 当時は医学・薬学が発展途上であり、毒と薬の境界線が曖昧でした。診察する人間と薬を作る人間を分けることで、暗殺(毒殺)のリスクを減らし、調剤ミスをダブルチェックする体制が必要でした。
フリードリヒ2世は「中世最初の近代人」とも評されるほど、合理的かつ先進的な思考を持った君主でした。彼は南イタリアのサレルノ医学校(当時ヨーロッパ最高峰の医学拠点)の知見なども取り入れ、医療の質と安全性を担保するためにこの法秩序を築き上げたのです。
歴史的意義 このシチリア王国での試みが基礎となり、その後のヨーロッパ各国(ドイツのプロイセン王国など)の薬事法のモデルとなりました。現代の私たちが病院で処方箋をもらい、街の調剤薬局で薬を受け取るシステムの源流は、実に約800年前のこの勅令にあると言えます。
宮崎で開催された九州山口薬学大会の特別講演で、日本の薬学の歴史の主要人物ベストナインを公表しました。

理由は以下のとおりです。
長与は最後に回しています。
然るべき時に然るべき場所にいることが重要です。

ゲールツ
ゲールツは1869(明治2)年に来日し、最初は長崎医学校(のちの長崎大学医学部)で化学と薬学を教えました。その後、京都や東京、横浜へと活動の場を移し、明治政府のもとで日本の医療・薬事制度の基盤を作りました。
1. 司薬場の設立と医薬品の品質管理(偽薬・粗悪薬の排除)
当時、明治維新直後の日本には海外から多くの西洋医薬品が輸入されていましたが、その中には粗悪品や偽薬、さらには阿片(アヘン)などの有害な薬物が混入していることが大きな社会問題になっていました。 ゲールツは政府に強く働きかけ、輸入医薬品を化学分析・検査するための国家機関である「司薬場(しやくじょう)」の設立を提唱しました。これにより、京都、東京、横浜、長崎などに司薬場が作られ、ゲールツ自身も横浜司薬場の監督などを務めて、日本の薬事監視体制の基礎を築きました。
2. 『日本薬局方』編纂への貢献
医薬品の公式な規格基準書である『日本薬局方(にほんやっきょくほう)』ですが、その最初の編纂計画を立ち上げ、草案づくりを先導した一人がゲールツです。彼は日本で最初の統一的な薬局方を作るために尽力しましたが、第1版が完成(1886年)する前の1883年に、横浜にて40歳の若さで病没しました。彼の遺志は、のちに来日したエイクマンや、日本の愛弟子たち(柴田承桂など)に引き継がれることになります。
3. 日本初の薬学雑誌の創刊と和漢薬研究
ゲールツは、日本独自の生薬(和漢薬)にも深い関心を示し、それらを西洋の化学的な手法で分析する研究を行いました。また、日本初の本格的な薬学の学術雑誌の刊行を支えるなど、日本の薬学者たちが自立して研究できる環境を整えました。
なぜ「ゲールツ」が重要なのか?
オランダの薬剤師・薬学者であるゲールツ(明治初期の基盤づくり・司薬場設立)から、日本がヨーロッパ流の「医薬分業」の思想と近代的な薬事制度を受け入れる決定的なルートとなりました。
柴田承桂
1. ゲールツとの出会いと「司薬場」での活躍
肥前国(現在の長崎県)の有名な医者の家に生まれた柴田承桂は、長崎の分析究理所でゲールツから化学や薬学を学びました。ゲールツは彼の才能を非常に高く評価し、自身が明治政府の要請で京都や東京、横浜へ移動する際にも、常に柴田を右腕として同行させました。 ゲールツと共に東京司薬場や横浜司薬場の設立・運営に尽力し、海外からの粗悪な輸入医薬品を検査・排除する実務の急先鋒として活躍しました。
2. 『日本薬局方』の誕生に捧げた情熱
日本独自の医薬品規格基準書である『日本薬局方』の編纂は、もともとゲールツが草案を練り、政府に働きかけていた大事業でした。しかし、ゲールツが1883年に40歳で急逝してしまいます。 師の突然の死を受け、その遺志を継いだのが柴田承桂でした。彼は内務省の製薬検定官などの要職に就き、その後来日したオランダ人薬学者エイクマンらとも協力しながら執念で編纂作業を続け、ゲールツの死から3年後の1886(明治19)年、ついでに「第1版 日本薬局方」の公布へと漕ぎ着けました。
3. 日本の「公衆衛生」のパイオニア
彼の功績は薬学だけに留まりません。当時はコレラなどの伝染病が流行し、衛生環境の改善が急務でした。柴田は、日本で最初期に「水質検査(飲料水の化学分析)」の重要性を唱え、東京の井戸水などの検査体制を整えました。近代日本の公衆衛生行政の基盤を作った人物でもありすます。

丹羽藤吉郎
1. 柴田承桂らと共に『日本薬局方』の編纂に尽力
丹羽は東京帝国大学医学部製薬学科(現在の東大薬学部)の第1期生として学びました。卒業後、内務省の東京司薬場に勤務し、初代府長であったオランダ人薬学者エイクマンや、先輩である柴田承桂らと共に、日本の医薬品の最高基準書である『第1版 日本薬局方(1886年)』の編纂実務を支えました。
2. 「ドイツ留学」での衝撃と医薬分業への執念
1888(明治21)年、丹羽は薬学研究と衛生制度の視察のためにドイツへ留学します(柴田承桂のドイツ留学とほぼ同時期です)。 ここで丹羽は、ヨーロッパ(特にドイツ)において医師と薬剤師の職能が完全に分離され(フリードリヒ2世の医療勅令から続く伝統)、薬剤師が国民の健康を守る独立した専門職として高く尊敬されている実態を目の当たりにし、深い感銘を受けます。
帰国後、彼は「日本が真の近代国家になるには、医師の処方と薬剤師の調剤を分ける『医薬分業』の確立が不可欠である」と確信し、その法制化運動に全精力を傾けるようになります。
3. 日本薬剤師会の創設と「薬律」制定運動
丹羽は、薬剤師の地位向上と職能の確立のために、仲間たちと共に日本薬剤師会の設立(1893年)に奔走し、のちに第3代会長に就任しました。
当時の日本は、医師が自ら薬を調合して利益を得る体制(薬価差益)が深く根付いており、医師会や政界からの猛烈な反対がありました。丹羽はそれに屈せず、新聞や雑誌、演説を通じて「医薬分業の必要性」を国民や国会に訴え続け、医薬制度の根本となる「薬律(のちの薬事法・薬剤師法)」の制定に向けて議会への働きかけを続けました。
4. 澁澤榮一らとの「日本薬学専門学校」の創立
丹羽は、質の高い薬剤師を育成することこそが分業への近道であると考え、教育にも力を入れました。 1904(明治37)年、実業家の渋沢栄一らの支援を受け、日本初となる私立の薬学教育機関「日本薬学専門学校」(現在の東京薬科大学の源流の一つ)を創立し、初代校長に就任しました。

正親町実正
公家(正親町家)出身の華族である正親町実正は、明治維新後に内務省に入省し、長与専斎の直属の部下(衛生局員)として日本の初期の衛生行政・薬事行政に携わりました。
1. 「調剤録」や「医事免許規律」の制定(医療制度の近代化)
明治8年(1875年)、長与専斎のもとで日本初の統一的な医療規制である「医制(いせい)」が公布・実施されていく過程で、正親町実正は薬事や医師の業務規定を取りまとめる実務を担当しました。 特に、医師がどのような薬を投与したかを記録する「調剤録(現在の処方箋・調剤録の原形)」の義務化や、医師・薬種商の取締ルールの作成において中心的な役割を果たしました。
2. 埼玉県知事や貴族院議員としての活躍
内務官僚として衛生局で実績を上げた後、彼は埼玉県知事(第9代)などを歴任し、地方自治の整備にも尽力しました。その後、伯爵として貴族院議員となり、明治から大正にかけて国政の場でも長く活躍しました。

大口喜六
1. 薬剤師から政治の道へ
三河国(現在の愛知県豊橋市)の薬種商の家に生まれた大口は、東京帝国大学医学部製薬学科(現在の東大薬学部)で学びました。卒業後は地元で薬局を経営する傍ら、豊橋市議、愛知県議を経て、衆議院議員(当選8回)にまで上り詰めました。 彼が他の政治家と決定的に違ったのは、「薬剤師の資格を持つ国会議員」として、一貫して日本の薬事制度改革のために動いた点にあります。
2. 丹羽藤吉郎らと連携した「医薬分業」法制化への闘い
当時、日本薬剤師会の重鎮であった丹羽藤吉郎らが民間から「医薬分業」を訴えていたのに対し、大口喜六はその受け皿として国会内で法案を通すための政治工作を一手に引き受けました。
「薬律(薬剤師法・薬事法)」制定への執念: 当時は「医師が薬を出して儲ける(薬価差益)」のが当たり前であり、医師会やそれに連なる政治家からの抵抗は凄まじいものでした。大口は、1890年代から何度も「薬律案(医師の無制限な調剤を制限し、医薬分業を義務づける法案)」を議会に提出し続けました。
大正14年の「薬剤師法改正」: 彼の長年の闘いは、1925(大正14)年の薬剤師法改正(医師の調剤権制限への一歩)として実を結ぶことになります。完全な分業の実現には至らなかったものの、日本の法律に「医薬分業」の精神を刻み込むために、政治生命をかけて戦いました。
3. 豊橋市の近代化(初代豊橋市長)
政治家としての大口は、国政だけでなく地方自治にも巨大な足跡を残しています。1907(明治40)年、現在の愛知県豊橋市が市制を施行した際、初代の豊橋市長に就任しました。 上水道の整備や、兵頭(軍隊)の誘致などを進め、現在の豊橋市の都市基盤を作った「近代豊橋の父」としても地元で深く尊敬されています。

サムス
1. 「民主的医療の根幹」としての医薬分業の強力な推進
サムス准将は陸軍軍医であり、アメリカ本土で医学と軍事衛生を学んだ専門家でした。彼は終戦直後の日本の医療体制を観察し、「医師が薬を調合して直接販売し、薬代で利益を得ている(薬価差益)」という構造を、患者の安全を脅かす封建的で非倫理的な利益誘導であると激しく批判しました。
彼は「診察・処方を行う医師」と「調剤・鑑査を行う薬剤師」を完全に分離独立させることが、日本の医療を近代化・民主化するための絶対条件であると断じ、GHQの強い権限をもって日本政府(厚生省)と日本医師会に医薬分業の実施を厳しく命じました。
2. 医師会の猛反対に対する「GHQ圧力を背景とした説得と強制」
当然ながら、当時の日本医師会(武見太郎らが台頭する直前の時期)や多くの医師たちは、経済的打撃や診療権限の制限を恐れて猛烈な反対運動を展開しました。
これに対しサムスは一歩も引かず、「医薬分業を受け入れないならば、日本の医療制度全体の改革(日本の保険診療体制や薬事法改革など)の進展を認めない」という強い態度でのぞみました。彼の強力なバックアップがあったからこそ、当時の日本薬剤師会(石館守三ら)は医師会との熾烈な交渉において互角以上に渡り合うことができ、1951(昭和26)年の「医薬分業法(いわゆる分業3法)」の成立へと結実したのです。
3. 薬事法の抜本改正と「厚生行政」の近代化
サムスの貢献は分業の強制だけに留まりません。彼は日本の旧来の警察主導だった衛生行政(旧内務省衛生局的な体制)を解体し、予防医学と公衆衛生を重視する近代的な「厚生省行政」へと刷新しました。 1948(昭和23)年の「旧・薬事法」や「薬剤師法」の制定・改正を主導し、薬剤師が単なる「調剤屋」ではなく、国家資格を持った専門職として責任を果たすための法的フレームワークを再構築しました。
歴史のパズルにおける「サムス准将」の位置づけ
13世紀のフリードリヒ2世から続く「医薬分業」の壮大なストーリーにおいて、サムス准将は「外部からの絶対的な変革者(黒船)」として決定的な役割を果たしました。

石館守三
1. ハンセン病治療薬「プロミン」の国産化(化学者としての偉業)
石館守三は、東京帝国大学医学部薬学科を卒業後、研究者として極めて優秀な業績を残しました。 最も有名なのは、当時「不治の病」と恐れられていたハンセン病の特効薬である「プロミン」の合成・国産化に成功(1946年)したことです。これにより、日本国内の多くのハンセン病患者が救われることになりました。彼は東京大学薬学部の教授を務め、学問の世界でも頂点を極めました。
2. 「薬事法改正」と医薬分業の権利化(昭和の分業闘争)
大口喜六らが大正時代に勝ち取った薬剤師法は、まだ不完全なものでした。戦後、日本の医療制度を民主化・近代化するにあたり、石館は日本薬剤師会の副会長や会長、そして厚生省の薬事審議会会長などの要職を歴任し、法改正の最前線に立ちました。
1951(昭和26)年の「医薬分業法」制定: 医師会との激しい攻防の末、いわゆる「分業3法」の成立を裏から表から支えました。この時、ついに法律上は医師の処方箋発行が義務付けられ、明治以来の悲願であった「医薬分業」の法的枠組みが完成しました(ただし、当時は医師の「例外規定」が多く、実際の分業率が本格的に上がるのは1970年代以降になります)。
現代の「薬事法」の礎: 薬の製造、販売、安全管理をより厳格に定めた1960(昭和35)年の新「薬事法」の制定にも中心人物として関わりました。
3. 「東大薬学部」の独立(薬学教育の近代化)
それまで日本の薬学は、常に「医学部の中の一学科(医学部薬学科)」という位置づけであり、医学の下部組織のように扱われがちでした。 石館は、薬剤師や薬学者が医師から完全に独立したプロフェッショナルであるためには、教育組織の独立が必要不可欠であると考えました。彼の強いリーダーシップにより、1958(昭和33)年、東京大学医学部から「薬学部」が独立。これがモデルとなり、全国の国公立大学で薬学部の独立が進み、現在の薬学教育の地位が確立されました。

石井道子
1. 現場の薬剤師から政治の道へ
埼玉県生まれの石井は、東京薬科大学(かつて丹羽藤吉郎が創立に関わった日本薬学専門学校の源流)を卒業後、地元で薬局を経営する現場の薬剤師でした。その後、埼玉県議会議員を経て、1984年に参議院議員に当選。大口喜六と同じく「薬剤師の資格を持つ国会議員」として、日本の医療・薬事制度の改革に全力を注ぎました。
2. 「形骸化していた医薬分業」を動かした執念
石館守三らの尽力により、1951(昭和26)年に「医薬分業法」は成立していました。しかし、当時の法律には医師が自ら調剤できる「例外規定」が多く、医師側も薬を出すことで得られる利益(薬価差益)を手放さなかったため、昭和50年代になっても日本の医薬分業率はわずか10%未満という状態が続いていました。法律はあるのに機能していない、いわば「形骸化」の時代です。
石井道子はこの現状を打破するため、国会や厚生省(当時)に対して猛烈な働きかけを行いました。
「処方箋料」の引き上げと「薬価差益」の縮小: 医師が薬を出しても儲からない仕組み(薬価の引き下げ)を作り、逆に「処方箋を発行したほうがメリットがある」ように医療報酬の構造を変えるよう、政治の舞台から強く迫りました。
「分業元年」への道筋: 彼女らの政治的なアプローチが実を結び、1990年代に入ると日本の医薬分業率は急上昇。政府が「分業元年」と位置づけた1997(平成9)年前後には、日本の医療現場で処方箋の完全発行が当たり前の光景となり、現在の分業率70%を超える先進国並みの医療体制がようやく実現しました。
3. 女性薬剤師初の閣僚(環境庁長官)
1996(平成8)年、第2次橋本内閣において環境庁長官(現在の環境大臣)として初入閣を果たしました。これは日本の女性薬剤師として史上初の快挙であり、薬学・公衆衛生の知見を活かして当時の環境問題(ダイオキシン対策や地球温暖化対策)に取り組みました。

長与専斎
1. 「衛生(Hygiene)」という言葉の誕生
明治初期、長与専斎は岩倉使節団の一員として欧米の医療・社会制度を視察しました。そこで彼は、国家が国民の健康を守るために環境や伝染病を管理する「Hygiene(ハイジーン)」という仕組みに出会い、大きな衝撃を受けます。 帰国後、彼はこの概念を日本語に翻訳する際、中国の古典(『荘子』)から「衛生」という言葉を選び、日本に定着させました。これが日本の公衆衛生行政の始まりです。
2. 初代内務省衛生局長として「司薬場」を統括
長与は明治政府の医療・衛生行政のトップ(初代内務省衛生局長)に就任します。 彼が直面した最大の課題の一つが、海外から流入する「粗悪な西洋薬・偽薬」の横行でした。これを防ぐために、長与はオランダからアントニウス・ゲールツを招聘し、薬を検査・分析するための国家機関である「司薬場(東京・横浜・京都・長崎など)」の設立を強力に後押ししました。
3. 『日本薬局方』編纂の最高責任者
ゲールツが草案を練り、柴田承桂やエイクマン、丹羽藤吉郎らが実務を担った『第1版 日本薬局方(1886年)』の編纂プロジェクトの最高責任者(総裁)を務めたのが、この長与専斎です。 国家としての薬の基準を定めなければ、医師と薬剤師を分けること(医薬分業)も、国民の命を守ることもできないという彼の強い信念が、薬局方の完成へとつながりました。
補足:歴史の数奇なめぐり合わせ
長与専斎は、適塾で緒方洪庵に学び、のちに長崎でオランダの軍医ポンペ(ボードウィン兄の前の人物)から西洋医学を直接学んだ人物です。
つまり、
長与専斎が長崎でオランダ医学の基礎を学ぶ
自身が官僚となり、ゲールツ(オランダ人)らを招いて日本の薬学の基礎(司薬場・薬局方)を作る
その後、弟子たちがドイツ留学を経て、日本の医療を完全なドイツ流・近代公衆衛生へと進化させる
という、日本の近代医療が「オランダからドイツへ」とダイナミックに変化していく結節点に、常に長与専斎がいました。
13世紀のフリードリヒ2世の医療勅令(医薬分業の思想)を、明治の日本に「衛生行政」という巨大なシステムとしてパズルのようにはめ込んだのは、他ならぬ長与専斎の先見の明だったと言えます。
私は、環境庁に勤務していたときに石井道子長官におつかえしました。
国会でのエピソードもあります。
調べていて歴史を感じました。
