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西南戦争は、鹿児島・熊本・宮崎・大分の四県が主たる戦場となり、軍陣医学的には多くの進展があった

西南戦争は、九州の鹿児島、熊本、宮崎、大分の四県が主たる戦場となりました。

一八七七(明治一〇)年二月から九月までの約七か月間にわたって、政府軍と薩軍との戦いが続けらました。軍陣医学的には多くの進展がありました。

薩軍は、ウィリスが校長をしている鹿児島医学校で学んだ医師たちが、軍医として従軍しています。

薩軍は、熊本城の攻防戦では、熊本市の川尻にある延寿寺に野戦病院を置きました。

八人の医師により高度な手術が行われていました。延寿寺に運ばれた薩軍の埋葬者は、八五三人に上っています。

政府軍は、前線に、包帯所や野戦病院を設け、後方の大阪に臨時陸軍病院を設置しました。

重症患者を船で大阪に後送して治療を行っています。

大坂に設置された臨時陸軍病院には、世界的な外科医ビルロートに学んで帰国した順天堂医院の佐藤進をはじめ高名な民間の医師たちが軍医となって治療に従事しました。

伝説の医系技官の後藤新平も勤務しています。

弾痕の蔵

宮崎県の延岡市北川の俵野にある児玉熊四郎邸に行ったことがあります。

西郷隆盛が宿泊した家で、NHKの大河ドラマ「西郷どん」の原作者の林真理子氏も取材に来ています。

西郷は、児玉邸の庭で陸軍大将の服を焼きました。この時の日本の陸軍大将は唯一人でした。

大将服 焼きしはここか 鴨脚草(ゆきのした)

俳人の水原秋桜子がここで句を詠んでいます。

水原秋桜子は、東京帝国大学医学部出身の医師で、昭和大学の産婦人科の教授をしていました。

宮崎西高校の先輩が「みずはらあきさくらこ」と読んで現代国語の先生に怒られたという話が残されています。

正しくは「しゅうおうし」ですが、誰も読めるはずがないと思います。

西郷は、野戦病院の担当者を呼んで、怪我人は険阻な山道は越えられないから、ここに留まるように言い渡します。

「万国公法もあるので、病院には苛酷の事はないだろう」と述べて、「病院」の旗を立てるように指示しました。

片足を失った息子西郷菊次郎も病院に残されます。

児玉邸の後ろには、高天原から天孫降臨したニニギノミコトのゆかりの山があったことから、皇室に刃向かうことを恐れて、政府軍は砲撃を控えていたといわれています。

政府軍は、五万人を超える部隊で薩軍を取り囲んでおり、もはや袋のネズミでした。

政府軍は八月一八日の明け方に総攻撃を仕掛ける予定でした。

政府軍のたいまつの灯りは、夜空の星のように見えたといいます。

八月一七日の深夜、西郷らは密かに脱出し、可愛岳の頂上を目指しました。

可愛岳には第一旅団と第二旅団がいましたが、突然の襲来で混乱して、薩軍の突破を防げませんでした。

第二旅団の本営が突破され、取り逃がしてしまいます。

脱出に成功した西郷の軍勢は約五〇〇人でした、西郷らは、三田井(現在の高千穂町)に向かい、ここに保管してあった政府軍の兵糧、武器、現金を奪います。

そして、故郷鹿児島へ向かう決心をしました。

馬上の美少年の像

政府軍は西郷らの動きがつかめませんでした。

鬼神野村の戸長だった若杉信任は、政府軍に、西郷らは椎葉山方面を通るという情報を伝えました。

そこで鬼神野にいた政府軍の部隊は、椎葉山に向かって移動しました。

そのすきに西郷軍は、鬼神野を通って南下したのです。

政府軍の軍医石坂惟寛が、鬼神野の近くの神門で西郷軍に捕まりました。

軍医だったことから丁寧に扱われています。

石坂は西郷と面会して「負傷者を治療してくれ」と頼まれて治療を行っています。

命拾いをした石坂は、後に軍医総監、医務局長となっています。

西南戦争が終わって三か月経過した明治一〇年の年末に、若杉戸長の家に美々津からきた警察官が訪問しました。

若杉戸長は連行されて、美々津から船で東京まで後送されて裁判を受けました。

そして判決が出ない中、獄中で死亡しています。

若杉の偽情報がなければ、鬼神野が西郷隆盛終焉の地となったかもしれません。

若杉の名前は、鹿児島市の城山にある西南戦争の戦没者の中に刻まれています。

人吉隊には椎葉姓の隊士がいました

若杉戸長のことを短編小説にしました。

椎葉村に伝わる民謡ひえつき節も登場させました。

「瀨平石」というタイトルで九州佐賀大衆小説賞に応募しました。

最終選考に残ったと、担当の方から連絡がありました。

選考は午後6時半から始まり、遅くとも8時までには大賞が決定されます。結果が決まり次第、携帯に連絡します。

その頃は、環境省に勤務しておりました。

18時36分に電話がかかってきました。

早すぎるので、九州佐賀大衆文学賞ではないだろうと電話に出たら、落ちたとの連絡でした。

しくしく。わずか6分で決まったとは……。

後に最終選考の状況がネットにアップされていました。真っ先に落とされておりました。

北方謙三先生からは、「短編の題材ではない」、夏樹静子先生からは、「主人公が直面する問題がすぐに解決してしまう」と手厳しい批評が……。

もう一人の選者の森村誠一先生は、体調不良で欠席なさっておりました。

この後に、西南戦争を描いた別の作品「繊月」を九州佐賀大衆文学賞に送りましたが、最終選考に入らずリベンジはできませんでした。

10年前に九州佐賀大衆文学賞はなくなりましたが、歴代の受賞者の中からは多くのプロ作家が誕生してご活躍中です。

この中で、今村翔吾先生は椎葉村で秘境の文筆家をプロデュースされております。

植松三十里先生は、noteで歴史小説の書き方を連載されており、すごく勉強になります。

いつか私も歴史小説の世界に参入したいと思います。ご興味のある方は、読んでみて下さい。

但し有料ですが……。


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