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ヤギを飼っていた小学校①おもしろい学びのなかで

私が卒業した小学校は、国立大学教育学部の附属校で、「教育の研究対象」として存在する学校だったので、いま思えば面白い教育を受けた。

noteクリエイターさんの中には、同窓の人もいるかも知れない。「同じクラス?!」とピンときた人はこっそりメッセージください。

自分の子が不登校になってみると、ないものねだりで、あの学校に子どもが通っていたら楽しく通えたのだろうか?などと考えてみる。

子どもの性格だから、なんとも分からない。

それでも、ちょっと自分の小学校時代を紐解いてみたくなった。



ヤギのいる学校

この小学校は、各クラスで一頭または一匹、もしくは一羽ずつ動物を飼うことになっていたようだ。
あるクラスはカラス、あるクラスはアナグマ、あるクラスはカメ。

広い敷地内には七面鳥や烏骨鶏などもいて、さながら動物園のようだった。たしか学校目標の1つに「いのちをたっとぶ学校」と書いてあった。

「アナグマ」を飼っていたのは姉のクラスだった。
「アナちゃん」と名付けられたその子は「アライグマ」だったらしい。と思ったら、卒業後に、あれはタヌキだったと判明した。

アライグマもタヌキも、それぞれ異なる理由で飼うことはできない。

タヌキ=鳥獣保護管理法違反
アライグマ=外来生物法違反

いずれにしても限りなくブラックに近いグレーゾーンだったのだな。あやうくそのクラスの担任が捕まるところだった。

アナグマは飼おうと思えば飼えるようだけど、姿形は全く異なる。
もしかしたら確信犯だったのかもしれない。

私たちのクラスは、ヤギを飼っていた。


メメちゃん

小1のとき、担任の先生が「ヤギさんを飼おうと思うんだ」と言った。

小1にはそう言われてもよく分からない。
先生が飼うというのだから、飼うのだろうと思った。

ヤギのために、みんなで柵と小屋を作った。

たしか日曜参観日で親たちがたくさんいる日に、ノコギリで板を切り、板に釘を打って組み立てた。
そのとき私は初めてノコギリを使い、釘を打ったのだった。

指にトンカチを打ってしまったけれど、大したことはなかった。ヤギの小屋を作るワクワクの前には。

最後にペンキで色を塗った。

ある日教室に行くと、ブルーシートを敷いた教室の真ん中に、ヤギがいた。

メエメエ鳴いていたので「メメちゃん」とみんなで名前をつけた。

メメちゃんは、よく頭突きをしてきた。

校庭の脇に生えているニセアカシアの葉が柔らかく、餌に良いらしかった。
だから、みんなでニセアカシアを採っては食べさせた。

おからが身体に良いと聞いては、学校の近所の豆腐屋さんに何人かずつでもらいに行った。

綱をつけて学校の裏にある原っぱに、みんなで散歩にでかけたり、餌をやったり。
メメちゃんとの日々は楽しかった。

それから大人と体重計に一緒に乗って、大人の体重を引くという、生きた算数もしていた。

担任の先生は、メメちゃんを題材にした、歌の入った劇を作った。

草を食べているメメちゃんに、雲さんが語りかける。
「一緒にお空に散歩に行こう」

メメちゃんと、クラスの35人の子どもたちは一緒に雲に乗ってお散歩にでかける。

空の散歩を楽しんで、最後に雲さんとさよならして幕。

私のセリフはこれ。
「わたし、こわくて足がすくんでしまうわ」

わたし、の「し」がうまく言えなくて、よく笑われた。

この音楽劇を、音楽発表会で披露した。
母が録音していたので何度も聴いた。よくできた作品だったと思う。いまも間違えずに歌える。

♪あおいおそらに まっしろなくもさんが かぜさんといっしょに あそんでいました
おそらのしたの みどりのはらっぱで まっしろなやぎさんが くさをたべていました
(作詞作曲 A・A先生)

当時気づかなかったけれど、先生は作詞作曲の音楽的才能があったのではないだろうか。

担任が歌を作って発表するのは、この数年後には禁止されてしまったらしい。公平性に問題があったのかもしれない。

メメちゃんは、この年度の冬、肺炎を起こして死んでしまった。
雪の日に、当番の子が小屋にいれるのを忘れてしまったのだそうだ。

でも小1ではないか。最終責任は先生だったのではないか。

メメちゃんを思ってみんなで作った文集には、メメちゃんを悼むより、2人の当番を責める言葉であふれていた。それでも発行されてしまった。

その点は、至極残念で悲しかった。

※2026年4月14日、新事実がわかりました。
この音楽劇は、天国に行ったメメちゃんに雲に乗って皆で会いに行き、メメちゃんに謝り、ゆるしてもらうという話でした。


シロ

翌年の春、クラス全員でバスに乗ってでかけた。
着いた先は、なんとヤギ牧場。
たくさんのヤギがくつろいでいて、その中の1頭のヤギを、私たちのクラスで飼うことになった。

2代目のヤギの名前は「シロ」。

シロはしばらくしたらお腹が大きくなった。一度里帰りし、再び2匹の赤ちゃんヤギと一緒に戻ってきた。

子ヤギの「ユキ」もよく頭突きをするおてんばさんだった。双子のもう1頭は「リキ」というオスだった。

野原への散歩は、3頭と子どもたちになった。

秋には皆で草刈り鎌を持ち、歩いて学校のすぐ裏にある山に行って草を刈り、それを干して束ねた。

冬の間のシロの食料としたのだ。
鎌の使い方、山に生える植物、干し草の意義などを学んだ。

学校行事ではなく、自分たちの飼っているヤギのために、それをする。
その中で学ぶことは、すべてが体のなかにするっと流れ込んでくるものだ。

秋にはやはり山に入って大量の落ち葉を拾い、焚き火をして焼き芋大会をする学校だった。
そこで、落葉について、そして火について学ぶ。
山はとても身近な教材だった。

いまも、山でたくさん見かけたカタクリは、私の一番好きな花のひとつになっている。

3年生の終わりに、シロと双子の子ヤギたちをヤギ牧場にお返ししてお別れし、私たちはヤギとの生活を終えた。

この記事を書くに当たり調べてみたら、ヤギを飼う小学校がいま結構あるようだった。

そしてヤギの名前はどの学校でも「シロちゃん」「ユキちゃん」。1、2頭だとそうなるのだな。
低学年の子の名付けは単純である。


大豆から豆腐とおからを作る

2年生のとき学級の畑で大豆を作り、秋に収穫した。
その大豆を一晩置いてふやかし、砕いてすりつぶしてから煮て、搾って豆乳とおからにわける。

おからはヤギのシロちゃんにあげて、豆乳は豆腐にすることになった。

豆腐を作るにあたり、まず木で型を作るところから始まる。たぶん、これも参観日で親と一緒に作ったと思う。

釘を打ち、ひとり1つずつ豆腐の型を作った。
すっぽりハマる取っ手付きの蓋と、底に足を釘でつける。

最後に水を抜くための穴を大人が電気ドリルで開けて完成。

小2当時のもの
使いたくてうずうずしている
まだその時がこない

さらしを敷いて、ニガリと合わせた豆乳を流し入れて水を抜きながら固めると、木綿豆腐が完成する。

できたての豆腐を皆で食べた。

味は全くおぼえていないけれど、豆から豆乳とおからを分けて豆腐を作った、という光景は鮮明に頭に蘇る。
その授業は楽しくて、魔法のようだったのだ。


学校の縮尺模型を作る

この学校は1年を通してこのような何かしらの体験や実験を行い、年度末に各クラスで子どもたちがやったことを作文に記し、学校全体で1冊の本にしていた。

6年の時のそれは、「学校の縮尺模型を全員で作る」というものだった。

私は校庭の班だった。

企画から分担、道具ややり方まで、先生は何も教えてくれない。自分たちで提案し、これまで6年間に学んだことを駆使して模型を作り上げなければならない。

だいたい算数などの得意な人がリーダーシップをとり、それに従う空気で、私はもちろん従う方の側であった。

校庭で影を使って巨大な木の大きさを測り、縮尺して作って組み立てていく。

これがなかなか思い通りにいかなかったけれど、全員で作った木々や遊具などが置かれた校庭、6年間通った校舎、道路や築山などが組み合わさった様は圧巻であった。

②③に続く。


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