ヤギを飼っていた小学校③〜思い出いろいろ
私が卒業した小学校は、国立大学教育学部の附属校で、「教育の研究対象」として存在する学校だったので、いま思えば面白い教育を受けた。
過去を紐解く記事③。
前回の記事①②はこちら。
思い出いろいろ
書いているといろいろ思い出してくるものだ。
小さなものをつらつらと。
体罰
小学校では、体罰もあった。
忘れ物をした時。
宿題をやらなかった時。
悪いことをした時。
方法は主に3種類。
両顎の左右の肉をつまんでひっぱるつねり。
2人の子どもの頭を左右からぶつけるぶつけ。
そしてげんこつ。
私は忘れ物が多くて、しばしば体罰を受けた。
でも忘れ物は結局最後まで直ることはなかった。
体罰で忘れ物が直るものではないのだと、今なら分かる。
音楽の先生は、お尻のすぐ下をつねるのが一番痛いんだと言いながらつねった。
自分が悪いという自覚もあったので、親たちにはあまり知られなかったのではないだろうか。
知ったとしても、社会では体罰は当然の空気であった。
感情に任せて怒られた記憶はないので、先生方は「冷静に体罰を行なっていた」。
4年で離任した担任は最後の挨拶で、
「みんなが憎くてやったのではない、愛していたからやったんだ」
と泣きながら語った。
だから?ではある。でもなんだか私も含めてみんなもらい泣きしていた。
愛情ももちろん感じていたけれど、それは日常の触れ合いからであり体罰は痛みしか残らない。
体罰は、はっきり言えばなんの解決にもならない。
でももしかすると体罰を受けたことで、将来的に、理不尽なことに耐える精神も少しは身についたのかもしれない。
良しあしはともかく。
なお高学年の担任は、一切の暴力のない先生で、十分すぎるほど愛情深くかかわってくださり、生徒たちもとても落ち着いていた。
友達と大福やカップケーキなどを作っては差し入れに行ったのもよい思い出。
石投げ事件
以前、ランドセルの思い出を書いたことがある。
この記事に書いたいつもの帰り仲間男女6人で、というより、男子3人と女子3人は距離を置いて歩いていたのだけど、5年生の冬の帰り道、男子たちが川の向こうの大学敷地内の小屋にあるツララをめがけて、石を投げていた。
そこに偶然通りかかった男子学生さんの頭に石が当たってしまった。
「どこの学校だ!」と言われてとっさにヤンチャ男子のひとりが「〇〇小です!」と隣の学校の名前を挙げて逃げてしまった。
数日後。
6人全員が先生から呼び出され、厳しく怒られた。
女子は一緒にいたつもりはなかったけれど、目撃してなにも言わないのは同罪であった。
あの学生さんには大変申し訳ないことをした。
ケガされたかもしれない。
私たちは、あろうことか他校の名前を持ち出して逃げた。怒られて当然である。
忘れない記憶だ。
その後このウソをついた子は医者になった。
だからどうというわけではないけれど、少し有名になったらしいその名前を後年見た時、このときの情景がありありと蘇る。
彼は覚えているだろうか。
ちなみに上のランドセルの記事で私のランドセルを川に落としたのもこの男の子だった。
担任
この学校は当時クラス替えはなく、担任は3年か4年の持ち上がりと決まっていたので、まるで家族のような感じだった。
※現在はクラス替えがあるらしい。
転校してくる子は少し「よそもの」で、しばらく居心地が悪かったと思う。
担任は体罰もするし厳しくもあったけれど、昼休みには全員を車座にさせて本をたくさん読んでくれた。
白い石油ストーブがあって、その周りに丸く座って物語を聴く時間はいつもあたたかくて楽しかった。
4年の時、冬に乾布摩擦をするとよいというので、ヘチマを処理してスポンジ状にしたものを全員に渡し、毎朝上半身裸で乾布摩擦をしていた。
少し体の発達の早い女の子たちが猛抗議をして、やがて乾布摩擦はなくなった。
今でこそ怒って当たり前のことだけど、そういうことに鈍感だった私にとって、この抗議は「人には、先生に抗議してでも守らなければならないことがある」と知る機会になった。
後年、別の学校で校長になっているのを母から聞いて感慨深く思っていたのだけれど、まだ任期中、ある年の忘年会で用水路に落ちてしまい、そのまま亡くなってしまった。
志半ばで亡くなっただろうと思うと残念であった。クラスメイトの有志で、ご自宅にうかがった。
写真は私たちの担任をしているころの面影があって、亡くなったのが信じられなかった。
担任だった頃、家庭訪問で自宅に来た時に私のことを「変わっている子」と表現したらしい。
人と違う性格(特性)を、少し心配していたようだ。
母はそれを聞いて「個性を大事に育てていますから!それは褒め言葉で、うれしい言葉です」と言うと先生は驚き、戸惑いながら「まぁ、、お母様がそう言うなら」と、それ以上なにも言わなかったという。
そんなふうに私は担任から思われていたのだなと、だいぶ大人になってそれを聞かされて、小学校時代を思い出したのだったけど、小1から小4という時期を見てくださったので、そういうこともあるよね、と思うに留まった。
同和教育の授業のこと
前回の記事②でコメントをいただき、「同和教育を受けなかった。どのような授業だったのだろう」と問われたので、当時のことを思い返してみようかと考えた。
とはいえ、ほとんど内容を覚えていなかったので、わずかな記憶と同和教育そのものについて書いてみる。
同和教育
同和教育とは、「部落差別を中心に、あらゆる差別をなくすための教育」をさします。
学び!と人権 部落差別と同和教育(その1)
ひとことで言えば引用のとおりなのだけど、引用元の文章を読むと、1953年から現在に至るまで、何段階にもわたる歴史を経た教育であることがわかる。
部落差別問題とは、住んでいる地域や家系で継ぐ職業などにより、何世代にもわたって、いわれのない差別を受け続けた方々と、その地域のことで、同和地区は被差別部落の別の言い方。
都が近かったからか、西日本には被差別部落と差別問題が多いらしい。一方、東北地方では同和教育がされていない県がほとんどで、国から注意もされたようだ。
被差別部落出身の人には、戸籍調査などによる結婚差別や就職差別などもあった。
1950年代、被差別部落出身のために貧しくて教科書を買えず、学校に通えなかった子が多数いて、「差別は特別な場所ではなく、生活のなかにある」との考えから同和教育がはじまったようだ。
現在の教科書無償配布は、この教育と解放運動によるものだったと書かれてあって、そうだったのかと目から鱗が落ちるように思った。
私たちの学校での学びは、被差別部落とされる〇〇村での差別を、ドキュメンタリーのような映像で見るところから始まった。
たしか結婚しようとしたのに、戸籍調査の結果、結婚できなくなった恋人たちも出てきた。
映像は小さな子どもにとって最も分かりやすく心に響く。
そこから、授業は身近ないじめ問題へと発展。「実は差別は、遠いところの話ではない」ということで、クラスではしばしばコの字に向き合っての議論会が持たれた。
テーマはそのときどきで異なり「クラスにあるいじめやからかい」だったり、「人と違うこと」だったり「友達とは」だったり。
たしかにクラスには一時、いじめやからかいの問題もあった。
やがていじめの雰囲気がなくなったか薄くなったのが、この学習のせいなのかどうなのかはわからない。
4年の時に、担任から同和教育の冊子に載せる作文を書くよう言われたことがあった。
鼻水をいつも体操服で拭くとか、マーガリンを絞って食べていたとかで少し不潔に見られがちな子が、いじめとまではいかなくても嫌な目で見られることがあり、私はその子と積極的に仲良くしようと思っていた。
それを見た先生が、作文を書くよう言ってきたのだ。
でも、当時の私はきっと少し上から目線だったのではなかっただろうか。
「かわいそうだから」「仲良くしてあげる私は偉い」というような。
でもそう見せないよう、もっともらしい作文を書いて、冊子に掲載された。
嬉しさよりも、題材にしたその子への申し訳なさとか、心の狭いひどい自分をかえって認識することになって、もらった冊子はほとんど目を通さなかった。
そのときの違和感や自分への嫌悪感は、たぶん、体の奥底にある「優越感」とか「差別心」「偽善」だったのだと思う。
後年記者をしたときに感じた「メサイヤ・コンプレックス」にも通じていると思う。
そのあたりは過去の記事にも少し触れた。
いまだにそれを考えると、心が押しつぶされるようになって体温が下がる。
あらゆる人権の教育へ
さきほど紹介した日本文教出版の文書(Webマガジン 学び!と人権 部落差別と同和教育(その1))によると、1970年代からは部落差別だけではなく、在日韓国・朝鮮人、障がい者、平和などに取り組みを広げていった。
現在では、児童養護施設で育つ子どもたち、女性、LGBTQなど、あらゆる人権を考えるための教育になっているとのこと。
現在の現場の先生方は、子どもに伝える範囲が広くなり大変な思いをされていると思う。
それでも身近な問題として、自分自身も含めた一人ひとりの人権を守る大切さは、小さなうちから丁寧に伝えていくのは大事ではないだろうか。
私にとっては、いま抱く人権への思いの根っこは、この同和教育の影響も大きかった。
ただこれも、時の政権とか自治体の考え方によって取り上げ方が全く異なってしまうので、その教育を受けた人と受けなかった人とで温度差が出てくる。
それはとても残念だなと、今回記事にするにあたりあらためて感じた。
終わりに〜国立であること
実際に、入りたいと思っても国立大学教育学部の附属校に入るのは、ほとんど運であると思う。
どんなに幼児教室に入って受験対策をしても、はじめの抽選で外れれば試験にさえ進むことはできない。
でも国立大学の附属校で実験的な教育をするのであれば、その成果は公教育にもガシガシ取り入れられて、「運」の違いはなくなるはずなのだけど、実際にどこまで附属校の実践は公立校に還元されるのだろう。
私が受けた教育はユニークで、他校出身の子に話すと面白がられる。
その「面白い」教育はもっと広まってもいいのではないのだろうか。
敷地の問題もあるし、ヤギを飼うのはどの学校でもできるものではないのだけれど。
教育学や教育史などを学んだわけではないので、ちょっとしたたわ言である。
私の母校を支える「教師も子どもも探究者である」との考えは、普遍的だろうとは思っている。
母校はその後さらに自然豊かな方に移転したのだけど、ホームページを眺めると、相も変らずヤギを飼っている様子だった。
私たちがもしかしたら先駆者だったかもしれないなどと、勝手に妄想したりしている。
