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「かわいそう」って、だれ目線?|その言葉の裏にある、上から目線の心理。

「そんなに勉強して、かわいそうだね」
何気ない一言が、誰かの努力や喜びを奪うことがある。
「かわいそう」という言葉の裏にある“上から目線”と“常識の枠”を見つめながら、「幸せ」を私のものさしで考えてみた。


この記事は 「フリーランスの日常」シリーズの ㉑ です。
▼前回は、こちら


勉強するのは、「かわいそう」?

ある日、誰かが言った。

「そんなに勉強して、長男くん、かわいそうだね」

私も長男も、返す言葉が出てこなかった。

……かわいそう? なにが?
気になって、「かわいそう」という言葉を調べてみた。

みじめな状態にある人に対して、同情せずにいられない気持ちであること。ふびんなさま。

勉強することは、みじめなのだろうか?
たくさん学ぶことは、同情されることなのだろうか?

「かわいそう」って、もしかして「上から目線」?

長男は今、自分で計画を立てて、毎日コツコツ勉強している。
私は、その姿を心から尊敬している。

ついでに言うと、私が勉強を強要しているわけではない。

長男が
「ここの高校に合格したいから、これくらいがんばりたい」
と自分で決めて、今まさに有言実行中である。

私も長男も、
「やりたい勉強を思う存分できる」環境があることを、とても幸せだと感じている。

学ぶこと、それ自体も楽しい。

なのに「かわいそう」と言われたとき、私たちには、それがまるで逆の世界の価値観に聞こえた。

あまりにも正反対すぎて、脳が一瞬、フリーズしたのです。

その人に悪気はなかったと思う。
でも、こういう「かわいそう」って、もしかしたら“上から目線”が無意識のうちに入っているのかもしれない。

この出来事をきっかけに、私は「かわいそう」という言葉の中に潜む“常識の枠”を意識するようになった。

「常識」という小さな枠の中で

冒頭でも書いたが、辞書で調べると「かわいそう」という言葉の意味はこれ。

みじめな状態にある人に対して、同情せずにいられない気持ちであること。ふびんなさま。

ふむふむ。
なるほど。

「かわいそう」と発言する人の心の中には、相手に対して「みじめ」「同情」「ふびん」といった気持ちが含まれている。

「かわいそう」って、無意識で“自分の常識の中”から見ている。

私と長男にとっては「かわいそう」ではない。
むしろ、「幸せ」だと感じている。

一方、「かわいそう」と言った人は、その状況を“かわいそうだ”と感じている。

これって、無意識に“自分の常識の中”から見ているのではないだろうか。
その人の常識の中では、自分と違うものは「非常識」。
だから、「かわいそう」。

「かわいそう」って言われる場面は、いろいろある。

結婚していなくて、かわいそう。
子どもがいなくて、かわいそう。
親がシングルで、かわいそう。
ハードなスポーツの練習が毎日あって、かわいそう。
小さいころから勉強させられて、かわいそう。

でも、これって本当に“かわいそう”なんだろうか。

もちろん、誰かに強制されているなら「かわいそう」だと思う。

けれど、本人がそれを望んでいて、楽しんでいるなら……
それは「かわいそう」ではなく、「幸せ」なんだと、私は思う。

幸せは、他人が決めるものじゃない

「かわいそう」という言葉を使うとき、私たちは無意識に“自分の常識の中”から物事を見ている。

そして、よくよく考えると……

それは“上から目線”で見ていることも多い。

「あなたはみじめで、私はみじめじゃない」
「あなたに同情する私って、優しい」
「あなたはふびんだから、私が気にかけてあげる」

そんな心の奥の“構図”が、「かわいそう」という言葉の中には、静かに潜んでいる。

私と長男は、「かわいそう」って言われたとき、その“上から視線”を確かに感じた。

でも、人の幸せって、他人のものさしでは測れない。
他人の常識で考えるものでもない。

唯一、測れる基準があるとしたら……
それは「自分の常識」だけ。

私の常識以外で、「幸せ」かどうかを決めてはいけない。

たとえ理解されなくても、私が「これがいい」と思えるなら、それが幸せ。
長男が勉強をがんばっている姿は、私にとっても幸せそのもの。

「かわいそう」じゃなくて、
「すごいね」「かっこいいね」「さすがだね」
そんな言葉を、私はこれからもかけていきたい。

そして、そんなふうに言い合える環境を、「幸せ」だと感じていきたい。

“かわいそう”のない世界で

もし、「かわいそう」という言葉がなくなったら、この世界は、少しだけやさしくなる気がする。
他人の生き方を「かわいそう」と決めつけずに、「その人らしいね」と受け止められる社会。

「かわいそう」って、私もつい口にしてしまうことがある。

でもその裏には、いつも“私の常識”や“上から目線”の構図が潜んでいることを、心に留めておこう。

言われた側の心の中には、「私って、みじめ?」「不憫?」という小さな痛みが残るから。

「かわいそう」って、無意識で“自分の常識の中”や“上から目線”が潜んでいる。

そんな私への小さな戒めを込めて。
これは、「かわいそう」についての私なりの考察です。

私の常識は、他人の非常識。
他人の常識は、私の非常識。


その当たり前を、これからも静かに心に刻んでいこう。


この記事は「フリーランスの日常」シリーズ ㉑ でした。
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